緩い急行、遥かな愛〈39〉 昌子が消えた……?

緩やかな急行、遥かな愛
1966~75
「急行霧島」が運んだ
「愛」と「時代」 第39章
4・28以降、学生運動の舞台は、
全国の学園に広がって、各大学に
全共闘が結成された。その全共闘と
右派学生との衝突も、全国で
頻発するようになった。そんな中、
昌子との連絡が取れなくなった。
昌子に何か起こったのか――?
全国の学園に広がって、各大学に
全共闘が結成された。その全共闘と
右派学生との衝突も、全国で
頻発するようになった。そんな中、
昌子との連絡が取れなくなった。
昌子に何か起こったのか――?

前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
ここまでのあらすじ 横浜の大学から福岡へ帰省する私は、京都の女子大から鹿児島へ帰省する上園雅子と、「急行・霧島」で同席することになった。やがて迎える政治的激動の時代への序章。列車の中で私たちは、季節労働者に違いない赤鉢巻の男と同席するが、男が岡山で下車すると、私たちの距離は、少し縮まった山陽路の暗い闇を走る間、私たちは睡魔に襲われ、夢路の中で手をつなぎ合った。聖書を片手にしながら、大学の合唱団に所属する私と昌子。しかし、ふたりのキャンパスにも、静かに政治の風が吹き始めていた。ベトナムでは米軍の北爆が激しさを増し、各地で反戦運動が起こっていた。そんな中、私が所属する合唱団は演奏旅行をやることになり、その最終日、京都で昌子たちの合唱団とジョイントすることになった。「どうせだったら、京都で一泊すれば」と言い出したのは、昌子だった。昌子が手配した宿は、K大の学生寮だった。案内した高城は、昌子をオルグしようとしている高城という男だった。寮に着くと、高城は、「こんなの見たことあるか?」と、一冊の小冊子と酒を持って部屋にやって来た。「火炎瓶は投げるか、投げないか」をめぐって、私と高城は論争し、そのうち、私は酔いつぶれた。翌朝、迎えに来た昌子は、ふたりの酒を責め、翌日の京都見物を「哲学の道」の散策に切り替えた。「愛に思想は必要か?」と問う昌子と私は、鴨川の川辺で暮れなずむ京都の街を眺めながら、唇を重ね合った。 その秋、学生デモ隊がヘルメットを被り、角材を手に機動隊とぶつかり合う事件が起こり、京大生がひとり、命を落とした。一気に「政治化」するキャンパス。そんな中、キリスト教系学生の全国大会が開かれ、リベラル派と保守派がぶつかり合った。結局、大会は何も決められないまま終わったが、クリスマスイブに、関東では集会とデモが、関西ではクリスマスキャンドルの座り込みが計画された。私と昌子は、それぞれの行動の中でおたがいの名前を祈り合った。その年の暮れ、カウントダウンのチャリティのために「霧島」に乗れないという昌子を、私は教会に尋ねた。カウントダウンのキスの相手は、昌子だった。激動の1968年の朝が明けた。教会の集会室で眠る私の布団に潜り込んできた昌子と私は、初めて、体を重ね合った。時代は、変わりつつあった。日本でも、世界でも、若者たちが行動を起こし、私たちに「おまえはどうする?」と問いかけていた。その答えを見つけられないまま、私と昌子は、走る「霧島」の中で、たがいの体を求め合った。春になると、東大と日大がストに突入し、学園紛争の季節が始まった。そんなとき、昌子が上京してきた。昌子たちが応援している神村信平たちのフォーク・ライブを開くためだという。宿は、私の部屋だった。ドブ臭い運河の匂いが漂う四畳半で体を重ね合った私と昌子。昌子は、バリケード封鎖の始まった「東大」へ行ってみたいと言い出した。党派の旗が立ち並び、支援の学生たちが詰めかけたキャンパスで、私と昌子はK大の高城やT大の野本と出会った。その翌日、横浜の街を案内した私に、昌子は「いくら残ってる?」と私の財布を気にかけ、「自炊しよう」と言い出した。段ボールを食卓代わりにした貧しい食事。それはふたりにとって至福の時間だった。しかし、幸せな時間はアッという間に過ぎ去る。やがて私たちは、時代の嵐に巻き込まれていく。そんなときに開かれた全国大学キリスト者大会。折しも、政府が靖国神社を国家護持しようとしていたときだった。その頃、京都では、昌子たちが「反戦フォーク集会」を準備していた。その主役は、深夜放送でも曲が流されるようになった神村信平だった。神村は、カリスマに祭り上げられることに不安と怖れを抱いていた。その神村が告白した昌子への愛。「彼女を悲しませたりしたら承知せえへんで」と脅す神村だったが、昌子を悲しませたのは、私ではなく、「東大の落城」だった。2月になると、学園紛争は全国のキャンパスに広がり、各大学に「全共闘」が結成された。そんな中、4・28の「沖縄デー」がやって来る。過激派各派は、「新橋決戦」を訴えている。昌子も4・28には新橋へ行く、と伝えてきた。私も決意を固めた。初めて角材を手にして参加した実力闘争。しかしそれは、拭いきれない挫折を私にもたらした。打ちひしがれて、横浜まで戻ってくると、運河のたもとにうずくまる女がいた。傷だらけになった女戦士。それは昌子だった。昌子は傷だらけの体を私が貸した黄色いシャツを着て、揺れる京都の街へ帰っていった――
血の4月が終わると、学生運動の主要なステージは、学園闘争へと移っていった。
全国の主要な大学が、次々に、バリケード・ストに突入し、「全共闘」は、私たちの世代を表す代名詞として使われるようになった。
封鎖に反対する学生グループと全共闘系学生との衝突も、頻発した。
封鎖解除に動く学生のグループは、2つあった。
ひとつは、日本共産党が主導する「民青」系のグループ。
もうひとつは、右派グループだった。
国公立大学では、「民青系」と「全共闘系」の衝突が、私立大学では「右派」と「全共闘系」の衝突が中心になった。
「右派」を構成しているのは、主に体育会系の学生で、日大などでは、その右派学生を理事会が動かし、その背後には、右翼団体の影がちらついていたりもした。
右派学生と学校当局とは、利害を共有していることが多かった。
学校側は、優秀なスポーツ系の学生を集めることで学校の知名度を上げることができる。
学生のほうは、学校側に忠誠を誓うことで、学費その他の経済的利益に預かることができた。
学校によっては、右派学生が、まるで理事会の傭兵のように機能している場合もあり、そういう右派学生の行動には目に余るものもあった。
全共闘系の学生を拉致してリンチを加える、女子学生を集団で暴行する――などの事件も、日常的に発生していた。
「全共闘」を構成するグループの中からは、学園闘争や街頭行動といった「公然活動」に見切りをつけて、「地下」に潜るグループも現れた。
関西では、ブントの中から「赤軍派」が名乗りを挙げ、関東ではML派の中から「京浜安保共闘」が名乗りを挙げた。
「武器=銃を調達せよ!」「資金を調達せよ!」などと叫びながら、それらのグループは、活動を非公然化し、やがて、学園から姿を消していくことになる。
右と左の極端を生み出しながらも、全共闘運動は量的な拡大を続けた。
しかし、量的な拡大が、質的な向上につながるわけではない。
短期間にあまりにも多くの逮捕者を出したために、運動を指導し、闘いを指揮できる人材が、どの現場でも不足していた。
ふくらめばふくらむほど、その足元は、不確かなものになっていく。
自分たちの運動は、どこへ収束していこうとしているのか?
その答えを見つけられないままに、季節は夏へ――と移りつつあった。

落合牧師からそんな手紙が届いたのは、6月に入ってすぐだった。
その頃、新宿駅の西口広場には、毎週末、反戦フォークなどを歌うグループが集結し、それを聴きに、学生や市民が集まってくるようになって、ちょっとした解放区の観を呈していた。
神村信平は、そういう連中にとっては、すでにカリスマ的な存在となりつつあった。
そういうことなら、ぜひとも――と、落合牧師には返事を出したが、ちょっと違和感があった。
それまでなら、そういうことは、真っ先に昌子が知らせてきたはずだった。
その昌子からは、何の連絡もない。
《落合牧師から、神村さんたちの西口フォーク集会参加の件を聞きました。
ぜひとも、応援に駆けつけたいと思います。
ところで、昌子さんは、そのときは?
あなたも一緒だと、ボクとしてはとてもうれしいのだけど、
もしかして、学園のほうが忙しいのでしょうか?》
手紙を出したが、返事も来なかった。
こんなことは珍しい。
考えてみれば、4・28の後、昌子を横浜駅で見送って以来、私たちは何のコンタクトも取れてないのだった。
いったい、どうしたんだろう?
不安を抱えたまま、新宿西口に向かった。
全国の主要な大学が、次々に、バリケード・ストに突入し、「全共闘」は、私たちの世代を表す代名詞として使われるようになった。
封鎖に反対する学生グループと全共闘系学生との衝突も、頻発した。
封鎖解除に動く学生のグループは、2つあった。
ひとつは、日本共産党が主導する「民青」系のグループ。
もうひとつは、右派グループだった。
国公立大学では、「民青系」と「全共闘系」の衝突が、私立大学では「右派」と「全共闘系」の衝突が中心になった。
「右派」を構成しているのは、主に体育会系の学生で、日大などでは、その右派学生を理事会が動かし、その背後には、右翼団体の影がちらついていたりもした。
右派学生と学校当局とは、利害を共有していることが多かった。
学校側は、優秀なスポーツ系の学生を集めることで学校の知名度を上げることができる。
学生のほうは、学校側に忠誠を誓うことで、学費その他の経済的利益に預かることができた。
学校によっては、右派学生が、まるで理事会の傭兵のように機能している場合もあり、そういう右派学生の行動には目に余るものもあった。
全共闘系の学生を拉致してリンチを加える、女子学生を集団で暴行する――などの事件も、日常的に発生していた。
「全共闘」を構成するグループの中からは、学園闘争や街頭行動といった「公然活動」に見切りをつけて、「地下」に潜るグループも現れた。
関西では、ブントの中から「赤軍派」が名乗りを挙げ、関東ではML派の中から「京浜安保共闘」が名乗りを挙げた。
「武器=銃を調達せよ!」「資金を調達せよ!」などと叫びながら、それらのグループは、活動を非公然化し、やがて、学園から姿を消していくことになる。
右と左の極端を生み出しながらも、全共闘運動は量的な拡大を続けた。
しかし、量的な拡大が、質的な向上につながるわけではない。
短期間にあまりにも多くの逮捕者を出したために、運動を指導し、闘いを指揮できる人材が、どの現場でも不足していた。
ふくらめばふくらむほど、その足元は、不確かなものになっていく。
自分たちの運動は、どこへ収束していこうとしているのか?
その答えを見つけられないままに、季節は夏へ――と移りつつあった。

《神村クンたちが、新宿西口広場のフォーク集会に参加します。
よかったら、ぜひ、応援に行ってあげてください》
よかったら、ぜひ、応援に行ってあげてください》
落合牧師からそんな手紙が届いたのは、6月に入ってすぐだった。
その頃、新宿駅の西口広場には、毎週末、反戦フォークなどを歌うグループが集結し、それを聴きに、学生や市民が集まってくるようになって、ちょっとした解放区の観を呈していた。
神村信平は、そういう連中にとっては、すでにカリスマ的な存在となりつつあった。
そういうことなら、ぜひとも――と、落合牧師には返事を出したが、ちょっと違和感があった。
それまでなら、そういうことは、真っ先に昌子が知らせてきたはずだった。
その昌子からは、何の連絡もない。
《落合牧師から、神村さんたちの西口フォーク集会参加の件を聞きました。
ぜひとも、応援に駆けつけたいと思います。
ところで、昌子さんは、そのときは?
あなたも一緒だと、ボクとしてはとてもうれしいのだけど、
もしかして、学園のほうが忙しいのでしょうか?》
手紙を出したが、返事も来なかった。
こんなことは珍しい。
考えてみれば、4・28の後、昌子を横浜駅で見送って以来、私たちは何のコンタクトも取れてないのだった。
いったい、どうしたんだろう?
不安を抱えたまま、新宿西口に向かった。

「ここは広場ではありません。立ち止まらないでください。ここで集会を開いたり、座り込んだりすることは、道路交通法に違反します。繰り返し、警告します。ここは、道路ではありません……」
広場には、規制に当たる警官隊の拡声器の声が響き渡っていた。
その年の2月に、自然発生的に始まった西口のフォーク集会は、最初は、単なる路上ライブのようなものだったが、そこでプロテスト・ソングなどが歌われるようになって、次第に参加者が増え、やがて、土曜日毎に繰り返されるその集会は、ひとつの社会現象となった。
新宿西口は「広場」ではない。「通路」である。
無視できなくなった政府は、5月14日に、見解を発表し、名称も一夜にして、「新宿西口広場」から「新宿西口通路」へと書き換えられた。
しかし、いくら警官隊が「ここは広場ではない」と叫んでも、数千人の聴衆たちは、ひるむ気配を見せない。規制しようとする警官隊に、「帰れ」コールを浴びせ、制服警官隊は後退を余儀なくされていた。
機動隊が催涙ガスを打ち込んで排除に当たることになるのは、確か、その1週間後か2週間後のことだ。
西口の改札前から噴水広場まで、びっしりと埋め尽くした参加者たち。たとえ、その中に昌子がいたとしても、見つけ出すことはできなかっただろう。
その代わり、神村信平は、容易に探し当てることができた。
神村は、その日、ヒットした『あなたに』を含めて、全部で3曲のレパートリーを演奏して、観衆からやんやの喝采を浴びた。
レパートリーの中には、《キミの汗が、あなたの涙が、新しい朝を呼ぶ~》と、安易なメッセージを投げかけたものもあって、音楽としてどうなの? と感じる部分もなきにしもあらずだったが、集まった聴衆たちは、どちらかというと、その安易なメッセージのほうに大きな反応を返した。
神村自身がいちばん危惧していたのも、そういう部分だったが、その安易さにも訴えかけないと、表現者としての神村の生きる道がないのかもしれなかった。

出番の終わった神村に近づくと、神村のほうから私の姿を見つけて切り出してきた。
「なぁ、秋吉クン。昌子、どないしたんやろ? キミ、知りませんか?」
もしかして、ここへ来れば――と期待していた私の望みは、それで絶たれた。
「いや、ボクもそれを尋ねようと思ってたんです。京都で何かあったんだろうか……って」
「そうかぁ。ボクは、もしかしたら、こないだの4・28でパクられでもしたんかと、心配してたんやけど……」
「いや、4・28は無事、乗り切りました。霧島に乗って京都に帰るところまでは見届けましたから」
「そうかぁ。ほな、もしかしたら、あれ……か?」
「エッ、あれ……って」
「いやいや、何でもあらへん」
神村がそれっきり口をつぐんでしまったので、私の胸の黒い雲は、晴れるどころか、ますます厚く垂れ込めることになった。
昌子に、いったい、何が起こったというのか……?
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明治半ばまで、一部の地域で実際に行われていた
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クジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
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管理人は、常に、フルマークがつくようにと、工夫して記事を作っています。
みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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