留学難民・グエンの日々〈9〉 帰りたい、でも帰れない

留学難民・グエンの日々
第9章
熱が出て吐き気がするというグエンは、
1カ月間、店を休んだ。コロナかと思ったら、
原因は「盲腸」だった。手術を受けて退院し、
復帰したグエン。しかし、彼女を新たな難問が
襲った。彼女は羽を失ったのだ――。

前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
ここまでのあらすじ ちょっとたどたどしい日本語の電話で、店のアルバイト店員に応募してきたグエンは、大学に通っていた。学費と生活費を稼ぎ出すために、3つのアルバイトを掛け持ちする彼女は、度々、遅刻する。その度に彼女は、オレに「お礼」を渡すのだった。彼女の出身は、ベトナム北部、ハノイ近郊の街。祖母の背中には、戦争中の北爆で焼かれたケロイドの跡があると言う。しかし、彼女たち若い世代は、その時代を知らない。グエンは、オレの背後をすり抜ける度に、胸の突起で背中をくすぐって、ニッと笑った。そして言うのだった。「今度、フォーを作って持っていってあげるよ」。しかし、その約束が実現される日は来なかった。その前にコロナがやって来た。そしてグエンは発熱し、病院に入院した。理由は「盲腸」だった――
盲腸の手術を終えて勤務に復帰したグエンは、心持ち、以前よりもはつらつと仕事をしているように見えた。
しかし、はつらつとは見えても、彼女の生活にはコロナの暗い陰が忍び寄っていた。バイト先のひとつであるファミレス・チェーンが、コロナによる自粛要請を受けて夜間営業を中止し、グエンたちのシフトも削られた。グエンの生活は、アルバイト収入の4分の1を失って、苦しくなったに違いない。減った収入を補うためにグエンは何か仕事を探しているようだったが、オレは詳しい事情は聞かないでおいた。
コロナは、彼女から仕事の機会を奪っただけではなかった。彼女から羽を奪った。南へ飛んでいく羽。彼女を母国へ、そして郷里へと運ぶ羽。それを失った。
「ベトナムに帰りたい……」
仕事の合間に、ふと、グエンはそんな言葉をもらすことがあった。
もう2年間、彼女はベトナムに帰国していなかった。最初は、学業とアルバイトで、とても帰国などできる状態ではなかった。3年生になって、やっとその時間が取れそう――となったところで、今度はコロナが襲ってきた。日本からの渡航が厳しく制限されたのはもちろんだが、入国も原則禁止となって、グエンたち留学生は、国に帰ることもできなくなり、仮に帰国してしまうと、今度は、大学に戻って来れなくなる。
グエンだけではない。自国でコロナ感染が広がっている国から来た留学生たちの多くが、帰るに帰れないという境遇に置かれた。しかも、大学のキャンパスは多くの講義をリモートに替え、学生がキャンパスに出て来なくてもいいように変えていた。
留学で日本に滞在している意味がなくなりつつあり、生活するためのバイトの働き口もなくなる。自国にも帰れない。グエンたち留学生は、日本にいながら「難民化」してしまうんじゃないか。他人事ながら、オレは、ちょっぴり心配になった。

客が切れてヒマな時間ができると、グエンは、ときどき、メモ用紙に向かって鉛筆を走らせる。何を書いているのか気になったが、オレは訊かないでおいた。
知らん顔をしていると、チラチラ……と、オレの顔を窺うように見る。「叱られないか」と気にしているんだろうか――と思ったが、どうもそうでもなさそうだった。
そうかと思うと、ワレモノの包装用にとってある新聞紙から、何かを切り出したりしていることもある。ハサミを使って切り抜いていくのだが、その手つきがけっこう器用だ。
ヘーッと思って見ていると、グエンは切り抜いた紙片をひらひらとさせてニコッと笑う。
「かわいいでしょ、コレ?」
記事を切り抜いているのかと思ったら、手に持ってひらひらさせていたのは、パンダのイラストだった。何かの広告に使われていたのだろう。それを絵柄に沿ってきれいに切り抜いている。やっぱり、器用なんだ……と思った。
「何に使うの?」
「ノートに貼って使う」
「それを大学に持っていくの?」
ウン……とうなずいて、恥ずかしそうに笑う。そういうところが、歳の割にかわいい。しかし、そのノートを活用する機会がやって来るのか、それはだれにもわからなかった。
しかし、はつらつとは見えても、彼女の生活にはコロナの暗い陰が忍び寄っていた。バイト先のひとつであるファミレス・チェーンが、コロナによる自粛要請を受けて夜間営業を中止し、グエンたちのシフトも削られた。グエンの生活は、アルバイト収入の4分の1を失って、苦しくなったに違いない。減った収入を補うためにグエンは何か仕事を探しているようだったが、オレは詳しい事情は聞かないでおいた。
コロナは、彼女から仕事の機会を奪っただけではなかった。彼女から羽を奪った。南へ飛んでいく羽。彼女を母国へ、そして郷里へと運ぶ羽。それを失った。
「ベトナムに帰りたい……」
仕事の合間に、ふと、グエンはそんな言葉をもらすことがあった。
もう2年間、彼女はベトナムに帰国していなかった。最初は、学業とアルバイトで、とても帰国などできる状態ではなかった。3年生になって、やっとその時間が取れそう――となったところで、今度はコロナが襲ってきた。日本からの渡航が厳しく制限されたのはもちろんだが、入国も原則禁止となって、グエンたち留学生は、国に帰ることもできなくなり、仮に帰国してしまうと、今度は、大学に戻って来れなくなる。
グエンだけではない。自国でコロナ感染が広がっている国から来た留学生たちの多くが、帰るに帰れないという境遇に置かれた。しかも、大学のキャンパスは多くの講義をリモートに替え、学生がキャンパスに出て来なくてもいいように変えていた。
留学で日本に滞在している意味がなくなりつつあり、生活するためのバイトの働き口もなくなる。自国にも帰れない。グエンたち留学生は、日本にいながら「難民化」してしまうんじゃないか。他人事ながら、オレは、ちょっぴり心配になった。

客が切れてヒマな時間ができると、グエンは、ときどき、メモ用紙に向かって鉛筆を走らせる。何を書いているのか気になったが、オレは訊かないでおいた。
知らん顔をしていると、チラチラ……と、オレの顔を窺うように見る。「叱られないか」と気にしているんだろうか――と思ったが、どうもそうでもなさそうだった。
そうかと思うと、ワレモノの包装用にとってある新聞紙から、何かを切り出したりしていることもある。ハサミを使って切り抜いていくのだが、その手つきがけっこう器用だ。
ヘーッと思って見ていると、グエンは切り抜いた紙片をひらひらとさせてニコッと笑う。
「かわいいでしょ、コレ?」
記事を切り抜いているのかと思ったら、手に持ってひらひらさせていたのは、パンダのイラストだった。何かの広告に使われていたのだろう。それを絵柄に沿ってきれいに切り抜いている。やっぱり、器用なんだ……と思った。
「何に使うの?」
「ノートに貼って使う」
「それを大学に持っていくの?」
ウン……とうなずいて、恥ずかしそうに笑う。そういうところが、歳の割にかわいい。しかし、そのノートを活用する機会がやって来るのか、それはだれにもわからなかった。

「いま、同居人、いない……」
終業前に、グエンがボソリとつぶやいた。
別れたのか――と思ったが、そうではなかった。ベトナムへ帰った同居人が、日本に戻って来られなくなったというのだ。
彼女の言う「同居人」が男なのか女なのか知らなかった。あえて訊こうとも思わなかった。しかし、「同居人いない」と言う彼女の口調がどことなく寂しげに感じられた。
同居人の不在は、彼女の生活を寂しくしただけではなかった。それまで家賃をシェアし合っていた相方がいなくなるわけだから、グエンが負担する家賃は、単純に2倍になる。それでなくてもきついグエンの家計は、恐らく火の車状態のはずだ。
「シゲマツさんは、ひとり暮らしですか?」
いきなり、グエンからそんな質問が飛び出したとき、オレは、もっと彼女の「文脈」を推理すべきだったのかもしれない。しかし、そのときは、そこまで頭が回らなかった。
「ウン、ひとりだよ。ずっとひとり……」
「部屋はいくつある?」
「一応、2DKってことになってるけど、DKと言っても、部屋としては使えないから、実際は2Kかな」
「そォ……」
それっきり口をつぐんでしまったので、彼女がホントは何を言おうとしたのか、オレにはわからないままだった。わからないまま、その日の勤務時間が終わった。
「お疲れ」と店を出ようとすると、グエンが「これ……」と差し出したものがある。
メモ用紙を折り畳んだ紙片だ。「何だよ?」と広げてみると、そこには何か絵が描いてある。だれかの似顔……。
エッ……と思った。
「これ、オレ……?」と訊くと、ニッと笑ってうなずいた。
そうか、さっきレジでメモ用紙に鉛筆を走らせていたのは、これだったのか……。
よく見ると、似顔としては、けっこううまい。いささか髪の薄くなった頭部も、細い目も、忠実に再現され、ニコリ……とほほ笑んだ表情は、どこかの喜劇役者のようでもある。
「うまいね」と言うと、グエンは、「それ、あげる」と言って、小走りに店を後にした。
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