緩い急行、遥かな愛〈45〉 さらば霧島、さらは青春

緩やかな急行、遥かな愛
1966~75
「急行霧島」が運んだ
「愛」と「時代」 第45章
私と昌子が出会い、愛を育んだ
「急行霧島」は、新幹線の博多開業
と当時に姿を消した。急行霧島が姿を
消した年、私は勤めていた出版社を
退職し、私の青春も終わった。
郷里に帰る新幹線を、私は久しぶりに
京都で途中下車した――。
「急行霧島」は、新幹線の博多開業
と当時に姿を消した。急行霧島が姿を
消した年、私は勤めていた出版社を
退職し、私の青春も終わった。
郷里に帰る新幹線を、私は久しぶりに
京都で途中下車した――。

前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
ここまでのあらすじ 横浜の大学から福岡へ帰省する私は、京都の女子大から鹿児島へ帰省する上園雅子と、「急行・霧島」で同席することになった。やがて迎える政治的激動の時代への序章。列車の中で私たちは、季節労働者に違いない赤鉢巻の男と同席するが、男が岡山で下車すると、私たちの距離は、少し縮まった山陽路の暗い闇を走る間、私たちは睡魔に襲われ、夢路の中で手をつなぎ合った。聖書を片手にしながら、大学の合唱団に所属する私と昌子。しかし、ふたりのキャンパスにも、静かに政治の風が吹き始めていた。ベトナムでは米軍の北爆が激しさを増し、各地で反戦運動が起こっていた。そんな中、私が所属する合唱団は演奏旅行をやることになり、その最終日、京都で昌子たちの合唱団とジョイントすることになった。「どうせだったら、京都で一泊すれば」と言い出したのは、昌子だった。昌子が手配した宿は、K大の学生寮だった。案内した高城は、昌子をオルグしようとしている高城という男だった。寮に着くと、高城は、「こんなの見たことあるか?」と、一冊の小冊子と酒を持って部屋にやって来た。「火炎瓶は投げるか、投げないか」をめぐって、私と高城は論争し、そのうち、私は酔いつぶれた。翌朝、迎えに来た昌子は、ふたりの酒を責め、翌日の京都見物を「哲学の道」の散策に切り替えた。「愛に思想は必要か?」と問う昌子と私は、鴨川の川辺で暮れなずむ京都の街を眺めながら、唇を重ね合った。 その秋、学生デモ隊がヘルメットを被り、角材を手に機動隊とぶつかり合う事件が起こり、京大生がひとり、命を落とした。一気に「政治化」するキャンパス。そんな中、キリスト教系学生の全国大会が開かれ、リベラル派と保守派がぶつかり合った。結局、大会は何も決められないまま終わったが、クリスマスイブに、関東では集会とデモが、関西ではクリスマスキャンドルの座り込みが計画された。私と昌子は、それぞれの行動の中でおたがいの名前を祈り合った。その年の暮れ、カウントダウンのチャリティのために「霧島」に乗れないという昌子を、私は教会に尋ねた。カウントダウンのキスの相手は、昌子だった。激動の1968年の朝が明けた。教会の集会室で眠る私の布団に潜り込んできた昌子と私は、初めて、体を重ね合った。時代は、変わりつつあった。日本でも、世界でも、若者たちが行動を起こし、私たちに「おまえはどうする?」と問いかけていた。その答えを見つけられないまま、私と昌子は、走る「霧島」の中で、たがいの体を求め合った。春になると、東大と日大がストに突入し、学園紛争の季節が始まった。そんなとき、昌子が上京してきた。昌子たちが応援している神村信平たちのフォーク・ライブを開くためだという。宿は、私の部屋だった。ドブ臭い運河の匂いが漂う四畳半で体を重ね合った私と昌子。昌子は、バリケード封鎖の始まった「東大」へ行ってみたいと言い出した。党派の旗が立ち並び、支援の学生たちが詰めかけたキャンパスで、私と昌子はK大の高城やT大の野本と出会った。その翌日、横浜の街を案内した私に、昌子は「いくら残ってる?」と私の財布を気にかけ、「自炊しよう」と言い出した。段ボールを食卓代わりにした貧しい食事。それはふたりにとって至福の時間だった。しかし、幸せな時間はアッという間に過ぎ去る。やがて私たちは、時代の嵐に巻き込まれていく。そんなときに開かれた全国大学キリスト者大会。折しも、政府が靖国神社を国家護持しようとしていたときだった。その頃、京都では、昌子たちが「反戦フォーク集会」を準備していた。その主役は、深夜放送でも曲が流されるようになった神村信平だった。神村は、カリスマに祭り上げられることに不安と怖れを抱いていた。その神村が告白した昌子への愛。「彼女を悲しませたりしたら承知せえへんで」と脅す神村だったが、昌子を悲しませたのは、私ではなく、「東大の落城」だった。2月になると、学園紛争は全国のキャンパスに広がり、各大学に「全共闘」が結成された。そんな中、4・28の「沖縄デー」がやって来る。過激派各派は、「新橋決戦」を訴えている。昌子も4・28には新橋へ行く、と伝えてきた。私も決意を固めた。初めて角材を手にして参加した実力闘争。しかしそれは、拭いきれない挫折を私にもたらした。打ちひしがれて、横浜まで戻ってくると、運河のたもとにうずくまる女がいた。傷だらけになった女戦士。それは昌子だった。昌子は傷だらけの体を私が貸した黄色いシャツを着て、揺れる京都の街へ帰っていった。4・28以降、学生運動の舞台は、各地の学園に移っていった。そんなな中、京都の昌子と連絡が取れなくなった。彼女に何が起こった? 「霧島」を京都で途中下車した私は、K大の寮に高城を訪ねた。「すまん」と土下座した高城の口から語られたのは、支援に赴いたS大で、昌子が右派に拉致され、暴行を加えられた、という事実だった。裸同然で管理棟から放り出された昌子は、それ以来、行方が知れないというのだった。そんな中、全共闘運動は全国に広がり、秋には「佐藤訪米阻止闘争」を迎える。しかし、私の中からは、その闘いを闘うパトスが失われていった。リアルを失った私は、新しく創刊された女性雑誌の編集部に就職し、俗流ジャーナリズムの住人になった。しかし――
東京―西鹿児島間(鹿児島だった時期もある)を、およそ26時間半かけて走っていた「急行霧島」は、当時、日本最長の急行列車だった。
私は、そのうちの東京―博多間を21時間半かけて利用し、昌子は京都―鹿児島間を約19時間かけて利用し、共通する京都―博多間が、私たちの出会いの場所となり、デートの場所となり、密会の場所となった。
そうして、私たちの青春を運んだ「霧島」は、昌子が私たちの前から姿を消した翌年の10月、「桜島」と名称を変えて、東海道本線と山陽本線から姿を消した。その「桜島」も、東海道・山陽新幹線の博多開業とともに、昭和50年3月に、廃止された。
いまから思うと、気が遠くなるような長旅だったが、その旅の間、私は列車の中で3回の食事をとり、旅を終える頃には、2~3冊の本を読み終えていた。
そういう旅をすることで、郷里の遠さとありがたさを感じることができ、愛する者への想いを募らせることができた。
旅とは、私にとって、距離の重さを知り、想いの尊さを知るための貴重な時間だった。
しかし、その旅の姿は、20代の私の目の前で、恐ろしい勢いで変わっていった。
新幹線の博多開業によって、21時間半かかっていた東京-博多の旅は8時間足らずに短縮され、いまでは6時間足らずで突っ走る。その時間さえ嫌って、多くの人間が飛行機での移動を選択するようになった。
「現代」という名の文明は、私たちから距離を奪い、距離を奪うことによって時間を収奪する。その歴史が恐ろしい速度で進み、同じ速度で、私たちは貴重な何かを失っていった。

新幹線が博多まで開通した年、私は、勤めていた女性雑誌の編集部を辞めた。
辞めて何をしようというアテはなかったが、ここにいてはいけない――と、魂の奥の何かが命じていた。
その声は、編集部でつけっぱなしにして流されているTVから「あさま山荘」の映像が流され、そこに、かつては同じ全共闘の一員でもあった男の顔と名前を発見したときから、私の心の奥に響き始めていた声だった。
彼らが選択した思想とその戦術が正しかったとは、どう考えても思えない。
しかし――と、私の意識の底の魂が呼びかける。
あの秋の挫折から、2年余が経過してもなお、時代の虚飾に背を向け、山岳のアジトを点々としながら、鋭い思想をナイフのように研ぎ続けていた連中がいる。
では、おまえは何をしてきた? そしていま、何をしている?
その問いに返す言葉を、私は持っていなかった。
少なくとも、この社会の上層部を形成するような世界には身を置くまい――と考え、言葉を武器に腐敗した社会の構造に蜂のひと刺しなりとも加えることのできる仕事を――と、ジャーナリズムの世界を選んだつもりだった。
しかし、その「ひと刺し」を、おまえは、加えることができているのか?
答えは「NO」だった。
「おい、秋吉。おまえ、この犯人と同窓なんじゃなかったっけ?」
「なんか、いいネタないかよ? あのあさま山荘立てこもり犯を愛し続けた女――なんて話があれば、トップ記事でいけるんだけどなぁ」
TVを見ながら声をかけてきた副編集長格の男に、「わるいけど」と言った。
「あいにくと、ボクは、彼らを《犯人》だなんて思ってないもんでね」
「犯人じゃなかったら、何だよ。おまえらの世代から見ると、英雄か?」
冷やかす男の言葉に背を向けながら、私は、胸の奥で静かに決断したのだった。
私は、ここにいてはいけない――。
私は、そのうちの東京―博多間を21時間半かけて利用し、昌子は京都―鹿児島間を約19時間かけて利用し、共通する京都―博多間が、私たちの出会いの場所となり、デートの場所となり、密会の場所となった。
そうして、私たちの青春を運んだ「霧島」は、昌子が私たちの前から姿を消した翌年の10月、「桜島」と名称を変えて、東海道本線と山陽本線から姿を消した。その「桜島」も、東海道・山陽新幹線の博多開業とともに、昭和50年3月に、廃止された。
いまから思うと、気が遠くなるような長旅だったが、その旅の間、私は列車の中で3回の食事をとり、旅を終える頃には、2~3冊の本を読み終えていた。
そういう旅をすることで、郷里の遠さとありがたさを感じることができ、愛する者への想いを募らせることができた。
旅とは、私にとって、距離の重さを知り、想いの尊さを知るための貴重な時間だった。
しかし、その旅の姿は、20代の私の目の前で、恐ろしい勢いで変わっていった。
新幹線の博多開業によって、21時間半かかっていた東京-博多の旅は8時間足らずに短縮され、いまでは6時間足らずで突っ走る。その時間さえ嫌って、多くの人間が飛行機での移動を選択するようになった。
「現代」という名の文明は、私たちから距離を奪い、距離を奪うことによって時間を収奪する。その歴史が恐ろしい速度で進み、同じ速度で、私たちは貴重な何かを失っていった。

新幹線が博多まで開通した年、私は、勤めていた女性雑誌の編集部を辞めた。
辞めて何をしようというアテはなかったが、ここにいてはいけない――と、魂の奥の何かが命じていた。
その声は、編集部でつけっぱなしにして流されているTVから「あさま山荘」の映像が流され、そこに、かつては同じ全共闘の一員でもあった男の顔と名前を発見したときから、私の心の奥に響き始めていた声だった。
彼らが選択した思想とその戦術が正しかったとは、どう考えても思えない。
しかし――と、私の意識の底の魂が呼びかける。
あの秋の挫折から、2年余が経過してもなお、時代の虚飾に背を向け、山岳のアジトを点々としながら、鋭い思想をナイフのように研ぎ続けていた連中がいる。
では、おまえは何をしてきた? そしていま、何をしている?
その問いに返す言葉を、私は持っていなかった。
少なくとも、この社会の上層部を形成するような世界には身を置くまい――と考え、言葉を武器に腐敗した社会の構造に蜂のひと刺しなりとも加えることのできる仕事を――と、ジャーナリズムの世界を選んだつもりだった。
しかし、その「ひと刺し」を、おまえは、加えることができているのか?
答えは「NO」だった。
「おい、秋吉。おまえ、この犯人と同窓なんじゃなかったっけ?」
「なんか、いいネタないかよ? あのあさま山荘立てこもり犯を愛し続けた女――なんて話があれば、トップ記事でいけるんだけどなぁ」
TVを見ながら声をかけてきた副編集長格の男に、「わるいけど」と言った。
「あいにくと、ボクは、彼らを《犯人》だなんて思ってないもんでね」
「犯人じゃなかったら、何だよ。おまえらの世代から見ると、英雄か?」
冷やかす男の言葉に背を向けながら、私は、胸の奥で静かに決断したのだった。
私は、ここにいてはいけない――。

T大の徳本は、やはり、1年留年したあとで卒業して、通信社に就職した。
いまはアフリカ駐在員として、民族紛争の取材に飛び回っている――と、土の香りのする年賀状が届いていた。
神村信平は、プロテスト・ソングの旗手として脚光を浴びたあと、突然、すべての音楽活動を休止して、いまは、山陰地方の山村に住み着き、無農薬野菜を作っている――と、落合牧師からの手紙にしたためてあった。
落合牧師とは、何度か手紙のやり取りをしたが、「霧島」が消えて以来、会ってない。
昌子が消息を絶って、私が京都で途中下車する理由もなくなってしまったからでもあった。
あの頃、牧師たちと力を合わせた「靖国神社国家護持法案阻止」は、宗教界一丸となっての反対もあって、結局、廃案となってしまった。それは、唯一と言っていい、私たちの運動の成果だった。
ベトナム戦争は、1973年1月に、パリで平和協定が結ばれ、アメリカ軍はベトナムから全面撤退するが、それは、世界的に広がった反戦運動の成果というより、アメリカの疲弊や中ソの軍事衝突など、主に南北両ベトナムを支援する各陣営側の事情によるところが大きかった。しかし、それでも戦争は終結し、ベトナム全土は北ベトナムによって統一された。
結局、あの時代は何だったのか?
私は、就職したあとも、その問いを問い続けた。
ひとつだけ、それまでの時代と変わったところがあるとすれば、既得権や既成の価値の体系を、ある程度は壊すことができた、ということだろう。
男が髪を伸ばすようになった、ジーンズが市民権を得た、シンガーソングライターの出現によってメジャーに独占されていた音楽出版の形が多様化した、結婚ではなく同棲を選ぶ若者たちが増えた、大新聞・放送局に独占されていたメディアのあり方に風穴が開いた、さまざまな形での市民運動という運動のスタイルが定着した、既存の労働組合がその支配力を低下させた、官による支配がいくぶん弱まった……。
それらの変化の中には、歓迎すべきものもあったし、その逆もあった。
文化的には確かに自由になったかもしれないが、政治的・社会的には、むしろ不自由さのほうが増したかもしれない――と、私は感じていた。
激しい反体制運動の後にやって来たのは、その反動だった。
若者の多くが政治に背を向けるようになり、「シラケ」と呼ばれる世代が出現した。
政治から目をそむける若者たちは、バラバラのピースに切り崩され、強欲な資本の餌食にされていった。
そういう意味では、私たちの世代がやったことは、世の中をかえって生きにくくしてしまったのかもしれないと思う。
私たちの世代は、言いすぎたのだ。
支配構造を変えようとしたら、最後にはここまでやるしかない。
引き止める親の期待も情愛も、自分の将来もかなぐり捨てて、ジュラルミンの壁に突っ込むのだ。
体制に取り込まれて、少しはラクな思いをしようとしている自分を自己否定するのだ。
これではまるで、特攻隊への志願を求められているようなものだ。そんなことを求められたら、大衆は腰が引けてしまう。次の世代だって、後に続こうとは思わないだろう。
継続できる運動の形を作り出し、定着させられなかったのは、私たちの世代の大きな過ちと言ってもいい。

会社を辞めることにしましたよ――と、落合牧師に連絡すると、「オーッ、それはよかった」と、うれしそうな声が返ってきた。
「じゃ、時間はたっぷりありますね。どうです? 久しぶりに京都にいらっしゃいませんか?」
昌子のいない京都に行っても、虚しくなるばかりだしなぁ……。
あまり気乗りはしなかったが、久しぶりに牧師と抹香臭い話をするのも悪くないか――と思い直し、「では、おじゃまします」と返事した。
会社に辞表を出し、残務を整理したボクは、荷物をまとめて郷里に送り返した。
それから先のことは、まだ決めていなかった。
いったん、郷里に帰って、それからのことをゆっくり考えるのも悪くない。
その帰省の新幹線を、京都で途中下車した。
駅を出ると、どこか懐かしい匂いがした。
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盆になると、男たちがクジで「かか」を交換し合う。
明治半ばまで、一部の地域で実際に行われていた
「盆かか」と呼ばれる風習。本作品は、その風習を
題材に描いた官能フィクションです。
与一の新婚の妻・妙も、今年は、クジの対象になる。
クジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
様子が変わった。その変化に戸惑う与一は、
ある日、その秘密を知った??。
筆者初の官能作品、どうぞお愉しみください。
2020年9月発売 定価:200円 発行/虹BOOKS
⇒Kindle から読むには、ここをクリック。
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既刊本もどうぞよろしく 写真をクリックしてください。






明治半ばまで、一部の地域で実際に行われていた
「盆かか」と呼ばれる風習。本作品は、その風習を
題材に描いた官能フィクションです。
与一の新婚の妻・妙も、今年は、クジの対象になる。
クジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
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管理人は、常に、フルマークがつくようにと、工夫して記事を作っています。
みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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