愛に「裏切り」は付き物である

File-4 愛に「裏切り」は付き物である
愛がつくもっとも大きく、罪深いウソは、
「ずっとあなたを愛している」という
ウソでしょう。それを「死ぬまでずっと」
なんて誓うのは大ウソ。聖書はそんなウソ
を戒めています。
だれかを「好き」になって、交際するようになって、会えば当然のようにエッチもするようになって、そろそろ将来のことも考えるか――という段階にいたったとき、どちらかがもう一方に、こんな質問を繰り出すことがあります。
ね、私のことをずっと愛してくれる?
中には、
ね、死ぬまで私を愛してくれる?
なんぞと「ムチャブリ(?)」をなさる方もいらっしゃいます。
筆者の経験から申し上げると、こういうことをお尋ねになるのは、十中八九、女性です。まれに、そんな訊き方をする男もいるやもしれませんが、それは、かなり女性化した男性であろうと思われます。
問題は、こうした質問を受けたとき、どう答えたらいいか?――です。
筆者の友人たちの中には、
そんなの適当に答えとけばいいんだよ。
ウソでも「ずっと」とか「あの世に行っても」とでも答えとけば、
女ってやつは喜ぶんだから。
などと言う男もいました。
しかし、女という生きものは、どうも……そんなに単純な生きものでもないようです。
かつて、筆者・シランケンも、当時つき合っていた16年下の彼女から、同様の質問をされたことがあります。
彼女の「ずっと私を……」という問いにどう答えたかというと、「この命のある限り、ずっと」と、友人がすすめたようなかなり適当な答えを返したと記憶しています。すると、彼女がすかさずこう言ったのです。
ウソつき……。
彼女が「ウソつき」となじった理由は、こうでした。
人には何が起こるのか、だれも断言できない。あなたが「かわいい」と言ってくれた私だって、やがてはシワシワのおばあちゃんになるだろう。もしかしたら交通事故とか火事とかに遭って、顔がグチャグチャになったり、全身ケロイドになってしまうかもしれない。それでも「ずっと」って言える? それは「ウソ」だと思う。できるかできないかわからない「将来」を約束してくれるより、「いま」の愛を誠実に伝えてくれたほうがうれしいわ。
20歳になるかならないかの彼女に言われた言葉に、私は「ウーム……」とうなったのでした。実は、彼女の放った言葉は、「愛を誓う」ということについての真実を、ある意味、言い当ててもいたのです。

ウソだらけ。結婚式での「愛の誓い」
「愛の誓い」と言うと、頭に浮かぶのは、キリスト教式の結婚式で交わされるあの「誓いの言葉」でしょう。
健やかなるときも、病めるときも、
喜びのときも、悲しみのときも、
富めるときも、貧しいときも、
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?
宗派・教派により、多少、違いはありますが、おおむねこのようなことを神父または牧師が問いかけ、新郎・新婦それぞれに「誓います」と言わせるわけです。
これを見て、「キリスト教は愛の宗教なんだなぁ」と感じる人もいるかと思いますが、シランケンは、いつも、この儀式に疑問を感じていました。クリスチャンのくせに――というか、クリスチャンだからこそ、「そんなに簡単に愛を誓っていいのか、おまえら?」という疑問です。
というのも、『聖書』にはこのように記されているからです。
昔の人々に「いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果たせ」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
いっさい誓ってはならない。
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。
またエルサレムをさして誓うな。それは「大王の都」であるから。
また、自分の頭をさして誓うな。
あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。
それ以上に出ることは、悪から来るのである。
――マタイによる福音書 第5章33―37節
「誓ってはならない」と言われているのに、なぜ、結婚式では「愛を誓え」と求めるのか? キリスト者でもある私は、長年、そのことに疑問を感じ続けてきました。
「誓ってはならない」という聖書の記述について、聖書学者や神学者の中には、「これは、信仰によらない、安易な誓いの立て方を戒めたものである」と主張する人もいます。しかし、私は「違う」と思っています。

中には、

なんぞと「ムチャブリ(?)」をなさる方もいらっしゃいます。
筆者の経験から申し上げると、こういうことをお尋ねになるのは、十中八九、女性です。まれに、そんな訊き方をする男もいるやもしれませんが、それは、かなり女性化した男性であろうと思われます。
問題は、こうした質問を受けたとき、どう答えたらいいか?――です。
筆者の友人たちの中には、

ウソでも「ずっと」とか「あの世に行っても」とでも答えとけば、
女ってやつは喜ぶんだから。
などと言う男もいました。
しかし、女という生きものは、どうも……そんなに単純な生きものでもないようです。
かつて、筆者・シランケンも、当時つき合っていた16年下の彼女から、同様の質問をされたことがあります。
彼女の「ずっと私を……」という問いにどう答えたかというと、「この命のある限り、ずっと」と、友人がすすめたようなかなり適当な答えを返したと記憶しています。すると、彼女がすかさずこう言ったのです。

彼女が「ウソつき」となじった理由は、こうでした。

20歳になるかならないかの彼女に言われた言葉に、私は「ウーム……」とうなったのでした。実は、彼女の放った言葉は、「愛を誓う」ということについての真実を、ある意味、言い当ててもいたのです。

ウソだらけ。結婚式での「愛の誓い」
「愛の誓い」と言うと、頭に浮かぶのは、キリスト教式の結婚式で交わされるあの「誓いの言葉」でしょう。

喜びのときも、悲しみのときも、
富めるときも、貧しいときも、
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?
宗派・教派により、多少、違いはありますが、おおむねこのようなことを神父または牧師が問いかけ、新郎・新婦それぞれに「誓います」と言わせるわけです。
これを見て、「キリスト教は愛の宗教なんだなぁ」と感じる人もいるかと思いますが、シランケンは、いつも、この儀式に疑問を感じていました。クリスチャンのくせに――というか、クリスチャンだからこそ、「そんなに簡単に愛を誓っていいのか、おまえら?」という疑問です。
というのも、『聖書』にはこのように記されているからです。

しかし、わたしはあなたがたに言う。
いっさい誓ってはならない。
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。
またエルサレムをさして誓うな。それは「大王の都」であるから。
また、自分の頭をさして誓うな。
あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。
それ以上に出ることは、悪から来るのである。
――マタイによる福音書 第5章33―37節
「誓ってはならない」と言われているのに、なぜ、結婚式では「愛を誓え」と求めるのか? キリスト者でもある私は、長年、そのことに疑問を感じ続けてきました。
「誓ってはならない」という聖書の記述について、聖書学者や神学者の中には、「これは、信仰によらない、安易な誓いの立て方を戒めたものである」と主張する人もいます。しかし、私は「違う」と思っています。

人間は「不完全な存在」であるからこそ
同じ『マタイによる福音書』の26章には、こんな話が登場します。
イエスがユダヤの官憲に捕らわれる直前のことです。弟子たちを集めて最後の晩餐を共にしたイエスは、弟子たちを前に言います。

それを聞いた弟子のうちのひとり、自分を「いちばんの弟子」だと思っているペテロが言います。

ここで言う「つまずく」とは、「挫折する=信じる心が折れる」を意味していると思われますが、「しかし、私だけは」と、ペテロはその忠誠心を誓って見せようとしたわけです。しかし、そんなペテロにイエスは言うのです。

今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。
実際、イエスが捕われて大祭司のもとに連行された後、群衆に「この男もあのイエスと一緒にいた男だ」と指摘されたペテロは、「そんな人は知らない」と三度にわたって打ち消しました。
『マタイ伝』に記されたこの記述は、私には、人間の不完全さを象徴する記述のように見えます。
不完全であるにも関わらず、「自分は正しい」と言い張り、「自分は間違ったことはしない」と誓ったりする人間のごう慢さを、イエスは繰り返し戒め、そういう人が救われるのは「ラクダが針の穴を通り抜けるよりむずかしい」と言うのです。
にもかかわらず、キリスト教式結婚式で定番として求められる「愛の誓い」。これは、「新約聖書=イエスの教え」に由来したものではなく、ユダヤに始まった「何事につけ契約を重視」する西アジア~欧米社会の慣習を、後の教会が採り入れただけのもの――と、私は考えています。
そういうわけなので、「誓いますか?」と問われても、私だったら「誓います」とは答えられない。聖書的に答えるなら、あるいは敬虔なキリスト教徒として答えるなら、

だろうと思います。
この話をすると、私の長年の友人である牧師は、「それ、いいね」とうなずいて、キリスト教徒の媒酌を務めるときには、自分もそれをすすめてみようと言いました。彼の教会では、「愛の誓い」は、少し変わるかもしれません。

正直に言うと、「そんな先のことはわからない」ですが……
最初の話に戻りましょう。
目の前で、彼女から〈カレからでも同じです〉、「死ぬまで私を愛してくれる?」と訊かれたら、私だったらどう答えるか?
ものすごくクールに答えるなら、

だろうと思います。
でも、それだと、相手は不安に顔を曇らせてしまうかもしれません。
もし、もう少しやさしく、謙虚に答えるなら、

明日の朝、愛している人がそばにいることに幸せを感じて目覚められたらいい。
そんな日が、次の日も、その次の日も……
ずっと続けばいいと願ってるし、そうなるように努力したいと思ってるし、
そう思わせてくれることを願ってもいる。
というあたりでしょうか。
イエスが言った「然り、然り」「否、否」であれ――とは、そういうことではないかと思うのですが、どうでしょうね、愛する人よ。
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