浮気は罪ですか?《ユダヤ教の価値観とキリスト教の価値観》
不純愛トーク 第179夜
愛し合うふたりが生活を共にできるかどうか? そこでは、「価値観」を共有できるかどうかが重要、という話を続けています。その価値観を形成する上で、ものすごく大きいのが、「宗教」の問題。今回は、紛争の原因ともなっている、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教――似て非なる3つの「アブラハム宗教」の問題に触れてみます――。
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AKI 価値観が違うということは、その生き方も、政治的・社会的スタンスも、生活信条も、すべてがちがってしまうことになる。そんなふたりが生活を共にするということはむずかしい――と、前回はそんな話をしたのでしたね。だから、創価学会員と日本共産党員が結婚するなんてことは、考えられない――と。
哲雄 ふたりが、熱心な学会員であり、まじめな共産党員であればあるほど、むずかしいと申し上げました。
AKI 同じことが、宗教が違うという場合にも起こりますよね? たとえば、夫がイスラム教徒で、妻がキリスト教徒――なんていう場合も?
哲雄 日本人同士だと、適当に折り合いつけちゃうだろうけどね。
AKI そ、そうなんですか?
哲雄 前にも言ったと思うけど、日本人は、宗教に関しては何でも来い――的なところがあるからね。なにしろ、結婚式はキリスト教式で、葬式は仏教で、正月には神社に参拝するって民族だから。アッラー(イスラム教の神)も、ヤハウェ(キリスト教の神)も、似たようなもんじゃないか……と、一緒くたにしてしまうかもしれません。実際、元はおんなじなんだけどさ……。
AKI エッ、エッ!? そうなんですか?
哲雄 そうですよ。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教、この3つの宗教は、根っこは同じなんです。信じている神様は、同じ唯一絶対神で、信徒の祖先がアブラハム、というのも共通。なので、この3つの宗教を「アブラハム宗教」と呼んだりもします。
AKI 後学のためにも、その3つの宗教の違い、知りたいんですけど。
哲雄 ちょっと恋愛から離れちゃうけどなぁ。ようがす、簡単にまとめておきましょう。この3つのうち、いちばん古いのは、ユダヤ教なんだけど、そのユダヤ教のルーツになったのは、ペルシャのマズダ教なんだよね。マズダ教では、アフラ・マズダを中心とする善神群と、アーリマンを中心とする悪神群の、善悪2神の間で、延々と闘いが繰り広げられるんだけど、後にこのマズダ教は、アフラ・マズダを最高神とする一神教=ゾロアスター教に発展するんだよね。これが、ユダヤ教のベースになった。重要なのはね、一神教が成立する背景には、この《善悪二元論》があったってことなんだ。そして、それが、西欧的なものの考え方のベースになってる。
AKI 善悪二元論が……ですか?
哲雄 そう。西欧のものの考え方っていうのは、善か悪か、神か悪魔か、YESかNOか――っていうふうに、いつも二項対立的に語られるでしょ。その中間がないし、あいまいとかファジーという領域がないし、両者を超える第三の次元というものがない。直線的なんだよね。「あんた、その女と寝たの? 寝てないの? どっちなの?」と迫る、怖いカミさんのようなもんです。
AKI エッ――と、ちと、わかりにくいたとえですけど、もし、二項対立的でないと、浮気問題はどうなっちゃうわけですか?
哲雄 いや、あれは浮気なんていうものじゃない。功徳を施しただけであるとか、これも回向(えこう=自ら得た功徳を他者の利益のために振り向けること)である――とか、いろいろ、言い様がある。多元的な文化の中では、物事の解釈は、そのように色彩豊かで、奥深いわけです。ところが……。
AKI ハイ、ハイ。善悪二元論の世界だと、「やったの? やらなかったの?」になっちゃうってわけですね。で、そのゾロアスター的な一神教をベースとして、ユダヤ教が生まれた――と?
哲雄 ユダヤ教の神=ヤハウェは、唯一神であるばかりでなく、絶対的な神でした。けっこう、わがままを言うんですね。「おまえはこれから、カナン(現在のパレスチナ)の地へ行け」と、突然、命令を下したりするわけです。アブラハムがこれに従うと、ヤハウェはアブラハムに「この地をあなたの子孫に与えよう」と約束し、100歳を超えたアブラハムに子どもを授けます。ところが、今度は、その子どもを「犠牲として捧げよ」と命じるわけですよ。
AKI 信じられな~い。超わがままじゃないですかぁ?
哲雄 唯一絶対ですからね。で、この神は、アブラハムがその命令に従ってわが子の命を奪おうとしたのを見て、その信仰をよしとし、アブラハムとの間に契約を結んで、次々に祝福を与えていくことになるわけですが、この段階での「契約」は、あくまで神とユダヤ民族との間の契約でした。つまり、ユダヤ教というのは、あくまでユダヤの民族宗教だったわけですね。そこへ、イエスという人物が登場してきます。
AKI イエス、つまり、キリストですね?
哲雄 いいえ。イエスは、ある種の人たちにとっては「キリスト」ですが、ある種の人たちにとっては、ただの大工のせがれにすぎません。「キリスト」っていうのは、「普通名詞」なんだよね。
AKI エッ!? そうなんですか? 「総理大臣」とか「大統領」と同じような?
哲雄 「総理大臣」とか「大統領」は「役職」ですが、「キリスト」は、「役職」ではなくて、「救い主」という意味の普通名詞。ヘブライ語では「メシア」と言います。ユダヤ教の教えの中では、この世の終末には、この「救い主(キリスト=メシア)」が現れて、自分たちユダヤ民族を救ってくれる、と言われていました。
AKI 救ってくれるのは、ユダヤ民族だけなんだぁ……。
哲雄 ユダヤ民族には、「自分たちは神に選ばれた民である」という《選民意識》があった。それがゆえに、周囲の他民族との折り合いがうまくつかないところもあるんだけど、とにかく、救われるのはユダヤ人だけ。ま、民族宗教だから、しょうがないっちゃ、しょうがない。で、その終末とはいつか?
AKI 1999年、7の月……とか?
哲雄 それ、ノストラダムスでしょ。実はね、ユダヤ人たちにとっては、まだ来てない。だから、「キリスト=メシア」も、まだ現れてない。イエス? あんな小僧がメシア? あり得ねェ――と、いまでも思っているわけです。ところが、イエスが生まれた頃のイスラエルという土地は、ローマに植民地支配されてて、ユダヤ民族は、その圧政に苦しんでた。そんな中で「メシア待望論」も高まっていたんですね。
AKI そこへ、イエスの誕生ですか。「おお、このお方こそ、われわれが待ち望んでいたメシアに違いない」と思った人たちがいたんですね?
哲雄 ビンゴ! 実際、青年となったイエスの口から語られる言葉は、大いに人々の心を動かし、その教えに従う人たちも増えていった。
AKI ね、哲ジイ。そのイエスの教えというのは、それまでのユダヤ教の教えとどこが違っていたんです?
哲雄 そう。そこがものすごく重要。ユダヤ教というのは、神とユダヤ民族との「契約」の宗教だと言いましたよね。その「契約」は「律法」という形でユダヤ民族に与えられました。有名なのが、「モーセの十戒」。
AKI あ、知ってる。「汝、姦淫するなかれ!」とかいう、あれでしょ?
哲雄 さすが、AKIクン。やっぱり、「姦淫」に興味があるんだね。
AKI べ、べつに……そういうわけじゃ……。
哲雄 いいでしょ。では、姦淫を例にお話しましょう。モーセに神が示した「十戒」の中では、「姦淫するなかれ」と言われてるだけなんだけど、では、何が姦淫か? どこまでやったら姦淫か?――なんてことは書かれてない。しかし、それじゃ、律法を現実の「戒律」として運用していくのがむずかしい。
AKI チンチンをあそこに入れたら「姦淫」か――とか、いや、乳をもんだだけでも姦淫と考えるべきだ――とか、そういうことですね?
哲雄 おおッ、リアル! でも、まぁ、そんなことですね。そこで、ユダヤ教の世界では、「律法学者」と呼ばれる指導者たちが、その戒めを運用するための細かい規定を定めていった。その項目、なんと613項目。
AKI 613!? そんなの、覚えきれないですよぉ~。
哲雄 でしょ。なので、人々の中には、この戒律を守れない人たちが、続出した。ところが、ユダヤ教の世界では、《律法を守れない=人間の「罪」》と考えますから、これでは人々の心は救われません。キャバクラの○子ちゃんのキスマーク入りの名刺が胸のポケットから出てきたというだけで、家に入れてもらえなくなった亭主のようなもんです。
AKI イエスさんは、何と教えたんですか? たとえば、その……キャバクラの名刺問題とかに関して。
哲雄 全員、罪びとだ! と言いました。問題は、キスマーク入りの名刺があったかどうか――なんてことじゃない。あんたかて、こないだ来たピザ宅配のお兄ちゃんのモッコリを見て、「ワァ、いい男」とウットリしたやおへんか。心の中でそう思っただけで、それは姦淫なんや。
AKI エッ、エッ!! そしたら、ど、どうなるんですか?
哲雄 つまり、イエスが言いたかったことはこうです。
人の罪は、律法を犯したかどうかで決まるのじゃない。
その心の中に、もともとあるのだ。
すべての人間は、罪びとなのである。
AKI じゃ、全員、救われない?
哲雄 逆です。悔い改めさえすれば、だれでも救われる――です。何々をしなかったから救われる、何々をしたから救われない――じゃなくて、人は心の中にだれでも罪を抱えているのだから、それを悔い改めなさい、というわけです。私は、あなたたちのすべての罪を背負って十字架ににかかり、その罪を贖いましょう。その私を信じ、自分の罪の赦しを乞うならば、あなたたちの罪は、すべて赦されるであろう――とね、そう言ったわけです。でも、こんな考えを人々が受け入れてしまったら、困る人たちが出てきます。
AKI わかった。律法学者たちだ。
哲雄 そう。律法の解釈と適用を生業としているわけだから、こんなことを言われたんじゃ、自分たちの立場てぇものがなくなる。そこで、彼らはイエスを排撃しようとして、最後には、イエスを官憲に捕らえさせ、はりつけにしてしまいます。そのとき、イエスを裏切って、官憲を手引きしたのが、ユダという名の弟子でした。ま、そういうこともあったので、ユダヤ教とキリスト教は、のちのちにいたるまで、対立し、さらにはキリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史を生み出すのですが、これには、そのほかの理由もあって長くなるので、次回ということにしましょう。
AKI とにかく、キリスト教的価値観とユダヤ教的価値観は、けっして両立できない――と、本日は、そういう話だったわけですね。
哲雄 そうです。悔い改めよ!
AKI だれに言ってるんです?
哲雄 さぁ、だれでしょう。ではまた……。

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