「反戦フォーク」から「四畳半フォーク」へ

ベトナム戦争が激化した1960年代後半から1970年代前半にかけて、世界中に広がった「反戦フォーク」。しかし、日本では、それはやがて「四畳半フォーク」へと変わっていった。その時代をリアルに生きた管理人が語る、時代の移り変わりの秘密――。
Talker
シランケン・重松シュタイン 自ら著作を手がけるエッセイスト&作家。
当ブログの管理人です。旧ペンネーム/長住哲雄
AKI 出張エステ嬢として働きながら、作家を目指すアラサーの美女。
【今回のキーワード】 反戦フォーク 四畳半フォーク
AKI 哲ジイ、改名されたんですね?
哲雄 ハイ、当ブログ開設以来使ってきた「長住哲雄」というペンネームを、この度、「シランケン・重松シュタイン」と改めさせていただきました。
AKI 再婚でもしたんすか?
哲雄 初婚もしてないのに、再婚……なんてあり得へんでしょ!
AKI あ、そうか。じゃ、戒名つけたんだ?
哲雄 勝手に人を殺すな!
AKI それじゃ、いったい、いかなる心境で?
哲雄 ま、そもそも「長住哲雄」ってのが、その昔、本を出すにあたって、大あわてでつけたペンネームでしたから、実は、あまり気に入ってなかった。なにしろ、私の実家があった町の隣町の名前――なんていう、安直な名前だったもんで……。ま、そろそろ、人生も晩年にさしかかったんだし、ここらで、本名に戻しておくかとね。
AKI エッ! てことは、哲ジイ、ハーフだったの? 実は、はるか、ドイツの血が混じった……とかいう?
哲雄 ニヒット! 本名なのは「重松」だけ。「シランケン」も「シュタイン」も、ニックネームですッ! 何を訊かれても、「そんなこたぁ、知らん」と言うばかりの私を、友人たちが「シランケン・シュタイン」と呼ぶようになった。そのニックネームの間に、「本名」をミドル・ネームとしてはさんで、「シランケン・重松シュタイン」としたわけです。そんなわけなので、今後は、私のことは、「シランケン」または「重松」と呼んでくれたまえ。
AKI ハイハイ、それじゃ、シランケンじいさま、前回の話の続きでございますよ。
シランケン 「じいさま」は要らない。「シランケン」でけっこうです。
AKI じゃ、シランケン。アメリカで生まれた「プロテストソング」の動きは、日本でも、多くの「シンガー・ソング・ライター」を生みだし、「反戦フォーク」の時代へとつなげて、それまでの日本の音楽ビジネスに革命的な変化をもたらした。前回は、そんな話をしたんですよね? 今回は、日本で「プロテスト・ソング」がどう生まれ、どのように変化していったか? そういう話をしようということでしたが――。
シランケン ハイ、待ってました。私が、初めて「プロテスト・ソング」と呼べる楽曲の存在を知ったのは、深夜のラジオ放送を通してでした。1968年あたりだったと思います。大学のキャンパスに立て看板が立ち並んで、毎日のように、どこかで行われるデモへの参加を呼びかけているような、そんな時代でしたね。
AKI シランケンが初めて聞いた日本の「プロテスト・ソング」っていうのは、どんな曲だったんですか?
シランケン 記憶がいささかあやふやではあるんですが、おそらく、高石友也の『受験生ブルース』だったような気がします。決してTVなどでは放送されない、こんな皮肉や風刺に富んだ曲があるんだと知って、青年であったシランケンは、その世界に惹かれていきました。
AKI すでに1967年には、森山良子が出てきて、自作のフォーク・ソングを歌っていたんですよね?
シランケン ハイ。「フォーク・ソング」そのものは日本の音楽界にも登場していたんですが、森山たちの歌う「フォーク」は「キャンパス・フォーク」などと呼ばれ、どっちかと言うと、あまり政治的ではない学生たち、俗に「ノンポリ」と呼ばれる学生たちが、芝生でギターを弾きながら愛唱するような、そんな歌われ方をしていました。
AKI ジイは、あまり好きではなかったんですか?
シランケン そんなことはありませんよ。ただ、当時の私は、あまり、健全で牧歌的とは言えない青年でしたから、森山良子が歌うような世界は、少しまぶしすぎただけです。
AKI フーン、まぶしかったんだ? つまり、屈折してたわけですね?
シランケン しまくってましたねェ。なので、世の中を皮肉ったり風刺したりする歌に、共感してしまうような感性が、あったのかもしれません。というか、私ひとりがではなくて、当時の若者の多くが。そんなときに出てきたのが、高石友也であり、その影響を受けて登場し、後に「フォークの神様」と呼ばれるようになった岡林信康でした。
AKI その人、知ってるかもしれない。『友よ』とかを歌った人ですよね。
シランケン ホォ、よくご存じで。この人、牧師の息子だったんですが、とても行動的な人でしたね。山谷のドヤ街に住み込んで、『山谷ブルース』を作ったり、被差別部落の女性から話を聞いて、『チューリップのアップリケ』とか『手紙』を作ったり、『自由への長い旅』とか『私たちの望むものは』では、若者たちに「自己変革による解放」を求める熱いメッセージを送るなどして、その頃の「反体制」を叫ぶ若者たちの「カリスマ」として崇められました。
AKI 崇められた?
シランケン ハイ、崇められましたねェ。当時、「反体制的なフォーク」を歌っているシンガーたちは、TVには出してもらえなかった――っていうか、出る気もなかったわけで、もっぱら広場や街頭で歌ったりしていて、われわれはそれを「フォーク・ゲリラ」と呼んだりしていました。
AKI エッ、ゲリラですか? フォークがゲリラ?
シランケン どこにでも出没する――というんで、そう呼ばれたんですが、その「フォーク・ゲリラ」がもっとも頻繁に現れたのが、新宿西口の地下広場。そのうち、この広場には、週末ごとに若者たちが集まって歌を聴いたり、一緒に歌ったりするようになり、「西口フォーク集会」などと言われるようになりまた。
哲雄 ハイ、当ブログ開設以来使ってきた「長住哲雄」というペンネームを、この度、「シランケン・重松シュタイン」と改めさせていただきました。
AKI 再婚でもしたんすか?
哲雄 初婚もしてないのに、再婚……なんてあり得へんでしょ!
AKI あ、そうか。じゃ、戒名つけたんだ?
哲雄 勝手に人を殺すな!
AKI それじゃ、いったい、いかなる心境で?
哲雄 ま、そもそも「長住哲雄」ってのが、その昔、本を出すにあたって、大あわてでつけたペンネームでしたから、実は、あまり気に入ってなかった。なにしろ、私の実家があった町の隣町の名前――なんていう、安直な名前だったもんで……。ま、そろそろ、人生も晩年にさしかかったんだし、ここらで、本名に戻しておくかとね。
AKI エッ! てことは、哲ジイ、ハーフだったの? 実は、はるか、ドイツの血が混じった……とかいう?
哲雄 ニヒット! 本名なのは「重松」だけ。「シランケン」も「シュタイン」も、ニックネームですッ! 何を訊かれても、「そんなこたぁ、知らん」と言うばかりの私を、友人たちが「シランケン・シュタイン」と呼ぶようになった。そのニックネームの間に、「本名」をミドル・ネームとしてはさんで、「シランケン・重松シュタイン」としたわけです。そんなわけなので、今後は、私のことは、「シランケン」または「重松」と呼んでくれたまえ。
AKI ハイハイ、それじゃ、シランケンじいさま、前回の話の続きでございますよ。
シランケン 「じいさま」は要らない。「シランケン」でけっこうです。
AKI じゃ、シランケン。アメリカで生まれた「プロテストソング」の動きは、日本でも、多くの「シンガー・ソング・ライター」を生みだし、「反戦フォーク」の時代へとつなげて、それまでの日本の音楽ビジネスに革命的な変化をもたらした。前回は、そんな話をしたんですよね? 今回は、日本で「プロテスト・ソング」がどう生まれ、どのように変化していったか? そういう話をしようということでしたが――。
シランケン ハイ、待ってました。私が、初めて「プロテスト・ソング」と呼べる楽曲の存在を知ったのは、深夜のラジオ放送を通してでした。1968年あたりだったと思います。大学のキャンパスに立て看板が立ち並んで、毎日のように、どこかで行われるデモへの参加を呼びかけているような、そんな時代でしたね。
AKI シランケンが初めて聞いた日本の「プロテスト・ソング」っていうのは、どんな曲だったんですか?
シランケン 記憶がいささかあやふやではあるんですが、おそらく、高石友也の『受験生ブルース』だったような気がします。決してTVなどでは放送されない、こんな皮肉や風刺に富んだ曲があるんだと知って、青年であったシランケンは、その世界に惹かれていきました。
AKI すでに1967年には、森山良子が出てきて、自作のフォーク・ソングを歌っていたんですよね?
シランケン ハイ。「フォーク・ソング」そのものは日本の音楽界にも登場していたんですが、森山たちの歌う「フォーク」は「キャンパス・フォーク」などと呼ばれ、どっちかと言うと、あまり政治的ではない学生たち、俗に「ノンポリ」と呼ばれる学生たちが、芝生でギターを弾きながら愛唱するような、そんな歌われ方をしていました。
AKI ジイは、あまり好きではなかったんですか?
シランケン そんなことはありませんよ。ただ、当時の私は、あまり、健全で牧歌的とは言えない青年でしたから、森山良子が歌うような世界は、少しまぶしすぎただけです。
AKI フーン、まぶしかったんだ? つまり、屈折してたわけですね?
シランケン しまくってましたねェ。なので、世の中を皮肉ったり風刺したりする歌に、共感してしまうような感性が、あったのかもしれません。というか、私ひとりがではなくて、当時の若者の多くが。そんなときに出てきたのが、高石友也であり、その影響を受けて登場し、後に「フォークの神様」と呼ばれるようになった岡林信康でした。
AKI その人、知ってるかもしれない。『友よ』とかを歌った人ですよね。
シランケン ホォ、よくご存じで。この人、牧師の息子だったんですが、とても行動的な人でしたね。山谷のドヤ街に住み込んで、『山谷ブルース』を作ったり、被差別部落の女性から話を聞いて、『チューリップのアップリケ』とか『手紙』を作ったり、『自由への長い旅』とか『私たちの望むものは』では、若者たちに「自己変革による解放」を求める熱いメッセージを送るなどして、その頃の「反体制」を叫ぶ若者たちの「カリスマ」として崇められました。
AKI 崇められた?
シランケン ハイ、崇められましたねェ。当時、「反体制的なフォーク」を歌っているシンガーたちは、TVには出してもらえなかった――っていうか、出る気もなかったわけで、もっぱら広場や街頭で歌ったりしていて、われわれはそれを「フォーク・ゲリラ」と呼んだりしていました。
AKI エッ、ゲリラですか? フォークがゲリラ?
シランケン どこにでも出没する――というんで、そう呼ばれたんですが、その「フォーク・ゲリラ」がもっとも頻繁に現れたのが、新宿西口の地下広場。そのうち、この広場には、週末ごとに若者たちが集まって歌を聴いたり、一緒に歌ったりするようになり、「西口フォーク集会」などと言われるようになりまた。
AKI フォーク集会ですか。そこに岡林信康とかもいたんですか?
シランケン 顔を出したこともある――という話は耳にしたことはありますが、何しろ私は、現場にいませんでしたから。あちらは、「ベ平連」などが主催する市民集会。私は……ま、それはいいでしょう。でね、その「フォーク集会」ですが、繰り返すたびに集まる人数が増えて、ついには、7000人もの人数が集まるようになり、「西口広場」は人で埋め尽くされて、歌声が広場いっぱいにこだまするようになりました。
AKI こだまするですか。でしょうね。あそこ、反響がいいですから……。
シランケン しかし、長くは続きませんでしたね。1968年に始まったフォーク集会が、参加者1万人を超えるようになると、警察が排除に乗り出しました。
AKI 「排除」しちゃうんですか? 広場なのに?
シランケン 「広場」のままだと、憲法に保障された「集会・結社の自由」を侵すことになりかねないので、警察は、奥の手ともいえる「後出しジャンケン的な一手」を打ちました。
AKI 後出しジャンケン? 何ですか、それ?
シランケン それまで「西口広場」と言っていたのを「西口通路」に名称変更して、「ここは広場ではありません。通路です。立ち止まらないでください」とやり始めたんですね。「公安条例」では取り締まれないので、「道交法違反」で取り締まろうとしたわけです。
AKI せこいことやりますね、警察も。
シランケン せこいです。最後には、機動隊まで導入して、民衆を排除しようとしたので、参加者たちとの間で小競り合いが生じ、流血騒ぎになって、逮捕者も出してしまいました。それが、1969年の5月の話。そうして、「フォーク・ゲリラ」は、暴力的に広場から締め出されていきました。
AKI その後、「反戦フォーク」はどうなっていったんですか?
シランケン 岡林の後にも、高田渡、加川良……などが続いたのですが、「新左翼」と呼ばれた学生運動が、組織の分裂や内ゲバなどで大衆から離れていくのに合わせて、政治的メッセージを失っていきました。若者たちの中に全体に広がり始めた、「政治? もういいよ」という空気にも影響されて、フォークソングの「脱政治化」が進行しました。
AKI フォークも下火になっちゃったんですか?
シランケン 下火にはなりませんでしたが、その質が変わったんですね。「政治だ」「世界だ」「戦争反対だ」――と、「大きな世界」を取り上げるよりも、「このひと握りの小さな世界を大事にして生きよう」と、自分の身の周りの「小さな日常」を歌おうという意識のほうが、強くなっていったわけです。
AKI なんか、わかるような気がする。もう、政治に疲れちゃったんですかね。
シランケン 「あの頃、ふたりが暮らしたアパートは~」と、若くて貧しい自分たちの暮らしを歌い上げた『赤提灯』や『神田川』で知られる「かぐや姫(南こうせつ)」などの歌が代表でした。俗に、「四畳半フォーク」と呼ばれた、新しいフォークのジャンルが登場してくるんですね。
AKI エーッ、四畳半? 狭くないですか?
シランケン あのね、その頃の学生下宿なんてのは、四畳半が大半だったんですッ! かぐや姫のヒット曲『神田川』なんて、「三畳ひと間の小さな下宿~」ですからね。台所はなし、トイレは共同。フロなんて付いてないから、「横町の風呂屋」まで出かけなくちゃならない。そんな貧しい生活だったけど、そんな中で自分たちは、小さな愛を育んだよね。それでも幸せだったよ――とね。ま、そういう世界観を歌ったんですね、四畳半フォークの世界では……。
AKI いいなぁ……。私、憧れちゃう、そういう世界。
シランケン ハァ……? いま、何とおっしゃいました?
AKI 私も、そういう生活、したかったな――って。
シランケン できますよ、いまからでも。うちも、部屋ひとつ、空いてるし……。
AKI ご遠慮申し上げときます。
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盆になると、男たちがクジで「かか」を交換し合う。
明治半ばまで、一部の地域で実際に行われていた
「盆かか」と呼ばれる風習。本作品は、その風習を
題材に描いた官能フィクションです。
与一の新婚の妻・妙も、今年は、クジの対象になる。
そのクジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
権太との三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
様子が変わった。その変化に戸惑う与一は、
ある日、その秘密を知った——。
筆者初の官能作品、どうぞお愉しみください。
2020年9月発売 定価:200円 発行/虹BOOKS
⇒BOOK☆WALKER からお読みになる方は、ここをクリック。
既刊本もどうぞよろしく 写真をクリックしてください。






明治半ばまで、一部の地域で実際に行われていた
「盆かか」と呼ばれる風習。本作品は、その風習を
題材に描いた官能フィクションです。
与一の新婚の妻・妙も、今年は、クジの対象になる。
そのクジを引き当てたのは、村いちばんの乱暴者・権太。
権太との三日間を終えて帰って来た妙は、その夜から、
様子が変わった。その変化に戸惑う与一は、
ある日、その秘密を知った——。
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管理人は常に、下記3つの要素を満たせるように、脳みそに汗をかきながら、記事をしたためています。
あなたの押してくださったポイントを見ては、喜んだり、反省したりの日々です。
どうぞ、正直な、しかしちょっぴり愛情のこもった感想ポチをお送りください。よろしくお願いいたします。



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