第97夜☆愛する人の吸血鬼になれますか?

第97夜
「愛とは何か?」をめぐって、管理人・哲雄がパートナー・AKIを相手に展開する、オヤジ・ギャグ風+ちょっぴりアカデミックおしゃべり。今回は、パートナー不在のため、長住ひとりでのごあいさつです。年頭にあたり、「不純愛」の「不純」とは何を指したものであったのか、管理人より、当ブログ開設の目的と、長住の「愛」についての考え方を述べさせていただき、新年のごあいさつとさせていただきます。
みなさん、新年明けまして
おめでとうございます。
相方のAKI嬢は、Cカレ(カレ氏)とスキーに行ってしまいましたので、本日は、長住ひとりでのごあいさつでございます。
1年のはじめということもあり、きょうは、私がなぜこのブログを始めたのか、このブログを通じて、みなさんに何を訴えようとしているのか、というお話をさせていただきたいと思います。
ブログのタイトルが「不純愛」となっていますので、初めての方は、このブログでは何かよからぬことを勧めているのでは――と期待される方もいらっしゃるのではないかと思いますが、ええ、実は、そうなんです……って、ウソですよ。

私たちが「愛」と呼んでいるものが、いかに「不純」であるかを解明し、どうすれば「純粋な愛」に近づけるかを、みなさんと一緒に考えていこう――という、ものすごく高潔な理想を抱いて始めたんです、ほんとうは。
私、長住がなぜそんなことを考えるにいたったかというと、この長住が「不純」だらけだからです。
そうです、汚れちまってるんです、長住は!
しばらくフロにも入ってないし……ってことじゃなくて、精神的にです。そのことに気づいたのは、まだ小学生になる前、たぶん4歳か5歳の頃だろうと思います。
その頃の日本というのは、感染病列島という感じでした。
赤痢、疫痢、チフス、コレラ、結核……ありとあらゆる伝染病が蔓延して、街や学校は、しょっちゅうDDTの散布に見舞われていました。
そんなあるとき、
狂犬病に注意!!
というビラが各家庭に配られてきました。
狂犬病というのは、主に犬が媒介する伝染病で、感染すると、かなりの確率で死に至る恐ろしい病気と言われていました。
このウイルスを持っている狂犬にかまれると、その傷口からウイルスが体内に入り、発症するので、「野良犬にかまれないように」などという注意書きが、町内会などを通じて配布されていました。
その野良犬に、母親が足をかまれてしまったのです。
「テツオ(本当はもっとかわいい本名で呼ばれたのですが、ここでは「哲雄」にしておきます)、母ちゃん、野良犬にかまれたばい。あんた、ちょっとここの血ば吸い出してくれんね」
母親は、縁側に薄っすらと血の滲んだ足を差し出して言いました。
「母ちゃんが狂犬病にかかったら、困るやろ? 血ば吸うて」
目の前に差し出された、血の滲む足を見て、哲雄少年はどうしたかというと、後ずさりしました。
そんな血を吸って自分も狂犬病にかかったらどうする――なんてことを考える知恵は、幼い私にはありません。ただただ、「血を吸う」という行為が気持ちわるかった。それで、「いやだよ」と後ずさりしたんだろうと思います。
首を振る私に、母親の言葉が降りかかってきました。
「あんた、お母ちゃんが死んでもよかと?」
これ、トラウマになりました。
もし、母親が狂犬病にかかって死んでしまったら、それは、あのとき血を吸わなかった自分のせいだ。
翌日から、私は、恐る恐る母親の様子を伺うようになりました。
よかった。まだ息しよる。
もちろん、野良犬=狂犬ではないわけですから、母親の「血を吸って」は、万が一のためにということなのですが、それ以来、私は、自分を「母親を救おうとしなかった子ども」と責めるようになりました。
これが、私の「原罪」となりました。
そして、少年・Nは考えるようになったのです。
人を愛する、とはどういうことなんだろう?
自分は死んでもいいから、相手を助ける。それができなくちゃ、愛しているなどとは言えないんじゃないだろうか?
もしかしたら自分は、自分がいちばんたいせつなだけの、冷たい人間ではないだろうか?
少年Nは、その日以来、こう考えるようになりました。
人は、自分を愛する以上にだれかを愛するなんてことは、できないのではないか。簡単に「愛する」なんて言えないよな――と。
しかし、ここからがエラい!(自分でホメてどうする!?)
幼い頭で、少年Nは、こうも考えるようになったのです。
もし、今度、この世でだれかを好きになったら、そのときは、その人の血を吸ってあげよう。
よし、ボク、吸血鬼になる!
あ、これはジョーダンですよ。
母親にしてあげられなかったことを、今度、だれか大事な人と出会ったときには、してあげられる人間になろう――と、幼いながらにも、固く胸のうちに誓ったのでありました。
ガラッと話が変わりますが、「聖書」の中にこんな一節があります(←変わりすぎだろ
)。
イエスを試そうとしたパリサイ人が「律法の中でいちばんたいせつな戒めは何ですか?」と尋ねるのですが、このとき、イエスは、2つの項目を挙げます。
ひとつは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」。
そして、もうひとつは、
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」
でした。
この2つに、律法全体がかかっている――と、イエスは断言するのです。
「律法」というのは、モーセの十戒をベースとして作られた「守るべき戒め」のことで、イスラエル人にとっては、憲法と道徳と信仰を合わせた総合的な規範のようなものです。
その項目は全部で613項目にも及んで、とてもすべては覚えきれないので、その解釈と運用に関わる専門家が存在しました。それが律法学者で、パリサイ人というのは、その律法学者たちのことです。
ところが、イエスは、そんな細かい律法の規定なんて、ほんとはどうでもいい。この2つが守られるかどうかに、律法の存在意義のすべてがかかっている、と言い切ったわけです。
キリスト教が「愛の宗教」と言われるのは、こういうところにあるわけですが、イエスはさらに、この「隣人への愛」について、「聖書」の別の箇所で、もっとスルドいことを言っています。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。
つまり、こうです。
「愛してくれる者を愛する」というのは、ただのエゴである。そんなことは、あの血も涙もない(と思われていた)取税人たちだってしているではないか――というのです。
ではどうしろというのか? イエスはこう言いました。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
イエスの真意は、こうだったのではないかと、私は解釈しています。
天の父(神のことです)は、そのような完全な愛を私たちに示してくれているのだから、私たちもそれにならうべきである。
こりゃ、えらいこっちゃ――と、すでに高校生になっていた少年Nは思いました。
自分の母ちゃんの足の血も吸えず、それを深く反省して、今度だれかを好きになったら、その血は吸うたるぞ――と、やっとのことで思っているところへ、「敵を愛せよ」との指令です。
つまり、好きな人だけじゃない、敵と思う人間の足の血も、吸ってあげなさい、とイエスのおっさんはのたもうたわけです。
ミッション・インポシブルや!
と、当時の少年Nは思いました。
しかし――と、私は考えたのです。
イエスという人は、人間の思いあがりを何よりも戒めた人です。「自分はこんなに人を愛してるぞ」と大言する人がいると、そんな人の魂が救われるのは、ラクダが針の穴を通り抜けるよりもむずかしい、とのたもうた人です。
つまり、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」は、「完全な愛」のイディア(理想型)を言ってるんではないか――と、私は考えました。
もし、「愛」と言うなら、そこまでの「愛」を示せ! それができないのなら(たぶん、神でない人間にはできません)、できない自分の罪深さを知って、その罪を悔い改め、ひたすら祈れ!
イエスは、そう言いたかったのではないか――と思ったわけです。
話を元に戻しましょう。
私は、犬にかまれた母親の足さえ救えなかった罪深い少年でした。自分を愛する者のためにさえ、血を吸ってあげることのできなかった取税人以下の人間でした。
それは、イエス的に言うと、私が人間として持っている罪=限界なんだということになります。それは、ひたすら悔い改めて祈るしかない「罪」です。
「祈る」は、何も教会でひざまずいて「アーメン」と唱えることではないだろう――と私は思っています(こんなことばっかり言うので、教会からは追い出されてしまったのですが…)。
祈る気持ちで人と接し、世の中のあらゆることと贖罪(罪をあがなうこと)の気持ちで向き合っていく――そのほうが重要だろうと、私は思っています。
いまでも私は、だれかを好きになるたびに、思うのです。
あのとき、母親にできなかったことを、この人にはしてあげられる人間でいよう――と。
それは、「ギブ」でもなければ「テイク」でもない「愛」です。
持って生まれた罪をあがなうための「祈り」としての「愛」です。
――のつもりだったのですが、←あなた、いま、ズッコケましたね。
そうはイカのキンタマ。
たとえば、自分が好きになっただれかが、他のだれかに心奪われていくのを、「ウン、キミだったら大丈夫。幸せになれるよ」などと送り出しながら、心のどこかに、「フラれて戻って来いよ」と舌を出している自分がいたりします。
どこが、祈りとしての「愛」じゃ!
そうです。
悔い改めの不十分な長住は、中途半端に「いい人」なんです。
私、長住は、かくのごとく不純な男です。
その不純さを、いつもいつも反省しながら、これからも「不純」と「真実の愛」の間をさまよい続けるだろうと思います。
このブログでは、私、長住は、そんな心の葛藤を、包み隠さずみなさまに明かしていこうと思っております。
そんな中で、少しでも「真実の愛」に近づくことができれば――と願ってもおります。
みなさまと一緒に、そのプロセスを歩むことができれば、管理人冥利につきるというもの。
こんな不純な長住ですが、よろしければ、今年もどうぞつき合ってやってください。
どうぞよろしくお願いいたします。
最後になりましたが、
今年一年が、みなさまにとってよい年でありますように。
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赤痢、疫痢、チフス、コレラ、結核……ありとあらゆる伝染病が蔓延して、街や学校は、しょっちゅうDDTの散布に見舞われていました。
そんなあるとき、
狂犬病に注意!!
というビラが各家庭に配られてきました。
狂犬病というのは、主に犬が媒介する伝染病で、感染すると、かなりの確率で死に至る恐ろしい病気と言われていました。
このウイルスを持っている狂犬にかまれると、その傷口からウイルスが体内に入り、発症するので、「野良犬にかまれないように」などという注意書きが、町内会などを通じて配布されていました。
その野良犬に、母親が足をかまれてしまったのです。
「テツオ(本当はもっとかわいい本名で呼ばれたのですが、ここでは「哲雄」にしておきます)、母ちゃん、野良犬にかまれたばい。あんた、ちょっとここの血ば吸い出してくれんね」
母親は、縁側に薄っすらと血の滲んだ足を差し出して言いました。
「母ちゃんが狂犬病にかかったら、困るやろ? 血ば吸うて」
目の前に差し出された、血の滲む足を見て、哲雄少年はどうしたかというと、後ずさりしました。
そんな血を吸って自分も狂犬病にかかったらどうする――なんてことを考える知恵は、幼い私にはありません。ただただ、「血を吸う」という行為が気持ちわるかった。それで、「いやだよ」と後ずさりしたんだろうと思います。
首を振る私に、母親の言葉が降りかかってきました。
「あんた、お母ちゃんが死んでもよかと?」
これ、トラウマになりました。
もし、母親が狂犬病にかかって死んでしまったら、それは、あのとき血を吸わなかった自分のせいだ。
翌日から、私は、恐る恐る母親の様子を伺うようになりました。
よかった。まだ息しよる。
もちろん、野良犬=狂犬ではないわけですから、母親の「血を吸って」は、万が一のためにということなのですが、それ以来、私は、自分を「母親を救おうとしなかった子ども」と責めるようになりました。
これが、私の「原罪」となりました。
そして、少年・Nは考えるようになったのです。
人を愛する、とはどういうことなんだろう?
自分は死んでもいいから、相手を助ける。それができなくちゃ、愛しているなどとは言えないんじゃないだろうか?
もしかしたら自分は、自分がいちばんたいせつなだけの、冷たい人間ではないだろうか?
少年Nは、その日以来、こう考えるようになりました。
人は、自分を愛する以上にだれかを愛するなんてことは、できないのではないか。簡単に「愛する」なんて言えないよな――と。
しかし、ここからがエラい!(自分でホメてどうする!?)
幼い頭で、少年Nは、こうも考えるようになったのです。
もし、今度、この世でだれかを好きになったら、そのときは、その人の血を吸ってあげよう。
よし、ボク、吸血鬼になる!
あ、これはジョーダンですよ。
母親にしてあげられなかったことを、今度、だれか大事な人と出会ったときには、してあげられる人間になろう――と、幼いながらにも、固く胸のうちに誓ったのでありました。
ガラッと話が変わりますが、「聖書」の中にこんな一節があります(←変わりすぎだろ

イエスを試そうとしたパリサイ人が「律法の中でいちばんたいせつな戒めは何ですか?」と尋ねるのですが、このとき、イエスは、2つの項目を挙げます。
ひとつは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」。
そして、もうひとつは、
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」
でした。
この2つに、律法全体がかかっている――と、イエスは断言するのです。
「律法」というのは、モーセの十戒をベースとして作られた「守るべき戒め」のことで、イスラエル人にとっては、憲法と道徳と信仰を合わせた総合的な規範のようなものです。
その項目は全部で613項目にも及んで、とてもすべては覚えきれないので、その解釈と運用に関わる専門家が存在しました。それが律法学者で、パリサイ人というのは、その律法学者たちのことです。
ところが、イエスは、そんな細かい律法の規定なんて、ほんとはどうでもいい。この2つが守られるかどうかに、律法の存在意義のすべてがかかっている、と言い切ったわけです。
キリスト教が「愛の宗教」と言われるのは、こういうところにあるわけですが、イエスはさらに、この「隣人への愛」について、「聖書」の別の箇所で、もっとスルドいことを言っています。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。
つまり、こうです。
「愛してくれる者を愛する」というのは、ただのエゴである。そんなことは、あの血も涙もない(と思われていた)取税人たちだってしているではないか――というのです。
ではどうしろというのか? イエスはこう言いました。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
イエスの真意は、こうだったのではないかと、私は解釈しています。
天の父(神のことです)は、そのような完全な愛を私たちに示してくれているのだから、私たちもそれにならうべきである。
こりゃ、えらいこっちゃ――と、すでに高校生になっていた少年Nは思いました。
自分の母ちゃんの足の血も吸えず、それを深く反省して、今度だれかを好きになったら、その血は吸うたるぞ――と、やっとのことで思っているところへ、「敵を愛せよ」との指令です。
つまり、好きな人だけじゃない、敵と思う人間の足の血も、吸ってあげなさい、とイエスのおっさんはのたもうたわけです。
ミッション・インポシブルや!
と、当時の少年Nは思いました。
しかし――と、私は考えたのです。
イエスという人は、人間の思いあがりを何よりも戒めた人です。「自分はこんなに人を愛してるぞ」と大言する人がいると、そんな人の魂が救われるのは、ラクダが針の穴を通り抜けるよりもむずかしい、とのたもうた人です。
つまり、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」は、「完全な愛」のイディア(理想型)を言ってるんではないか――と、私は考えました。
もし、「愛」と言うなら、そこまでの「愛」を示せ! それができないのなら(たぶん、神でない人間にはできません)、できない自分の罪深さを知って、その罪を悔い改め、ひたすら祈れ!
イエスは、そう言いたかったのではないか――と思ったわけです。
話を元に戻しましょう。
私は、犬にかまれた母親の足さえ救えなかった罪深い少年でした。自分を愛する者のためにさえ、血を吸ってあげることのできなかった取税人以下の人間でした。
それは、イエス的に言うと、私が人間として持っている罪=限界なんだということになります。それは、ひたすら悔い改めて祈るしかない「罪」です。
「祈る」は、何も教会でひざまずいて「アーメン」と唱えることではないだろう――と私は思っています(こんなことばっかり言うので、教会からは追い出されてしまったのですが…)。
祈る気持ちで人と接し、世の中のあらゆることと贖罪(罪をあがなうこと)の気持ちで向き合っていく――そのほうが重要だろうと、私は思っています。
いまでも私は、だれかを好きになるたびに、思うのです。
あのとき、母親にできなかったことを、この人にはしてあげられる人間でいよう――と。
それは、「ギブ」でもなければ「テイク」でもない「愛」です。
持って生まれた罪をあがなうための「祈り」としての「愛」です。
――のつもりだったのですが、←あなた、いま、ズッコケましたね。

そうはイカのキンタマ。
たとえば、自分が好きになっただれかが、他のだれかに心奪われていくのを、「ウン、キミだったら大丈夫。幸せになれるよ」などと送り出しながら、心のどこかに、「フラれて戻って来いよ」と舌を出している自分がいたりします。
どこが、祈りとしての「愛」じゃ!
そうです。
悔い改めの不十分な長住は、中途半端に「いい人」なんです。
私、長住は、かくのごとく不純な男です。
その不純さを、いつもいつも反省しながら、これからも「不純」と「真実の愛」の間をさまよい続けるだろうと思います。
このブログでは、私、長住は、そんな心の葛藤を、包み隠さずみなさまに明かしていこうと思っております。
そんな中で、少しでも「真実の愛」に近づくことができれば――と願ってもおります。
みなさまと一緒に、そのプロセスを歩むことができれば、管理人冥利につきるというもの。
こんな不純な長住ですが、よろしければ、今年もどうぞつき合ってやってください。
どうぞよろしくお願いいたします。

最後になりましたが、
今年一年が、みなさまにとってよい年でありますように。

管理人は常に、下記3つの要素を満たせるように、脳みそに汗をかきながら、記事をしたためています。
あなたの押してくださったポイントを見ては、喜んだり、反省したりの日々です。
どうぞ、正直な、しかしちょっぴり愛情のこもった感想ポチをお送りください。よろしくお願いいたします。



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