人は「手が届く幸せ」を選びたがる

法則 61 人は「報酬」が期待できない相手には「好意」を抱かない
「手が届かない恋」にこだわり続ける人がいます。
しかし、相手から「期待した報酬」が返ってる可能性は、
0に近い。そんなとき、人はどうするのが正しいのか?
「高嶺の花」という言葉があります。
《自分には過ぎた女性である。
とても、自分には手が出せない。
仮に手を伸ばしても、届きはしないだろう》
そんな意味で使われる言葉です。
通常は、「手が届かない女性」に対して使われることが多いようですが、何も、その対象は「女性」とばかりは限りません。対象が「男性」である場合もあれば、美術品や車、宝飾品などの「モノ」である場合もあります。
要は、自分の力では手にすることができない。したがって、ただ見ているしかない対象物のことを言うわけですね。
その「高嶺の花」が、異性であった場合、それでもあなたはその想いを遂げようとガンバりますか?
今回は、そんな話をしてみようと思うわけです。

「ムリ目な恋」と「高嶺の花」は、似ているようで違う
筆者・長住にも、少しムリ目かな……と思う女性に心惹かれてしまうクセが、ないとは言えません。というか、それくらいの相手でないと本気になれません。
しかし、「少しムリ目」というのと「高嶺の花」というのは、ちょっと違います。
どこが違うか?
勝算があるかどうか、その確率がどれくらいか?――です。
「少しムリ目」という恋だと、その確率が、最低でも15~20%ぐらいはある。
しかし、「高嶺の花」だと、その確率は、あっても100に1つとか1000に3つぐらい。ほとんどゼロです。
関係性も違います。
「少しムリ目」な相手とは、「恋人」にはなれなくても、会えば会釈を交わすぐらいの関係性は成立していることが多いだろうと思われます。場合によっては、すでに「ただ友」ぐらいの関係は成立しているかもしれません。
しかし、「高嶺の花」だと、そもそも、その関係性が作られていないことが多い。言葉を交わしたことさえなく、ただ、一方的に、眺めているだけ――ということが多いのではないか、と思われます。
ただ「いいなぁ」と眺めているだけの関係性は、ほとんど「アイドルとファン」の関係に近いかと思います。
それでもいいじゃないか、という人もいるかもしれません。自分は「ただのファンでいい」と思うのであれば、「高嶺の花」であろうが何だろうが、勝手に想い続ければいい――と、筆者は思います。
しかし、ほんとに眺めているだけですむでしょうか?
《自分には過ぎた女性である。
とても、自分には手が出せない。
仮に手を伸ばしても、届きはしないだろう》
そんな意味で使われる言葉です。
通常は、「手が届かない女性」に対して使われることが多いようですが、何も、その対象は「女性」とばかりは限りません。対象が「男性」である場合もあれば、美術品や車、宝飾品などの「モノ」である場合もあります。
要は、自分の力では手にすることができない。したがって、ただ見ているしかない対象物のことを言うわけですね。
その「高嶺の花」が、異性であった場合、それでもあなたはその想いを遂げようとガンバりますか?
今回は、そんな話をしてみようと思うわけです。

「ムリ目な恋」と「高嶺の花」は、似ているようで違う
筆者・長住にも、少しムリ目かな……と思う女性に心惹かれてしまうクセが、ないとは言えません。というか、それくらいの相手でないと本気になれません。
しかし、「少しムリ目」というのと「高嶺の花」というのは、ちょっと違います。
どこが違うか?
勝算があるかどうか、その確率がどれくらいか?――です。
「少しムリ目」という恋だと、その確率が、最低でも15~20%ぐらいはある。
しかし、「高嶺の花」だと、その確率は、あっても100に1つとか1000に3つぐらい。ほとんどゼロです。
関係性も違います。
「少しムリ目」な相手とは、「恋人」にはなれなくても、会えば会釈を交わすぐらいの関係性は成立していることが多いだろうと思われます。場合によっては、すでに「ただ友」ぐらいの関係は成立しているかもしれません。
しかし、「高嶺の花」だと、そもそも、その関係性が作られていないことが多い。言葉を交わしたことさえなく、ただ、一方的に、眺めているだけ――ということが多いのではないか、と思われます。
ただ「いいなぁ」と眺めているだけの関係性は、ほとんど「アイドルとファン」の関係に近いかと思います。
それでもいいじゃないか、という人もいるかもしれません。自分は「ただのファンでいい」と思うのであれば、「高嶺の花」であろうが何だろうが、勝手に想い続ければいい――と、筆者は思います。
しかし、ほんとに眺めているだけですむでしょうか?

「報酬」が期待できない対象は「迂回」するのが、おとなの「自我」
他者のために何かをしたら、人はその「報酬」を期待します。
「何かをする」ということの中には、「その人を想い続ける」ということもあります。「想った分」だけ、人は、「これだけ想ったのだから」と、その「報酬」を期待するわけです。
「報酬」と言っても、別にお金や物をよこせ――と思うわけではありません。
恋愛の場合、その「報酬」の最大のものは、「相手が自分の想いに応えてくれる」です。「好き」の最大の報酬は、相手からも「好き」が返ってくること――だと言っていいと思います。
しかし、こういう「報酬」が運よく得られる確率は、そんなに高くありません。
相手が「高嶺の花」となると、先ほども申し上げたように、その確率は天文学的に低くなります。
ふつうは、それを察した時点で、そういう相手を恋愛のターゲットからは除外し、「自分は単なるファンでいい」と言い聞かせた上で、もっと手ごろな相手、「報酬」が返ってくることを期待できそうなターゲットに、目標を切り替えます。「高嶺の花」に向かおうとした欲望に、「迂回せよ!」と命じるわけですね。
こういう行動を選択させるのは、「自我」のはたらきです。
ここで「自我」が行う作業は、次の2つです。
〈1〉現実を知る――相手の気持ちが自分に向いているかどうか、自分の能力は相手を振り向かせるだけのパワー・魅力を備えているか……などを、正確に見極める。
〈2〉自分を現実に適応させる――自分の能力と相手の現実から、実現可能な行動を選択を選ばせる。
〈2〉自分を現実に適応させる――自分の能力と相手の現実から、実現可能な行動を選択を選ばせる。
この2つが正常にはたらけば、人は、「自分の身の丈」に合った恋を選ぼうという行動をとります。
筆者の場合は、その結果、「高嶺の花」は「見るだけ」にして、せめて「少しムリ目の恋」ぐらいにとどめておこうぜ――と、自身に言い聞かせます。
しかし、中には、この「自我」のシステムがうまく機能しない人がいます。
そういう人の自我は、「欲しいものは欲しい」⇒「何が何でも手に入れるんだ」という「原始的な状態=原我(エス)」段階にとどまってしまいます。
その結果、何が起こるか?
こういう自我がとらせる行動は、ちょっと危険です。

「現実」を都合よく解釈してしまう未成熟な「自我」
欲望を現実に適応させる機能がうまく働かないと、人は、現実を自分に都合よく解釈してしまいます。
たとえば、Aという男性がBという女性にホレているとします。
Bは、客観的に見ても、Aにはとても手が届かないだろうと思われる「高嶺の花」。実際、BはAとは口もきこうとしないし、Aの顔を見ても、ニコリともしない……どころか、口をゆがめてちょっとイヤな顔さえして見せます。
しかし、Aは、その現実をこう解釈してしまいます。

イヤな顔をする? あれは、オレに抱かれたがっている証拠。それを隠すために、イヤな顔をしてるだけなんじゃないの?
実は、Bには、交際しているとウワサのCという男性がいるのですが、その事実を知らされても、Aは、こう考えてしまいます。

こうして「現実」を受け入れることのできないAがとる行動は、しばしば、周囲に「危険」を及ぼします。



現実に適応できない「自我」がこだわる「高嶺の花」への執着は、こうして、破滅的な結末を招くことにもなります。
しかし、たいていの人間の「自我」は、「現実適応能力」を身に着けているので、こうはなりません。

「想い」への「報酬」、「半返し」でも十分
現実に適応する機能を備えた「自我」は、いつまでも「高嶺の花」を追いかけたりはしません。
「高嶺の花」を「いいな」と思う気持ちは残したまま、現実的な恋愛の相手としては、先にもお話したように、もっと「身の丈に合った」相手を選ぼうとします。
「身の丈に合った」とは、自分の「想い」に対して、「そこそこ見合った《報酬》が返ってきそうな相手」ということです。
自分の「想い」を「100」としたとき、「100の報酬が返ってこなくちゃイヤだ」なんて言うと、これはこれで、むずかしい問題になるのですが、「80返ってくればいいや」「70も返ってくれば十分じゃないか」「いや、半分も返ってくれば御の字」ぐらいに思っていれば、この「迂回」はうまくいきます。
筆者・長住は、「手の届く幸せ」とは、その程度のものだ――と思っています。
ところで、その「愛の報酬」とは何か?
これについては、本が一冊書けそうなくらいのお話があります。とてもここでは書ききれませんので、いずれ、機会を改めてお話したいと思います。
どうぞ、みなさん、「身の丈に合った恋愛」をお楽しみください――と、本日は、そんな話をさせていただきました。
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管理人は、常に、下記3つの要素を満たすべく、知恵を絞って記事を書いています。
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