その人の「怒り」は、「私憤」か「義憤」か?

File-59 その人の「怒り」は「私憤」か「義憤」か?
なぜか、あなたの前で怒っている人。
その「怒り」には、だれかに対する「私憤」
もあれば、組織や社会に対する「義憤」も
あります。「私憤」に対しては、理解はしても
同調は禁物。そして義憤に対しては——。
「怒り」という感情は、とても、わかりにくい感情である――という話を、過去3回にわたってしてきました。
まだお読みでない方は、下記の記事をご参照ください。
File-56 その男が、女が、あなたに怒っている「ほんとうの理由」
File-57 「怒っている人」は、ほんとは「恐れている人」
File-58 DVに走る夫が、怒っているものの正体
わかりにくいのは、ひとつには、何を恐れて「怒り」という感情が生み出されたのか、その元となる「恐怖」そのものが、隠されている場合が多いからです。
そしてもうひとつは、「だれに」怒っているのかという、「怒りの対象」も、隠されている場合が多いからです。
しかし、わからないままでは、「怒り」と正しく向き合うことができません。ヘタすると、火に油を注ぐような対応をとってしまうかもしれません。
「怒り」と向き合うときには、隠されている「怒りの正体」を見抜き、その内容を正しく理解することが何よりも重要。私は、そう思っています。
見抜くポイントは、たった2つです。
〈1〉その人の「怒り」は、ほんとは「だれ」に向けられているのか?
〈2〉その人は、ほんとは「何」を恐れて怒っているのか?
怒った人の話を聞くときには、私はいつも、この2つに注意を払いながら、耳を傾けることにしています。
まず、見きわめるのは、〈1〉の「だれに」です。その人が怒っているのは、ほんとうに自分に対してなのか、それとも、ほんとうに怒っている相手は、他にいるのか?
それによって、「怒り」の受け止め方は、まったく変わってきます。

「怒っている人」には、話させるだけ話させる
この人は、自分に怒っているのか、それともだれか(何か)に対して抱いた「怒り」を自分にぶつけているだけなのか?
たいては、相手の態度や言葉の端々から、何となく見当がつきますが、わからないときには、私は、相手に言いたいだけ言わせるようにしています。途中で、「お言葉ですが」とか「おまえ、それは違うだろう」などと、口をはさみたくなることもあるかもしれませんが、それをやると、相手の「怒り」はあらぬ方向に逸れてしまいます。場合によっては、異論をはさんだあなたに、新たな「怒り」を芽生えさせてしまうかもしれません。なので、ただ、じっと話を聞いてやります。
言いたいことは言い終えたかな――というところまで話を聞いて、この人の「怒り」の元は「自分ではない」と確信が持てたら、こう切り出します。
何か面白くないことでもあったの?――(友人や部下に対して)
上と何かあったんですか?――(上司などに)
ハハァ、またフラれたか?――(気心の知れた異性の友人などに)
こうして声をかけてやると、筆者の経験では、「実は……」と「怒り」のほんとうの理由を話し始めてくれるケースが、少なくありません。
わけもわからず怒っている人には、こうして、話させるだけ話させて「ガス抜き」をした上で、「怒り」のほんとうの理由を引き出す――というのが、もっとも賢明な方法だろうと、私は思います。
「ほんとうの理由」が引き出せたら、「ウン、その気持ちはわかる」と、相手の気持ちを「理解」します。しかし、どうか間違えないでください。「理解」はするけど、必ずしも「同調」するというわけではありません。
ただ「理解」するだけで十分か、それとも「理解」した上で「同調」まで示す必要があるか? これは、「怒り」の内容によっても変わってきます。

その「怒り」が「私憤」なら、「同調」は禁物です
「怒り」の対象が自分ではない――となると、その人が怒っている対象は、あなた以外のだれかということになります。もしかしたら、「だれか」ではなくて、会社や学校といった組織、あるいは「世の中全体」かもしれません。
もし、その対象が「特定の個人」であれば、その人の「怒り」は、「私憤」ということになります。しかし、それが、「会社のあり方」とか「社会のしくみ」という制度や仕組みに向けられたものであれば、そうした「怒り」は「義憤」と呼ばれます。
原則として、私は、自分にこう戒めています。
「私憤」には、「理解」は示すけれど、「同調」はしない。
たとえば、だれかが、「まったく、うちの課の課長ってのが、どうしようもないワンマンでさぁ」と、そのワンマンぶりへの「怒り」をぶちまけているとします。
「ヘェ、それじゃあ、部下も大変だねェ。ストレス溜まるでしょう」と、相手の心情を思いやってあげる。ここまでは、「理解」の範囲です。しかし、そこで、「そりゃ、ひどい課長だねェ。オレだったら、キレてブン殴ってるよ」などとやれば、あなたはその人の「怒り」に「同調」したことになります。
仮に、その人とあなたが同じ職場だったりすると、あなたはその人と「反課長」のタッグを組んだ――とみなされてしまいます。同じ職場でなかったとしても、あなたを「同志」とみなしたその人は、以後、延々と、課長への「怒り」をあなたの耳に吹き込み続けるかもしれません。
ということもあるので、私は「私憤」には「同調」しないことにしています。しかし、その「怒り」を無視してしまうというのも冷たすぎやしないか――と思うので、「理解」を示すわけです。「理解」とは、ニュートラルな立場から相手の置かれた状況や心情を「わかってあげる」ということです。
「理解したよ」を示すために発する言葉は、「大変だね」でもいいし、「あなたの気持ちはわかる」でもいいでしょう。「わかってもらえた」というだけで、相手の「怒り」の炎は、そのエネルギーをほとんど消費して、鎮火に至る。「私憤」には、ここまでの対応で十分だ――と、私は思っています。

File-56 その男が、女が、あなたに怒っている「ほんとうの理由」
File-57 「怒っている人」は、ほんとは「恐れている人」
File-58 DVに走る夫が、怒っているものの正体
わかりにくいのは、ひとつには、何を恐れて「怒り」という感情が生み出されたのか、その元となる「恐怖」そのものが、隠されている場合が多いからです。
そしてもうひとつは、「だれに」怒っているのかという、「怒りの対象」も、隠されている場合が多いからです。
しかし、わからないままでは、「怒り」と正しく向き合うことができません。ヘタすると、火に油を注ぐような対応をとってしまうかもしれません。
「怒り」と向き合うときには、隠されている「怒りの正体」を見抜き、その内容を正しく理解することが何よりも重要。私は、そう思っています。
見抜くポイントは、たった2つです。
〈1〉その人の「怒り」は、ほんとは「だれ」に向けられているのか?
〈2〉その人は、ほんとは「何」を恐れて怒っているのか?
怒った人の話を聞くときには、私はいつも、この2つに注意を払いながら、耳を傾けることにしています。
まず、見きわめるのは、〈1〉の「だれに」です。その人が怒っているのは、ほんとうに自分に対してなのか、それとも、ほんとうに怒っている相手は、他にいるのか?
それによって、「怒り」の受け止め方は、まったく変わってきます。

「怒っている人」には、話させるだけ話させる
この人は、自分に怒っているのか、それともだれか(何か)に対して抱いた「怒り」を自分にぶつけているだけなのか?
たいては、相手の態度や言葉の端々から、何となく見当がつきますが、わからないときには、私は、相手に言いたいだけ言わせるようにしています。途中で、「お言葉ですが」とか「おまえ、それは違うだろう」などと、口をはさみたくなることもあるかもしれませんが、それをやると、相手の「怒り」はあらぬ方向に逸れてしまいます。場合によっては、異論をはさんだあなたに、新たな「怒り」を芽生えさせてしまうかもしれません。なので、ただ、じっと話を聞いてやります。
言いたいことは言い終えたかな――というところまで話を聞いて、この人の「怒り」の元は「自分ではない」と確信が持てたら、こう切り出します。



こうして声をかけてやると、筆者の経験では、「実は……」と「怒り」のほんとうの理由を話し始めてくれるケースが、少なくありません。
わけもわからず怒っている人には、こうして、話させるだけ話させて「ガス抜き」をした上で、「怒り」のほんとうの理由を引き出す――というのが、もっとも賢明な方法だろうと、私は思います。
「ほんとうの理由」が引き出せたら、「ウン、その気持ちはわかる」と、相手の気持ちを「理解」します。しかし、どうか間違えないでください。「理解」はするけど、必ずしも「同調」するというわけではありません。
ただ「理解」するだけで十分か、それとも「理解」した上で「同調」まで示す必要があるか? これは、「怒り」の内容によっても変わってきます。

その「怒り」が「私憤」なら、「同調」は禁物です
「怒り」の対象が自分ではない――となると、その人が怒っている対象は、あなた以外のだれかということになります。もしかしたら、「だれか」ではなくて、会社や学校といった組織、あるいは「世の中全体」かもしれません。
もし、その対象が「特定の個人」であれば、その人の「怒り」は、「私憤」ということになります。しかし、それが、「会社のあり方」とか「社会のしくみ」という制度や仕組みに向けられたものであれば、そうした「怒り」は「義憤」と呼ばれます。
原則として、私は、自分にこう戒めています。
「私憤」には、「理解」は示すけれど、「同調」はしない。
たとえば、だれかが、「まったく、うちの課の課長ってのが、どうしようもないワンマンでさぁ」と、そのワンマンぶりへの「怒り」をぶちまけているとします。
「ヘェ、それじゃあ、部下も大変だねェ。ストレス溜まるでしょう」と、相手の心情を思いやってあげる。ここまでは、「理解」の範囲です。しかし、そこで、「そりゃ、ひどい課長だねェ。オレだったら、キレてブン殴ってるよ」などとやれば、あなたはその人の「怒り」に「同調」したことになります。
仮に、その人とあなたが同じ職場だったりすると、あなたはその人と「反課長」のタッグを組んだ――とみなされてしまいます。同じ職場でなかったとしても、あなたを「同志」とみなしたその人は、以後、延々と、課長への「怒り」をあなたの耳に吹き込み続けるかもしれません。
ということもあるので、私は「私憤」には「同調」しないことにしています。しかし、その「怒り」を無視してしまうというのも冷たすぎやしないか――と思うので、「理解」を示すわけです。「理解」とは、ニュートラルな立場から相手の置かれた状況や心情を「わかってあげる」ということです。
「理解したよ」を示すために発する言葉は、「大変だね」でもいいし、「あなたの気持ちはわかる」でもいいでしょう。「わかってもらえた」というだけで、相手の「怒り」の炎は、そのエネルギーをほとんど消費して、鎮火に至る。「私憤」には、ここまでの対応で十分だ――と、私は思っています。

賛同できない「義憤」には、軽い「関心」を示すだけにする
では、もし、その人があなたに対して見せる「怒り」が「義憤」だった場合は?
「私憤」に対しては、「理解」を示す。しかし、「同調」はしない――が、基本的スタンスだと申し上げましたが、「義憤」の場合は、いささか複雑になります。
「義憤」というのは、会社や学校などの組織または社会全体に対して、「そのやり方はおかしいだろう」「その考え方は間違っている」と感じて発する「怒り」ですが、その「怒り」を生み出すのは、「理性」によって身に着けた「正義感」や「世界観」です。
だれかが、「義憤」が元になったと思える「怒り」をぶちまけてきたときには、私は、まず、その「怒り」を生み出した「正義感」または「世界観」の正体を、注意深く読み取った上で、どう対応するかを決定します。
その「正義感」が正しいと感じたり、「それは正論だ」と思えたときには、私は「理解」を示すだけでなく、「自分も同感だ」と「同調」するようにしています。ただ、「同調」するだけでなく、ときには、アドバイスを送ることもあります。
そんな正論を振りかざしても、傷つくのは本人だけだ――と思えるときには、

などと諭すこともあります。
しかし、その人の掲げる「正義」が自分のそれとは違う、「間違っている」と感じられるときには、「理解」はしても、「同調」はしません。
もし、その相手が、自分とは何でも語り合えるような親しい間柄の人間であれば、「それは違うんじゃないか」と徹底的に議論して、相手を説得しようと試みるかもしれませんが、それほど親しくない相手であれば、そんな労力はかけません。
「ヘェ、変わってるんですね」とか「面白い考え方するんですね」と、「軽い関心」を示す程度にとどめて、深く関わるのは止めておきます。
あなたに差し向けられる「怒り」の対象が、自分以外の「だれか」または「もの」である――と推測される場合の対処は、以上のとおり。
「私憤」には「理解」を示すが「同調」はしない。
「義憤」には、「理解」を示した上で、
相手の「正義」が自分の「正義」と共鳴し合えるものであった場合のみ、
「同調」を示す。
それが基本的なスタンスだろう――と思います。
では、もしその「怒り」が、自分に向けられたものらしい――とわかったら?

その人が自分に怒っている「理由」を知るために
その人が怒っている対象は、どうやら自分らしい――とはわかっても、《File-56》でお話したように、そのほんとうの理由は、隠されているかもしれません。
いったい何に怒っているのかわからない――という場合には、ズバリ訊いてみるというのも、ひとつの方法です。


というふうに、単刀直入にお尋ねしてみるわけです。
しかし、もしその人の「怒り」の背後に、あなたに対して抱いている「恐怖」が隠されている場合には、それで、「怒りのほんとうの理由」までが明かされるかというと、あまり期待はできません。
「隠された怒りの理由」は、《File-57》でご紹介したような方法で、推測するしかないのですが、それでも想像がつかないというときには、私だったら、ホンネを引き出す「誘い水」をかけてみます。たとえば――

というふうにです。たいていは、「いや、そんなことはないけど……」と否定しますが、そこで、さらに言うのです。

「じゃ、言うけどさ……」と、ホンネをぶつけてくれる人も、案外、いるかもしれません。
最初に謝ってしまう――という手もあります。


いきなりこう切り出すと、相手は「エ、何のこと?」という顔をしますから、そこで、問いかけるのです。

もちろん、目上の人間に対しては、もっとていねいな言葉で尋ねます。私の経験によれば、仮に自分の何かについて怒っている人がいても、そう尋ねた時点で、「もういいや」と「怒り」は矛を収めてしまいます。残りの半分は、「ま、大したことじゃないんだけどね……」と、「怒り」のほんとうの理由を話してくれるかもしれません。
「ほんとうの理由」を話してくれたら、「そんなふうに感じてたのか」「あなたがそう感じるのも、ムリはない」と、その感情に「理解」を示します。
自分に怒っていると感じられる人に対しては、まずは、こうしてその「怒りの理由」を「理解」することが、何より大事――と、私は思います。
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管理人は、常に、下記3つの要素を満たすべく、知恵を絞って記事を書いています。
みなさんのポチ反応を見て、喜んだり、反省したり……の日々です。
今後の記事作成の参考としますので、正直な、しかし愛情ある感想ポチを、どうぞよろしくお願いいたします。



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