緩い急行、遥かな愛〈37〉 傷だらけの女戦士



追憶   連載小説 
 緩やかな急行、遥かな愛
  1966~75
 「急行霧島」が運んだ
 「愛」と「時代」
  第37章 

初めて参加した武装闘争で、
私の足はガス銃の水平撃ちに慄き、
流血の街を駆け出していた。
肉体と精神の敗北。横浜まで帰って
来ると、運河の脇にうずくまる
女がいた。傷だらけの敗残兵。
それは、昌子だった――。

157 この話は連載38回目です。この話を最初から読みたい方は、こちらから、
前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
 ここまでのあらすじ  横浜の大学から福岡へ帰省する私は、京都の女子大から鹿児島へ帰省する上園雅子と、「急行・霧島」で同席することになった。やがて迎える政治的激動の時代への序章。列車の中で私たちは、季節労働者に違いない赤鉢巻の男と同席するが、男が岡山で下車すると、私たちの距離は、少し縮まった山陽路の暗い闇を走る間、私たちは睡魔に襲われ、夢路の中で手をつなぎ合った。聖書を片手にしながら、大学の合唱団に所属する私と昌子。しかし、ふたりのキャンパスにも、静かに政治の風が吹き始めていた。ベトナムでは米軍の北爆が激しさを増し、各地で反戦運動が起こっていた。そんな中、私が所属する合唱団は演奏旅行をやることになり、その最終日、京都で昌子たちの合唱団とジョイントすることになった。「どうせだったら、京都で一泊すれば」と言い出したのは、昌子だった。昌子が手配した宿は、K大の学生寮だった。案内した高城は、昌子をオルグしようとしている高城という男だった。寮に着くと、高城は、「こんなの見たことあるか?」と、一冊の小冊子と酒を持って部屋にやって来た。「火炎瓶は投げるか、投げないか」をめぐって、私と高城は論争し、そのうち、私は酔いつぶれた。翌朝、迎えに来た昌子は、ふたりの酒を責め、翌日の京都見物を「哲学の道」の散策に切り替えた。「愛に思想は必要か?」と問う昌子と私は、鴨川の川辺で暮れなずむ京都の街を眺めながら、唇を重ね合った。 その秋、学生デモ隊がヘルメットを被り、角材を手に機動隊とぶつかり合う事件が起こり、京大生がひとり、命を落とした。一気に「政治化」するキャンパス。そんな中、キリスト教系学生の全国大会が開かれ、リベラル派と保守派がぶつかり合った。結局、大会は何も決められないまま終わったが、クリスマスイブに、関東では集会とデモが、関西ではクリスマスキャンドルの座り込みが計画された。私と昌子は、それぞれの行動の中でおたがいの名前を祈り合った。その年の暮れ、カウントダウンのチャリティのために「霧島」に乗れないという昌子を、私は教会に尋ねた。カウントダウンのキスの相手は、昌子だった。激動の1968年の朝が明けた。教会の集会室で眠る私の布団に潜り込んできた昌子と私は、初めて、体を重ね合った。時代は、変わりつつあった。日本でも、世界でも、若者たちが行動を起こし、私たちに「おまえはどうする?」と問いかけていた。その答えを見つけられないまま、私と昌子は、走る「霧島」の中で、たがいの体を求め合った。春になると、東大と日大がストに突入し、学園紛争の季節が始まった。そんなとき、昌子が上京してきた。昌子たちが応援している神村信平たちのフォーク・ライブを開くためだという。宿は、私の部屋だった。ドブ臭い運河の匂いが漂う四畳半で体を重ね合った私と昌子。昌子は、バリケード封鎖の始まった「東大」へ行ってみたいと言い出した。党派の旗が立ち並び、支援の学生たちが詰めかけたキャンパスで、私と昌子はK大の高城やT大の野本と出会った。その翌日、横浜の街を案内した私に、昌子は「いくら残ってる?」と私の財布を気にかけ、「自炊しよう」と言い出した。段ボールを食卓代わりにした貧しい食事。それはふたりにとって至福の時間だった。しかし、幸せな時間はアッという間に過ぎ去る。やがて私たちは、時代の嵐に巻き込まれていく。そんなときに開かれた全国大学キリスト者大会。折しも、政府が靖国神社を国家護持しようとしていたときだった。その頃、京都では、昌子たちが「反戦フォーク集会」を準備していた。その主役は、深夜放送でも曲が流されるようになった神村信平だった。神村は、カリスマに祭り上げられることに不安と怖れを抱いていた。その神村が告白した昌子への愛。「彼女を悲しませたりしたら承知せえへんで」と脅す神村だったが、昌子を悲しませたのは、私ではなく、「東大の落城」だった。2月になると、学園紛争は全国のキャンパスに広がり、各大学に「全共闘」が結成された。そんな中、4・28の「沖縄デー」がやって来る。過激派各派は、「新橋決戦」を訴えている。昌子も4・28には新橋へ行く、と伝えてきた。私も決意を固めた。初めて角材を手にして参加した実力闘争。しかしそれは、拭いきれない挫折を私にもたらした――



 そこらじゅうに転がる砕かれた石。
 脱ぎ捨てられたヘルメット。
 折れた角材。
 目と鼻をつく催涙ガスの臭い。
 おびただしい数の灰色の装甲車と、その屋根で回る赤色灯。
 敷石に滲み込んだだれかが流した血の跡。
 そして……逮捕者976名。

 1969年4月28日の「沖縄デー」の夜は、そうして更けていった。
 まとまった隊列を組むことができなくなったデモ隊は、小グループを編成しては、まるでゲリラのように各所に出撃して、機動隊と投石とガス銃の小競り合いを繰り広げた。
 数寄屋橋から鍛冶屋橋にかけての路上では、ベ平連が座り込みを続けていた。
 武器を持たない学生や労働者ができる街頭闘争としては、それがMAXだろう。
 しかし、そのどこにも、自分のいるべき場所を見つけることはできなかった。

 軍事的には敗北だ。
 たぶん、運動としても、これを成功とは言えないだろう。
 何より、いちばん敗北しているのは、自分自身だ――。
 最初の衝突で恐怖に駆られてしまった自分の足が敗北したのであり、それでも踏みとどまることのできなかった精神の弱さが敗北したのだ。

          クローバー

 電車が動いているうちに、横浜に帰ろう。
 まるで前線から逃げ出す脱走兵のように、グルグル回る赤色灯から身を避け、まだ走っている都営地下鉄に飛び乗った。
 順調に走ってくれれば、京急で何とか横浜までたどり着くことぐらいできるだろう。
 車両の中には、やはり、横浜方面に帰るのか、ヘルメットをひざに抱えた学生が何人か、敗残兵のように身をうずめていた。
 つい、周囲を見回してしまう。
 もしかして、昌子も乗っているのではなかろうか……。
 しかし、そんなことはあるはずもなかった。

          クローバー

 京急を下りて運河の臭いのするところまで来ると、やっと家にたどり着いた――という気がした。
 いつもはドブくさいとしか感じない運河の臭いが、そのよどんだドス黒い水が、どこか懐かしく感じられて、暗い水面をわたってくる風を胸いっぱい吸い込んだ。
 敗残兵には、こんな臭いがお似合いだ。
 吸った息を風に向かって吐ききると、橋を渡り、渡るとすぐに左へ折れて、護岸沿いを歩く。ポケットの中に真鍮の鍵があることを確かめて、下宿の窓を見上げたそのときだった。
 思わずギョッ…となって、足を止めた。
 橋のたもとの、護岸のコンクリートに背を預け、座り込んでいる人間がいたからだ。
 ひざを抱え、そのひざの間に頭を埋めて眠るようにうずくまっている。
 ジーンズの上からTシャツを着て、その上からアノラックを羽織っているが、そのアノラックは、片袖がいまにもちぎれそうに裂けている。下に着たTシャツも、襟ぐりが破れて胸元の肌が露出し、その肌に血がにじんでいた。
 足元に隠すように置いた赤いヘルメット。ひざに埋めた頭から長い髪が垂れ下がって、毛先がヘルメットの上部を覆っていた。

 「ま、まさ……」

 言い終わらないうちに、うつむいた頭がゆっくり起き上がった。
 夜叉のような鋭い目が私を捉えて、捉えた瞬間、じんわりと解けた。

 「カギ、閉まってたから……」

 言いながら起き上がり、起き上がるや私の首に両腕を巻きつけて、胸に顔を埋めてきた。

 「帰って来ないのかと思った。無事だったのね……」

 その肩が嗚咽している。
 私はその体を抱き止めて、催涙ガスの臭いが染み付いた頭を撫でた。

 「キミこそ、無事で……つーか、あんまり無事でもないみたいだね。とにかく部屋に入ろう」

 そっと玄関を開け、足音を忍ばせて階段を上がった。
 昌子のそんな姿を、だれの目にも触れさせたくなかった。

          クローバー

 まず、傷の手当てだ。
 どこかにマーキュロがあったはずだけど――と、押し入れをガサゴソやっていると、昌子が後ろから抱きついてきた。

 「そんなのいいから、抱いて。寒いの……」

 私の腰に手を回し、尻に顔を押し当ててくる。
 その体がガチガチ震えているのがわかった。
 体の向きを変えても、昌子の手は私を放さない。
 その顔も、私の体から離れない。
 昌子は泣いていた。
 その顔を、昌子は私の下腹に押しつけ、後から後から湧いてくる涙を、私のふくらみの上にこすりつけて拭った。
 私はその頭を両手で抱き寄せた。
 新橋でガス銃に敗れ、打ちしおれていた私のそれは、昌子の涙の温度に触れて、ゆっくりと持ち上がっていった。
 昌子の手はその高まりを探り当て、もう1秒も待てない……というふうに、ジッパーを下ろした。
 あんな敗北の後なのに、私のそれは、激しく脈打ちながら、下着の窓を突き破って飛び出した。
 その脈動を口で捕らえて、昌子は、激しく私を吸った。
 熱い舌を、獰猛に、私の脈動に絡みつかせながら、昌子はそれをノドの奥へ、奥へ――と誘い込み、激しく頭を動かした。
 私は、昌子の小さな頭をつかみ、催涙ガスや砕けた石の粉や叫び声のかけらなどがへばりついてザラザラになった髪の毛を指でつかみ、それをグチャグチャにかき乱した。

 「あう、あうッ……」

 うめき声を挙げながら、昌子の頭の振幅が大きくなっていく。

 まるで、怒りをぶつけるように激しくなっていく昌子の口の動きに導かれて、解き放てないままでいた私の熱情が下腹から湧き上がり、尿道のトンネルを通って煮沸しそうになる。

 いいのか? 出しちゃうゾ――と訊く間もなく、それは、私のそこから噴出して、昌子の口を穢した。
 怒りのゲルは、昌子の口からこぼれ、口の縁を流れ落ちる。
 それを手の甲で拭った昌子は、ランランと輝く瞳で私を見上げて、「ねェ、こっち……」というふうに、私の体を布団の上に誘った。

          クローバー

 昌子の体を布団に横たえ、Tシャツを脱がせたとたん、私は息を呑んだ。
 昌子の上半身は、傷だらけだった。
 二の腕、肩、胸、わき腹……そこらじゅうにいく筋もの擦り傷がつき、そのうちの何本かは皮膚が破けて、流れ出た血が固まっていた。
 そして、ももと脛には、いくつかの打撲痕。
 やっぱり、あのとき、昌子は高架の上にいたんだ――と、確信した。
 私が闘えなかった闘いを、昌子は、この体で闘った。いや、闘うしかなかったんだ――と思うと、その傷跡がとてつもなく貴重なものに思えた。
 その傷の一本一本を、私は舌でなぞり、汚れと血のりを拭い取り、唾液で癒した。

 「秋吉クン、私、くやしい……」

 目の縁を濡らしながら嗚咽をこぼす昌子の体から、少しずつこわばりが解け、その肌がほんのり、ピンク色に染まっていった。
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