緩い急行、遥かな愛〈3〉 頬に触れる髪



追憶   連載小説 
 緩やかな急行、遥かな愛
  1966~75
 「急行霧島」が運んだ
 「愛」と「時代」
  第3章 

東京-博多間を21時間30分かけて結ぶ
「急行・霧島」。私は、その車内で
京都から乗り込んで来た上園昌子と
出会い、ドヤ街の話で共感し合った。
やがて彼女の瞼は眠気に襲われ、
その髪が私の頬をくすぐった――。

157 この話は連載4回目です。この話を最初から読みたい方は、こちらから、
前回から読みたい方は、こちらからどうぞ。
 ここまでのあらすじ  横浜の大学から福岡へ帰省する私は、京都の女子大から鹿児島へ帰省する上園雅子と、「急行・霧島」で同席することになった。やがて迎える政治的激動の時代への序章。列車の中で私たちは、季節労働者に違いない赤鉢巻の男と同席するが、男が岡山で下車すると、私たちの距離は、少し縮まった――



 岡山を過ぎると、広島までの間で日付が変わる。
 到着が深夜になることもあって、そこから先の乗り降りは、極端に少なくなる。
 車内は、少し空いてくるが、残っている客はほとんどが、九州まで行く客だ。

 「やっと、静かになりましたね」

 上園昌子は、ほっと息をつき、手にしたみかんの皮をていねいにむいて、そのひと房を口にふくんだ。
 静かになった――は、たぶん、赤鉢巻がいなくなったことを指しているのだろうと思ったが、いなくなったらなったで、それまで男が座っていた席が、少し空虚になったような気がした。
 赤鉢巻が岡山で下車してからは、ボックス席の向かいは、空席のままだった。
 反対側に座って向かい合う形をとってもよかったのだが、私たちはどちらもそれをせず、その代わり、並んで腰掛けたまま、足を向かいのシートに伸ばした。

 「いまごろ、みかん食べてるかしら? 船の上で……」
 「ウン。ボロボロ涙流しながら、食べてるかもしれない」
 「ロマンチストなんですね。あの、私ね……」

 手にしたみかんを見つめていた目を、フッ……と窓の外に向けて、上園昌子は、ゆっくり言葉を選んだ。

 「ちょっと、胸が痛むんです、ああいう人たちを見ると……」

 水蒸気に曇った窓の外は、カラス色の闇で、その中にポツリポツリと浮かぶ電球のオレンジがかった光や蛍光灯の青白い光が、空中を揺れながら浮遊する蛍の光のように、ゆっくりと揺れながら、後方へ流れていった。

          クローバー

 「『蟻の街のマリア』っていうお芝居、見たことあります?」
 「ドヤ街で暮らす人たちのために生涯を捧げた修道女の話でしょ? その芝居、うちの学校にも来たよ」
 「あ、それ! 私もそれで観たの。感動したんです、私。それでね、大学に入ってから、ちょっとだけボランティアで行ったことがあるんですよ。大阪に、西成っていう場所があるんだけど……」

 たまたま帰省の列車で相席となった女子学生の口から、「共通体験」が語られたことに、私はちょっと驚き、そして、少し感動した。

 「西成……って、労務者の街ですよね。東京で言うと、山谷……?」
 「山谷の話も聞いたことあります。実はね、私、教会に通ってるんです。そこの牧師さんが、そういう街で奉仕活動をされてて、ときどき私たちもお手伝いしてるんですけど」
 「ボクもね、実は……」
 「奉仕活動ですか?」
 「じゃなくて、バイトに行ってます。そういう場所に」
 「エーッ、バイトで……?」
 「いま、人手が足りないんです。ドヤ街に行って立ちんぼしてると、人集めに来るんですよ。仕事あるぞ、やんないか……ってね。横浜の場合は、たいてい船の荷物の積み下ろしだったりするんだけど。ひと晩やると、だいたい三日間くらい食べられる。けっこう、いいバイトになるんでね」

 上園昌子は、ちょっと複雑な顔をした。
 そこで奉仕活動をする女子学生と、そこへ金を稼ぎに行く学生。ふたりの立場の違いをどう埋めようか――と思案している顔に見えた。

 「じゃ……さっきの赤鉢巻さんも、労働者仲間じゃないですか?」
 「飲め、飲めってうるさかったですけどね。でもね、ボクはしょせんバイトだし、あちらはたぶん本業。どうするんだろ……って思うんですよ。もしこのまま、歳をとってしまって、体が言うことをきかなくなったら……って」
 「西成にも、そういう人たちがいるんです。だから、私たちの奉仕活動も、そういう高齢者とか、体を壊して仕事ができない人たちを対象に、食事の炊き出しをしたりしてるんですけどね」
 「ときどき、思うんですよね。ボクみたいな若いもんが、バイト感覚でそういうところへ仕事探しに行く。それって、そこでしか働けない人たちの仕事を奪ってることになるんじゃないだろうか……って」
 「ヘェ~、そういうことまで考えるんですか?」
 「考えます。だって、世の中を牛耳ってるほうからすれば、労働コストは低く抑えたいわけだから。同じ賃金を払うなら、若くて元気のある者のほうが、効率いいじゃないですか。ボクは、そういう世の中の仕組みを変えない限り、問題の根本的解決にはならないと思うんだけど、そう思いながら、自分がやってる行動は、その仕組みに手を貸すようなことになってしまってる。その矛盾に、ちょっと悩んじゃったりするんですよね」
 「フーン……」

 深く息をもらしながら、上園昌子は、再び、目を窓の外に向けた。

 「私、そんなことまで考えなかったなぁ」

 ポツリとつぶやいた言葉の続きを期待したのだが、彼女の言葉はそこで途切れた。

 「でも、あなたの……その奉仕活動は……」

 言いながら顔をのぞき込むと、上園昌子のまぶたはすでに閉じられていた。
 その鼻からは、かすかに息を吐く音がもれていた。
 窓の外をゆっくり流れる遠景の灯り。
 コトコト、コトン……と、車輪がレールの継ぎ目を打ち付ける規則的な響き。
 私も、いつの間にか、睡魔に襲われていった。

           クローバー

 それから、どれくらい時間が経っただろうか。
 車両がガクンと揺れて、一瞬、目を開けると、列車は大きな操車場を通過しているところだった。
 顔の左側に、何かが触れていた。
 上園昌子の髪だった。
 彼女の頭は、いつの間にか私の肩の上に乗せられていて、頭頂部の髪が私の頬をくすぐっていた。
 いい香りがした。シャンプーの香りに混じって、微かに汗をかいた頭皮の香りがする。
 ちょっとだけ顔を左にねじると、私の鼻と口は、彼女の頭皮に触れた。
 周りの席の乗客たちは、長い夜汽車の旅に疲れて寝静まっていた。その静寂の中で、ひとつだけ増幅されていく音があった。
 私の心臓の音だった。

 「ウーン……」

 京都から乗り込んできたその天使は、微かに声をもらして下向きに傾けていた首を起こした。
 頭を反らす形になったので、私の左頬には、今度は、彼女のおでこが触れる形になった。
 ドクン、ドクン……。
 心臓の音が大きくなる。
 やや仰向けて、私の肩に乗った彼女の小さな顔。
 右耳にかかっていた彼女のボブの毛先は、パラリとほどけて彼女の頬にかかっていた。
 その鼻から吐き出される、ちょっとみかんの香りのする、安らかな寝息。
 サラサラの髪の下でうっすらと汗ばんだ、聡明な光をたたえたおでこ。
 その額は、私の口とほとんど接触するばかりの位置にある。
 乾いた唇が、彼女の額の汗を感じる。
 閉じられていた彼女のまぶたが、ピクリ……と震えた。
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