緩い急行、遥かな愛〈12〉 キスと法華の太鼓



追憶   連載小説 
 緩やかな急行、遥かな愛
  1966~75
 「急行霧島」が運んだ
 「愛」と「時代」
  第12章 

K大の寮で一夜を過ごした私は、
迎えにきた昌子と「哲学の道」を
散策して、京都の束の間の休日を
楽しんだ。「愛に思想は必要か?」
という昌子の問いに、
答えを探しながら――。

157 この話は連載13回目です。この話を最初から読みたい方は、こちらから、
前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
 ここまでのあらすじ  横浜の大学から福岡へ帰省する私は、京都の女子大から鹿児島へ帰省する上園雅子と、「急行・霧島」で同席することになった。やがて迎える政治的激動の時代への序章。列車の中で私たちは、季節労働者に違いない赤鉢巻の男と同席するが、男が岡山で下車すると、私たちの距離は、少し縮まった山陽路の暗い闇を走る間、私たちは睡魔に襲われ、夢路の中で手をつなぎ合った。聖書を片手にしながら、大学の合唱団に所属する私と昌子。しかし、ふたりのキャンパスにも、静かに政治の風が吹き始めていた。ベトナムでは米軍の北爆が激しさを増し、各地で反戦運動が起こっていた。そんな中、私が所属する合唱団は演奏旅行をやることになり、その最終日、京都で昌子たちの合唱団とジョイントすることになった。「どうせだったら、京都で一泊すれば」と言い出したのは、昌子だった。昌子が手配した宿は、K大の学生寮だった。案内した高城は、昌子をオルグしようとしている高城という男だった。寮に着くと、高城は、「こんなの見たことあるか?」と、一冊の小冊子と酒を持って部屋にやって来た。「火炎瓶は投げるか、投げないか」をめぐって、私と高城は論争し、そのうち、私は酔いつぶれた。翌朝、迎えに来た昌子は、ふたりの酒を責め、翌日の京都見物を「哲学の道」の散策に切り替えた――



 結局、私と昌子の京都見物は、《思索の道》を散策し、「ハラが減った」と、そこらのうどん屋に飛び込み、「氷」の看板を見ては、財布の残りを気にしながら氷をかき込み、京都の学生たちがよく利用するという古本屋をひやかし、西陣織や友禅の店頭を眺め……ということをしているうちに、何となく過ぎていった。

 「そろそろ、駅に行かなくちゃね」
 「そうね。あんまり、京都案内できなくて、ごめんなさい」
 「いや。ボクには、こういうのがいちばんいい。名所なんて行っても面白くないし」
 「ほんと?」
 「キミと京都の町を歩いた。ボクには、それがいちばんの京都見物だよ」

 ふたりは、歩き疲れて、鴨川の畔に腰を下ろしていた。
 西に傾き始めた太陽の金色の光は、対岸の寺院の伽藍や塔を影絵のように切り抜いて、ゆったり流れる水面に降り注ぎ、粉々に砕け散って昌子の横顔に黄金色のラメを振りかけていた。
 その顔を、私は見つめていた。
 いつまでも眺めていたいと思いながら見つめていた。

 「私たち、いつまでも、こうして会えるかなぁ」

 川面に散乱する光に、眩しそうに目を細めながら、昌子が言った。

 「思想が違っても、別々の川の流れに乗ってしまっても、こうして会えるかなぁ」
 「会いたい、と思い続ける。いまは、そうしか言えない」
 「ほんま? ほんまに会いたいと思い続けてくれる?」

 川面からの照り返しにキラキラと輝く顔を振り向けて、昌子は私の顔をのぞき込んだ。

 「ボクたちが、いちばん大事な思想さえ持ち続けていれば、だれも、ボクたちの《会いたい》をジャマしたりできないよ」
 「そんなことじゃなくて……」

 昌子はまぶたを伏せて言葉を切り、再び、ゆっくりと目を開いた。
 その目の中で、金色の太陽が燃えていた。

 「私のこと……好き?」

 突然、訊かれて、心臓が音を立て始めた。
 返答を待つ昌子の目の色が、少し獰猛になったような気がした。

 「好きだよ」
 「ほんま?」
 「キミが、赤鉢巻のオヤジの手にそっと冷凍みかんを握らせたあのときから、ずっと……」

 昌子がクスッと笑ったような気がした。

 「赤鉢巻のおじさんに感謝しなくちゃね……私も、秋吉クンが好き」

 言いながら、昌子は私の胸に頭を埋めてきた。

          クローバー

 昌子の髪から、夏の陽に焼けた髪の匂いと汗の匂いがした。その髪にそっと口をつけると、昌子はゆっくり顔を上げた。
 私を見上げる目の縁の、上向きにカールのかかったまつ毛が、少し震えていた。
 見上げる目と見下ろす目が、ふたりの距離の真ん中でぶつかり合い、絡まり合った。ふたりの口から吐き出される息が、鼻柱と鼻柱の間で混じり合い、溶け合った。
 熱い息を吐き出す昌子の唇は、小さいけれども肉厚で、上唇の中央が富士山のような輪郭を描いて小高くめくれ上がっている。私が口を近づけると、昌子の上唇はさらにめくれて、白い、小動物のような前歯がのぞいた。
 わずかに開かれたその隙間を目がけて、私は自分の唇を近づけた。
 熱を帯びた唇と唇が、サワリと触れ合った瞬間、彼女は胸の中に残っていた空気を「ハーッ」と吐き出しながら、体を私に預けてきた。
 引かれ合った磁石が吸い付き合うように、私と昌子の唇は、おたがいを求め合った。昌子の唇は、触れ合う面積が最大になる形に開かれ、開かれた歯と歯の間からもれてくる吐息が、胸の温度を私に伝えてきた。
 私は、その息を胸いっぱいに吸い、粘膜同士を触れ合わせてその熱を交換した。
 触れ合った昌子の唇は、もはや思想を語ってはいなかった。語っているのは、体の奥に隠し持った、もっと激しいものだった。

          クローバー

 その激しいものは、獰猛な生きものの姿となって昌子の歯の間から現れ、私の口の中に侵入してきた。その動きが伝えようとするものに、私は少し驚き、しかし、すぐに私の中からもそれに応じようとする何かが湧き起こった。
 昌子の舌は、私の舌を絡め取り、歯茎をなぞり、口蓋をくすぐった。彼女の舌が上の歯茎をなぞるときには、私は下の歯茎を、彼女の舌が口蓋をくすぐるときは、その舌の裏側を――そうして、おたがいの舌はいけない遊戯に耽り、私たちは何ミリリットルもの唾液を交換し合った。

 ドンツク、ドンドン、ツクツク――。

 その遊戯に水をかけたのは、団扇太鼓の響きだった。
 団扇太鼓の列は、河川敷の遊歩道を私たちのほうに近づいてくる。

 ドンツク、ドンドン、ツクツク――。

 その音が、「こんなところで何してる? さぁ、目を覚ませ!」と唱えているように聞こえ、隊列が目の前にさしかかる頃には、私たちは、どちらからともなく体を離していた。

 「フフッ……」と、昌子が笑った。
 「ほんま、法華の太鼓はいけずやわ」

 また、京都言葉に戻っている。

 「でも、そろそろ行かなくちゃ」
 「そやね。太鼓が汽車の時間を教えてくれたんやわ」
 「荷物は?」
 「駅の一時預かりに預けてある」

 私たちは、ためらう腰を上げ、服の汚れを払い、金色に輝く鴨川に別れを告げた。

          クローバー

 「霧島」は、定刻どおりに京都駅に入線してきた。
 ズ、ズ、ズ、ズ、ズシーン……。
 機関車が立てる地響きのような音が、私たちの京都での時間の終わりを宣告した。
 郷里へと向かう「霧島」での、私にとっては5回目の旅。そして、昌子とふたりでの3回目の旅。
 運よくボックス席に並んで座ることのできた私たちは、座るとすぐに睡魔に襲われた。
 昌子は、列車が動き出すと同時に、私の肩に頭を預け、私はその手を握り締めた。何度も途中で目を覚ましたが、目を覚ますたびに、私は昌子の手を強く握り直し、昌子も夢の中でそれに応えた。
 私たちのいちばん平和な時間が、山陽路を走った。
 私たちは平和だった。その秋の10月8日、その出来事が、全国の大学生たちに衝撃を与え、混乱の渦の中に巻き込み始めるまでは――。
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