日本人は、なぜ、海外に出ると性が乱れるのか?

File-9 海外に出ると性が乱れる日本人の道徳
「旅の恥はかき捨て」と言う人がいます。
かき捨てる恥のひとつに「性」がある。
日本人の性は、海外に出ると乱れる。
それは、私たちの行動規範が「道徳」に
拠っているからだ――という話を
してみようと思います。
あなたの心の中に棲んでいて、あなたに「ウソ」をつかせてしまう「4人の番人」がいる。前回は、そんな話をしました。
もう一度、おさらいをしておくと、「4人の番人」とは、「意識の番人」「道徳の番人」「防御の番人」「利益の番人」の4人なのですが、このうち、もっとも遅く、後天的に「番人」となるのは、「道徳の番人」です。
たいていは、親のしつけや学校で受ける教育、ときには尊敬できる先輩や所属した団体や組織などを通して、頭の中に書き込まれるのですが、この書き込みは、「後天的」なるがゆえに、すぐに書き替えられてしまいます。
「書き替え」までは行われないにしても、しばしば「都合よく」忘れられてしまいます。
一時期、日本人男性による「買春ツアー」が、国際的な問題になったことがありました。
女性も負けていません。
ニューヨークでは、日本人の女の子たちの性的放埓ぶりが、「イエロー・キャブ(だれでも乗せる黄色いタクシー)」と揶揄されましたし、南の島では、ビーチ・ボーイたちを侍らせては性的サービスをさせる日本人女性旅行者たちの無軌道ぶりが、ヒンシュクを買ったこともありました。
日本人は、海外に出たとたんに、まるでタガが外れたように、セックス・アニマルと化してしまう。いったいなぜか?
私・シランケンは、これは、日本人の行動規範が「道徳」だからではないか――と、ほとんど確信しています。
道徳心があれば、そんなことしないだろう、と言う人もいるかもしれませんが、私は、逆だと思っています。
「道徳」だから、ダメなのです。

集団を離れたら拘束力を失うのが「道徳」
「道徳」というのは、ある特定の社会の中で、その社会を維持するために設けられた行動規範です。
似たような行動規範に「倫理」があります。こちらは、全宇宙的な人間観に基づいた普遍的な行動規範で、「神の前に」とか「人間として」という基準で語られる「人としてのありよう」を示す言葉です。
「道徳」は、隣人同士または集団の構成員同士で監視し合う行動律ですから、帰属する社会や集団の性質によって変わってしまいますが、「倫理」は、宇宙的な規範ですから、どこへ行っても、不変の原則として働きます。
つまり、こうです。「道徳」は、その「道徳」が規範として通用する社会を、一歩、離れてしまうと、その効力を失ってしまいますから、人は、タガが外れたようになって、意識の奥に隠しておいた欲望が顔をのぞかせてしまいます。
家庭では「いいお父さん」である男が、家庭の外に出たとたん、不正経理に手を染めたり、模範的な教師であった男性が、学校の外に出たとたん、チカンに変身したり、冒頭の話のように、国外に出たとたん、セックス・アニマルと化したり……というのは、その行動規範が、あくまで局地的な拘束力しか持たない「道徳」だからではないか――と、私は思うのです。
一方の「倫理」は、普遍的な「人間としてのありよう」を問う規範ですから、どこへ行こうと、その拘束力が緩むことはありません。どこへ行こうと、「絶対的な存在=神」がその心のありように目を光らせているからです。

「道徳」という名の番人は、度々書き替えられます
「道徳」も「倫理」も、意識の奥にひそむ欲望を監視する「番人」です。
しかし、この「番人」は、前回、お話した「意識の番人」ほど強固ではありません。「意識の番人」は、自意識も十分に発達していないごく幼い頃に、意識のとても深いところに書き込まれて誕生しますから、ちょっとやそっとのことでは書き換えられることがありませんが、「道徳」や「倫理」という番人は、教育によって書き込まれる「番人」ですから、あたらしい教育がほどこされるたびに上書きされます。
私たちが最初に書き込まれる「道徳」は、親のしつけによって書き込まれます。
「ちゃんと勉強して、お金持ちになるんだぞ」と教え込まれれば、率とする子どもが育ちます。する子どもが育ちます。
「男なんてみんなオオカミなんだから、だまされちゃダメだよ」などと言われ続けて育てば、異性に異様な警戒心を抱く子どもが育ちます。
しかし、学校に上がると、教師たちから親の教えとは違う「道徳」を示されます。
たとえば、親は、「他の子なんてどうでもいいの。そんなことより、自分の勉強が大事でしょ」と教えるのに、学校の教師は、「自分のことばかり考えず、クラスの友だちのことも考えられる人間になりなさい」と教えたとします。
そこで、子どもが、「親の言ってることはどうもおかしい」と思うと、そういう子どもは、古い「道徳」を学校で教わった新しい「道徳」に書き換えてしまいますが、この書き換えがうまくいかないと、相矛盾する2つの規範の間で苦しむことになります。
親の前での「いい子」を貫こうとすると、学校では「自分勝手な子ども」と思われ、学校での「いい生徒」を貫こうとすると、親にとっては「最近、生意気なことばかり言うわるい子」になってしまったりします。
一種の「ダブル・バインディング(二重縛り)」状態です。この矛盾が極端になると、いったい自分は何を基準に生きていったらいいのかが、わからなくなってしまいます。
さらにおとなになると、今度はそこに、会社という組織の道徳が加わり、さらには、国民としての道徳も加わります。
二重どころか、私たちは三重、四重の道徳に縛られ、そしてときには、それらの規範がおたがいに矛盾するという場面に、直面させられることになるわけです。
もう一度、おさらいをしておくと、「4人の番人」とは、「意識の番人」「道徳の番人」「防御の番人」「利益の番人」の4人なのですが、このうち、もっとも遅く、後天的に「番人」となるのは、「道徳の番人」です。
たいていは、親のしつけや学校で受ける教育、ときには尊敬できる先輩や所属した団体や組織などを通して、頭の中に書き込まれるのですが、この書き込みは、「後天的」なるがゆえに、すぐに書き替えられてしまいます。
「書き替え」までは行われないにしても、しばしば「都合よく」忘れられてしまいます。
一時期、日本人男性による「買春ツアー」が、国際的な問題になったことがありました。
女性も負けていません。
ニューヨークでは、日本人の女の子たちの性的放埓ぶりが、「イエロー・キャブ(だれでも乗せる黄色いタクシー)」と揶揄されましたし、南の島では、ビーチ・ボーイたちを侍らせては性的サービスをさせる日本人女性旅行者たちの無軌道ぶりが、ヒンシュクを買ったこともありました。
日本人は、海外に出たとたんに、まるでタガが外れたように、セックス・アニマルと化してしまう。いったいなぜか?
私・シランケンは、これは、日本人の行動規範が「道徳」だからではないか――と、ほとんど確信しています。
道徳心があれば、そんなことしないだろう、と言う人もいるかもしれませんが、私は、逆だと思っています。
「道徳」だから、ダメなのです。

集団を離れたら拘束力を失うのが「道徳」
「道徳」というのは、ある特定の社会の中で、その社会を維持するために設けられた行動規範です。
似たような行動規範に「倫理」があります。こちらは、全宇宙的な人間観に基づいた普遍的な行動規範で、「神の前に」とか「人間として」という基準で語られる「人としてのありよう」を示す言葉です。
「道徳」は、隣人同士または集団の構成員同士で監視し合う行動律ですから、帰属する社会や集団の性質によって変わってしまいますが、「倫理」は、宇宙的な規範ですから、どこへ行っても、不変の原則として働きます。
つまり、こうです。「道徳」は、その「道徳」が規範として通用する社会を、一歩、離れてしまうと、その効力を失ってしまいますから、人は、タガが外れたようになって、意識の奥に隠しておいた欲望が顔をのぞかせてしまいます。
家庭では「いいお父さん」である男が、家庭の外に出たとたん、不正経理に手を染めたり、模範的な教師であった男性が、学校の外に出たとたん、チカンに変身したり、冒頭の話のように、国外に出たとたん、セックス・アニマルと化したり……というのは、その行動規範が、あくまで局地的な拘束力しか持たない「道徳」だからではないか――と、私は思うのです。
一方の「倫理」は、普遍的な「人間としてのありよう」を問う規範ですから、どこへ行こうと、その拘束力が緩むことはありません。どこへ行こうと、「絶対的な存在=神」がその心のありように目を光らせているからです。

「道徳」という名の番人は、度々書き替えられます
「道徳」も「倫理」も、意識の奥にひそむ欲望を監視する「番人」です。
しかし、この「番人」は、前回、お話した「意識の番人」ほど強固ではありません。「意識の番人」は、自意識も十分に発達していないごく幼い頃に、意識のとても深いところに書き込まれて誕生しますから、ちょっとやそっとのことでは書き換えられることがありませんが、「道徳」や「倫理」という番人は、教育によって書き込まれる「番人」ですから、あたらしい教育がほどこされるたびに上書きされます。
私たちが最初に書き込まれる「道徳」は、親のしつけによって書き込まれます。
「ちゃんと勉強して、お金持ちになるんだぞ」と教え込まれれば、率とする子どもが育ちます。する子どもが育ちます。
「男なんてみんなオオカミなんだから、だまされちゃダメだよ」などと言われ続けて育てば、異性に異様な警戒心を抱く子どもが育ちます。
しかし、学校に上がると、教師たちから親の教えとは違う「道徳」を示されます。
たとえば、親は、「他の子なんてどうでもいいの。そんなことより、自分の勉強が大事でしょ」と教えるのに、学校の教師は、「自分のことばかり考えず、クラスの友だちのことも考えられる人間になりなさい」と教えたとします。
そこで、子どもが、「親の言ってることはどうもおかしい」と思うと、そういう子どもは、古い「道徳」を学校で教わった新しい「道徳」に書き換えてしまいますが、この書き換えがうまくいかないと、相矛盾する2つの規範の間で苦しむことになります。
親の前での「いい子」を貫こうとすると、学校では「自分勝手な子ども」と思われ、学校での「いい生徒」を貫こうとすると、親にとっては「最近、生意気なことばかり言うわるい子」になってしまったりします。
一種の「ダブル・バインディング(二重縛り)」状態です。この矛盾が極端になると、いったい自分は何を基準に生きていったらいいのかが、わからなくなってしまいます。
さらにおとなになると、今度はそこに、会社という組織の道徳が加わり、さらには、国民としての道徳も加わります。
二重どころか、私たちは三重、四重の道徳に縛られ、そしてときには、それらの規範がおたがいに矛盾するという場面に、直面させられることになるわけです。

アジアの「道徳」は、二重、三重の基準を持つ
こうして、「道徳」の番人が何重にもいるというのは、私たち東アジア人の特徴と言ってもいいかもしれません。
なぜそうなるのか?
最大の理由は、私たちが「一神教の民」ではないからです。
イスラムやキリスト教世界の神は、唯一絶対の強力な「神」です。「道徳」は、神とひとりひとりの個人との「契約」として語られます。世界のどんなすみっこに行こうと、この強烈な「神」が目を光らせているわけですから、「ちょっと目をつぶっててよ」というわけにはいきません。
ところが、私たち日本人や中国人、韓国人の元々の神は、血縁の元締めともいうべき「祖霊」です。血縁ですから、血族ごとに「神」が違うわけです。
東アジア人の「道徳」のルーツは、その祖霊崇拝から発生した「儒教」にあります。「儒教」は元々、統治のために作られた教えでしたから、個人の内面にまでは入り込んでくることができません。世の中に対してこうありなさい――という処世訓は垂れますが、どうすれば人の魂が救われるかを教えてはくれません。
治める者(統治者)と治められる者のあるべき姿を規定しているだけなので、その統治の及ばない世界に出てしまうと、とたんに拘束力が弱くなってしまうのです。
しかも、儒教をルーツとした東アジアの道徳には、いくつもの階層が設定されています。
友人の間ではこうありなさい、という道徳。主君に対してはこうありなさい、という道徳。親や祖先に対してはこうありなさい、という道徳。それらが別々に規定され、しかも優先順位が決められているのです。
日本人だと、「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」と悩んだあげく、結局、「忠=主君への忠義→公務」を優先させるのですが、中国だと、文句なしに「孝=親への孝行」を優先します。たとえ、その人が国を代表する人で、国家の一大事に直面している場面であろうと、親が倒れたらそっちを優先させろ、というのが、中国人の考え方です。
上位に置かれている道徳の前では、下位の道徳は犠牲にする――これが、私たち東アジア人の道徳観の特徴だと言ってもいいでしょう。
女房が風邪で寝込んでいようとも、「忠」優先の日本の男たちは、上司から「ちょっとつき合え」と求められたら、ソープランドのお供にでも、ついていってしまうわけです。

旅の恥はかき捨て――になる理由
「道徳」の番人は、このように非常に便宜的なものです。
したがって、その「道徳」を規定している集団の縛りがなくなったところでは、たちまち規範が緩んでしまいます。
妻の前では「いい夫」、夫の前では「いい妻」を演じていても、たとえば、友人同士で一泊温泉旅行なんかに出かけてしまうと、とたんにハメを外してしまいます。
中国人が平気でコピー商品を作ってしまうのも、日本人が海外でセックス・アニマルと化してしまうのも、浮気はバレなきゃいいだろうと思ってしまうのも、すべては、その行動規範が、便宜的な「道徳」に依拠しているからだろうと、筆者は思っています。
では、その規範が「道徳」ではなく、「倫理」だったらどうなるのか?
その話は、いずれまた、機会を見て――。
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みなさんのポチ反応を見て、喜んだり、反省したり……の日々です。
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