緩い急行、遥かな愛〈34〉 デモとセックス

緩やかな急行、遥かな愛
1966~75
「急行霧島」が運んだ
「愛」と「時代」 第34章
年が明けた1月18日、東大に
機動隊が入り、学生たちが構築した
バリケードは、次々に撤去された。
最後まで残った安田講堂も、2昼夜に
及ぶ攻防の末に落城した。その瞬間、
私の目からも、昌子の目からも、
涙がこぼれ落ちた。そして――。
機動隊が入り、学生たちが構築した
バリケードは、次々に撤去された。
最後まで残った安田講堂も、2昼夜に
及ぶ攻防の末に落城した。その瞬間、
私の目からも、昌子の目からも、
涙がこぼれ落ちた。そして――。

前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
ここまでのあらすじ 横浜の大学から福岡へ帰省する私は、京都の女子大から鹿児島へ帰省する上園雅子と、「急行・霧島」で同席することになった。やがて迎える政治的激動の時代への序章。列車の中で私たちは、季節労働者に違いない赤鉢巻の男と同席するが、男が岡山で下車すると、私たちの距離は、少し縮まった山陽路の暗い闇を走る間、私たちは睡魔に襲われ、夢路の中で手をつなぎ合った。聖書を片手にしながら、大学の合唱団に所属する私と昌子。しかし、ふたりのキャンパスにも、静かに政治の風が吹き始めていた。ベトナムでは米軍の北爆が激しさを増し、各地で反戦運動が起こっていた。そんな中、私が所属する合唱団は演奏旅行をやることになり、その最終日、京都で昌子たちの合唱団とジョイントすることになった。「どうせだったら、京都で一泊すれば」と言い出したのは、昌子だった。昌子が手配した宿は、K大の学生寮だった。案内した高城は、昌子をオルグしようとしている高城という男だった。寮に着くと、高城は、「こんなの見たことあるか?」と、一冊の小冊子と酒を持って部屋にやって来た。「火炎瓶は投げるか、投げないか」をめぐって、私と高城は論争し、そのうち、私は酔いつぶれた。翌朝、迎えに来た昌子は、ふたりの酒を責め、翌日の京都見物を「哲学の道」の散策に切り替えた。「愛に思想は必要か?」と問う昌子と私は、鴨川の川辺で暮れなずむ京都の街を眺めながら、唇を重ね合った。 その秋、学生デモ隊がヘルメットを被り、角材を手に機動隊とぶつかり合う事件が起こり、京大生がひとり、命を落とした。一気に「政治化」するキャンパス。そんな中、キリスト教系学生の全国大会が開かれ、リベラル派と保守派がぶつかり合った。結局、大会は何も決められないまま終わったが、クリスマスイブに、関東では集会とデモが、関西ではクリスマスキャンドルの座り込みが計画された。私と昌子は、それぞれの行動の中でおたがいの名前を祈り合った。その年の暮れ、カウントダウンのチャリティのために「霧島」に乗れないという昌子を、私は教会に尋ねた。カウントダウンのキスの相手は、昌子だった。激動の1968年の朝が明けた。教会の集会室で眠る私の布団に潜り込んできた昌子と私は、初めて、体を重ね合った。時代は、変わりつつあった。日本でも、世界でも、若者たちが行動を起こし、私たちに「おまえはどうする?」と問いかけていた。その答えを見つけられないまま、私と昌子は、走る「霧島」の中で、たがいの体を求め合った。春になると、東大と日大がストに突入し、学園紛争の季節が始まった。そんなとき、昌子が上京してきた。昌子たちが応援している神村信平たちのフォーク・ライブを開くためだという。宿は、私の部屋だった。ドブ臭い運河の匂いが漂う四畳半で体を重ね合った私と昌子。昌子は、バリケード封鎖の始まった「東大」へ行ってみたいと言い出した。党派の旗が立ち並び、支援の学生たちが詰めかけたキャンパスで、私と昌子はK大の高城やT大の野本と出会った。その翌日、横浜の街を案内した私に、昌子は「いくら残ってる?」と私の財布を気にかけ、「自炊しよう」と言い出した。段ボールを食卓代わりにした貧しい食事。それはふたりにとって至福の時間だった。しかし、幸せな時間はアッという間に過ぎ去る。やがて私たちは、時代の嵐に巻き込まれていく。そんなときに開かれた全国大学キリスト者大会。折しも、政府が靖国神社を国家護持しようとしていたときだった。その頃、京都では、昌子たちが「反戦フォーク集会」を準備していた。その主役は、深夜放送でも曲が流されるようになった神村信平だった。神村は、カリスマに祭り上げられることに不安と怖れを抱いていた。その神村が告白したのは、昌子への愛。「彼女を悲しませたら承知せえへんで」と私を脅す神村。しかし、彼女を悲しませたのは、私ではなく、「東大の落城」だった――
バリケード封鎖が続く東大構内に機動隊が入ったのは、1月18日の午前7時頃だった。
凍てつくような冬の早朝、機動隊は、放水を浴びせながら、バリケードの撤去に取りかかり、医学部、工学部、法学部などの各館の封鎖を、次々に解除していった。
しかし、安田講堂だけは、持ちこたえた。
安田講堂に立てこもった学生たちは、地上からの放水とガス銃による射撃、頭上のヘリから浴びせられる催涙液入りの放水に、投石と火炎瓶で対抗し、時計台放送で全国の学生に決起を呼びかけながら、夕闇が迫ってもなお、抵抗を続けた。
日没とともに、その日の攻撃はいったん中止となった。
電気も水も止められた安田講堂の中で、立てこもりの学生たちは、ズブ濡れの体を震わせながら、一夜を過ごした。体に沁み込んでくる催涙液に皮膚をただれさせる者もいた。
神田地区の街頭では、東大全共闘支援を叫ぶ学生たちがデモを組織し、東大構内との合流を目指したが、本郷キャンパス目前で機動隊に阻止された。
一夜が明けた、19日午前6時30分、再び、機動隊の攻撃が開始された。
もはや、体力的には限界と思われた立てこもり派だったが、それでも激しい抵抗を続け、機動隊が3階の大講堂を制圧したのは、すでに夕闇が迫り始めた午後4時近くだった。
残るは、屋上だけだった。
3階が落ちると、時計台放送は「われわれの闘いは、勝利だった」と総括して放送を終了し、残った全共闘メンバーは、抵抗を止めて時計台横の屋上に整列して肩を組み、旗を振りながら『インターナショナル』を斉唱した。
飢えと寒さで、体力は限界だろうに……。
TVに映し出される映像を見ながら、目の奥が熱くなってくるのを感じた。
そのシーンは、私だけではなく、全国の学生たちを奮い立たせたに違いない。
包囲している機動隊員の中にも、涙を流すものがいた――と、後に報道で知った。
結局、東大は、落ちた――。
しかし、東大の落城は、全国に広がりつつあった学園紛争を沈静化するどころか、かえって激しく燃え上がらせることになった。

東大落城のニュースを知ると、私は、延ばしていた冬休みを切り上げて、すぐに横浜に戻った。
予想したとおり、キャンパスの様子は一変していた。
学長団交を要求する立て看板が、デカデカと張り出され、学生大会を呼びかけるビラが撒かれ、学食でも、ゼミの部屋でも、講義の教室でも、学生と教官が、学生同士が、熱い議論を闘わせる姿が目立つようになった。
すでに、経済学部闘争委員会の一員として行動することを選択していた私は、学生集会に、教授会との団交に、学内や市内のデモに……と参加しながら、各大学のキリスト教系学生組織を回って、「靖国神社国家護持法案反対」運動への参加を呼びかけ続けた。
勉強する間もないほど忙しい日々になったが、もはや大学内も、落ち着いて勉強を続けるという環境ではなくなっていた。
ゼミが開かれても、その時間のほとんどは、「この大学をどうするのか?」という議論に費やされた。

「先生は、この移転に賛成されるのですか?」
ゼミの学生たちが質問を突きつけるたびに、50代を迎えたばかりの教授は、誠実な答えを返そうと、分厚い眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「キミたちが卒業したあとも、この学園は、学問の自由を守り続けなければならない。少なくとも、この学園にペンペン草が生えるような事態だけは、教育者として避けなくちゃならん。そのために、この移転計画を受け入れるのか、拒否するのか? 受け入れても、学問の独立が守れるような態勢が作れるのか? 拒否しても、ペンペン草が生えずにすむ方法が、はたしてあるのか? 私たちも、それを毎日のように議論し合っている。残念ながら、まだ、教授会として意思統一するところまでは、いかんのだよ……」
教授としては、それが精いっぱいの回答だったろう。
私たちは、いますぐには答えの出せない問題を教授たちに突きつけているのかもしれない――と、私は思った。
いますぐには答えられない問題に、「1or0」の回答を出せと要求すると、たいていの答えは「0」になってしまう。しかし、「0.3」や「0.4」の答えもあるはずだ――ということには、若い私たちの頭は、考え及ばなかった。
凍てつくような冬の早朝、機動隊は、放水を浴びせながら、バリケードの撤去に取りかかり、医学部、工学部、法学部などの各館の封鎖を、次々に解除していった。
しかし、安田講堂だけは、持ちこたえた。
安田講堂に立てこもった学生たちは、地上からの放水とガス銃による射撃、頭上のヘリから浴びせられる催涙液入りの放水に、投石と火炎瓶で対抗し、時計台放送で全国の学生に決起を呼びかけながら、夕闇が迫ってもなお、抵抗を続けた。
日没とともに、その日の攻撃はいったん中止となった。
電気も水も止められた安田講堂の中で、立てこもりの学生たちは、ズブ濡れの体を震わせながら、一夜を過ごした。体に沁み込んでくる催涙液に皮膚をただれさせる者もいた。
神田地区の街頭では、東大全共闘支援を叫ぶ学生たちがデモを組織し、東大構内との合流を目指したが、本郷キャンパス目前で機動隊に阻止された。
一夜が明けた、19日午前6時30分、再び、機動隊の攻撃が開始された。
もはや、体力的には限界と思われた立てこもり派だったが、それでも激しい抵抗を続け、機動隊が3階の大講堂を制圧したのは、すでに夕闇が迫り始めた午後4時近くだった。
残るは、屋上だけだった。
3階が落ちると、時計台放送は「われわれの闘いは、勝利だった」と総括して放送を終了し、残った全共闘メンバーは、抵抗を止めて時計台横の屋上に整列して肩を組み、旗を振りながら『インターナショナル』を斉唱した。
《立て、飢えたる者よ、
いまぞ日は近し。
覚めよ、わがはらから、
暁は来ぬ。
暴虐の鎖、断つ日、
旗は血に燃えて。
いまぞ高く掲げん、
わが勝利の旗……》
いまぞ日は近し。
覚めよ、わがはらから、
暁は来ぬ。
暴虐の鎖、断つ日、
旗は血に燃えて。
いまぞ高く掲げん、
わが勝利の旗……》
飢えと寒さで、体力は限界だろうに……。
TVに映し出される映像を見ながら、目の奥が熱くなってくるのを感じた。
そのシーンは、私だけではなく、全国の学生たちを奮い立たせたに違いない。
包囲している機動隊員の中にも、涙を流すものがいた――と、後に報道で知った。
結局、東大は、落ちた――。
しかし、東大の落城は、全国に広がりつつあった学園紛争を沈静化するどころか、かえって激しく燃え上がらせることになった。

東大落城のニュースを知ると、私は、延ばしていた冬休みを切り上げて、すぐに横浜に戻った。
予想したとおり、キャンパスの様子は一変していた。
学長団交を要求する立て看板が、デカデカと張り出され、学生大会を呼びかけるビラが撒かれ、学食でも、ゼミの部屋でも、講義の教室でも、学生と教官が、学生同士が、熱い議論を闘わせる姿が目立つようになった。
すでに、経済学部闘争委員会の一員として行動することを選択していた私は、学生集会に、教授会との団交に、学内や市内のデモに……と参加しながら、各大学のキリスト教系学生組織を回って、「靖国神社国家護持法案反対」運動への参加を呼びかけ続けた。
勉強する間もないほど忙しい日々になったが、もはや大学内も、落ち着いて勉強を続けるという環境ではなくなっていた。
ゼミが開かれても、その時間のほとんどは、「この大学をどうするのか?」という議論に費やされた。

「先生は、この移転に賛成されるのですか?」
ゼミの学生たちが質問を突きつけるたびに、50代を迎えたばかりの教授は、誠実な答えを返そうと、分厚い眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「キミたちが卒業したあとも、この学園は、学問の自由を守り続けなければならない。少なくとも、この学園にペンペン草が生えるような事態だけは、教育者として避けなくちゃならん。そのために、この移転計画を受け入れるのか、拒否するのか? 受け入れても、学問の独立が守れるような態勢が作れるのか? 拒否しても、ペンペン草が生えずにすむ方法が、はたしてあるのか? 私たちも、それを毎日のように議論し合っている。残念ながら、まだ、教授会として意思統一するところまでは、いかんのだよ……」
教授としては、それが精いっぱいの回答だったろう。
私たちは、いますぐには答えの出せない問題を教授たちに突きつけているのかもしれない――と、私は思った。
いますぐには答えられない問題に、「1or0」の回答を出せと要求すると、たいていの答えは「0」になってしまう。しかし、「0.3」や「0.4」の答えもあるはずだ――ということには、若い私たちの頭は、考え及ばなかった。

昌子の頭も、答えを急ぎ始めているように見えた。
東大の落城を知って書き送ってきた手紙には、急ぎ始めた昌子の心の様子が、ありありと見て取れた。
《あの、安田講堂の屋上で、
インターを歌う人たちの姿を見て、
私は涙が止まりませんでした。
われわれの闘いは、勝利だった――
時計台放送は、そう宣言したでしょう?
なぜ、「勝利」なのか?
それは、
私たちが、そしてみんなが、
その闘いを継承して、
それが燎原の火のように広がっていくことを
確信したからじゃないか――って思うの。
その火に、
私たちもならなくちゃいけないんじゃないかなぁ……なんてね、
最近、そんなことを考えたりするんです。
秋吉クンのキャンパスは、どうですか?
たぶん、そちらにも火が点いているんでしょうね。
ああ、私が秋吉クンと同じキャンパスだったら……って、
いつも思います。そしたら、私たち、
きっと腕を組み合って、どんな強い敵にでも
立ち向かっていけるのに――って。
私は最近、
赤いヘルメットの人たちと行動を共にすることが多いです。
秋吉クンとは色が違うかもしれないけど、
デモをしていても、集会に参加していても、
私の隣には、いつも秋吉クンがいてくれるような気がしています。
でも、ちょっと笑っちゃう。
私ね、デモをしながら、
秋吉クンとのセックスを想像することがあるの。
もしかしたら、似てるのかも……。
デモとセックスって――》
インターを歌う人たちの姿を見て、
私は涙が止まりませんでした。
われわれの闘いは、勝利だった――
時計台放送は、そう宣言したでしょう?
なぜ、「勝利」なのか?
それは、
私たちが、そしてみんなが、
その闘いを継承して、
それが燎原の火のように広がっていくことを
確信したからじゃないか――って思うの。
その火に、
私たちもならなくちゃいけないんじゃないかなぁ……なんてね、
最近、そんなことを考えたりするんです。
秋吉クンのキャンパスは、どうですか?
たぶん、そちらにも火が点いているんでしょうね。
ああ、私が秋吉クンと同じキャンパスだったら……って、
いつも思います。そしたら、私たち、
きっと腕を組み合って、どんな強い敵にでも
立ち向かっていけるのに――って。
私は最近、
赤いヘルメットの人たちと行動を共にすることが多いです。
秋吉クンとは色が違うかもしれないけど、
デモをしていても、集会に参加していても、
私の隣には、いつも秋吉クンがいてくれるような気がしています。
でも、ちょっと笑っちゃう。
私ね、デモをしながら、
秋吉クンとのセックスを想像することがあるの。
もしかしたら、似てるのかも……。
デモとセックスって――》
デモとセックスが似てる――は、私にはまったく理解のできない感覚だった。
もし、似ているところがあるとしたら、それは、昌子の体の奥に眠っている「激しい何か」によって導き出されるもの――ぐらいしか、私には思いがつかなかった。
そして、季節は、昌子の中に眠っている「激しいもの」を目覚めさせる方向へ、揺すぶりかき立てる方向へと、移り変わっていった。
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「盆かか」と呼ばれる風習。本作品は、その風習を
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与一の新婚の妻・妙も、今年は、クジの対象になる。
クジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
様子が変わった。その変化に戸惑う与一は、
ある日、その秘密を知った??。
筆者初の官能作品、どうぞお愉しみください。
2020年9月発売 定価:200円 発行/虹BOOKS
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明治半ばまで、一部の地域で実際に行われていた
「盆かか」と呼ばれる風習。本作品は、その風習を
題材に描いた官能フィクションです。
与一の新婚の妻・妙も、今年は、クジの対象になる。
クジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
様子が変わった。その変化に戸惑う与一は、
ある日、その秘密を知った??。
筆者初の官能作品、どうぞお愉しみください。
2020年9月発売 定価:200円 発行/虹BOOKS
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管理人は、常に、フルマークがつくようにと、工夫して記事を作っています。
みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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