もしも時計が左回りを始めたら?〈4〉 会うはずのない人と

なぜか、そいつを手放せなくなった。
時計が逆回転を始めてから、
ボクの周りでは、次々と不思議なことが
起こった。過去が、思いもしない時に、
思いもしない場所に現れて、
ボクの魂を揺り動かした―—。
連載
もしも時計が左回りを始めたら? 第4章

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ここまでのあらすじ 8年間つき合った希美が、「別れてください」と切り出してから、ボクの腕時計は、ナゾの左回りを始めた。その瞬間から、ボクの「時間」は逆流を始めたのだった。修理しようかと見せた時計職人は、「コレ、修理するんですか?」と意外な顔をした。「せっかく逆回転を始めてくれたのに」と言うのだった。それまで腕時計などしなかったボクが、その腕時計を手首にはめたのは、16歳年下だった希美に、「セクシーじゃない」と言われたからだった――
逆走を始めた時計を、それでもボクは、左手首に巻き続けた。
左回転する針が、何だか、いとおしくもあったからだが、その時計がボクの腕で左回りを始めてから、ボクの人生には、説明のつかないことが次々に起こった。
左回転開始から3日経ったある日、それは、ボクがある取材先に向かおうとして乗った電車の中で起こった。
滅多に乗らない路線で、ふだんは、そういう路線が存在することさえ意識することがない路線だった。
昼間の車内はガランとしていて、乗客は数えるほどしかいなかった。
こりゃ退屈な旅になるな――と座席のシートに体を沈めて、軽く目を閉じると、たちまち、睡魔が襲ってきた。
頭を窓ガラスにもたせて、ウツラウツラとしていると、突然、隣にドスンという衝撃を感じた。
「何だ?」と目を開けると、下から人の顔を覗き込むようにしている顔と目が合った。
「な・ん・で?」と、その目が問いかけてきた。

少し髪に白いものが目立ち始めた年頃の、ちょっと目の大きな女。
「なんで?」と見開かれた目の表情が、17年に及ぶ時を経て、ボクの記憶を揺さぶった。
その表情は、あのとき、ボクに「どうして?」と問いかけたときの表情だった。
17年前、ボクは、大学卒業と同時に就職していた出版社の雑誌編集部を退職した。「辞めることにしたから」と告げたときに、彼女は、眉を「八の字」に寄せ、「どうして?」とボクの目をのぞき込んできた。驚きと嘆きがブレンドされたような目の色。同じ目の色が、17年間、一度も会わなかったボクの顔を、シゲシゲと見つめていた。
「戸川か? 戸川菜穂……だよね?」
覚えてたのね――というふうに、彼女の首がタテに動いた。
戸川菜穂は、ボクが所属していた編集部で、フリーのライターとして仕事をしている女だった。馬力のあるライターで、だれもが尻込みするような取材先にも、「ワタシ、行く」と自分から名乗り出て、きちんと話を聞き出してくる。原稿もしっかり書けているので、ボクは、自分が担当する記事には、いつも、彼女を起用していた。
締切が終わると、ボクたちは、よく飲みにも出かけた。そして、いつの間にか、ふたりは体を重ね合う関係にもなった。
そのままいけば、いつかは一緒に暮らす関係になるかもしれない――という、漠然とした思いはあった。しかし、どちらも、ゴールは目指していなかった。「結婚」が恋愛のゴールであるという考えは、ボクにも、彼女にもなかった。
そして、ボクは、その編集部を辞める決断を下した。
理由は、その出版社の出版物が、ボクの思想とは相容れないからだった。新しく出す雑誌の編集長を引き受けないか――と打診されたとき、ボクは、「辞めるならいまだ」と決断し、辞表を提出した。
左回転する針が、何だか、いとおしくもあったからだが、その時計がボクの腕で左回りを始めてから、ボクの人生には、説明のつかないことが次々に起こった。
左回転開始から3日経ったある日、それは、ボクがある取材先に向かおうとして乗った電車の中で起こった。
滅多に乗らない路線で、ふだんは、そういう路線が存在することさえ意識することがない路線だった。
昼間の車内はガランとしていて、乗客は数えるほどしかいなかった。
こりゃ退屈な旅になるな――と座席のシートに体を沈めて、軽く目を閉じると、たちまち、睡魔が襲ってきた。
頭を窓ガラスにもたせて、ウツラウツラとしていると、突然、隣にドスンという衝撃を感じた。
「何だ?」と目を開けると、下から人の顔を覗き込むようにしている顔と目が合った。
「な・ん・で?」と、その目が問いかけてきた。

少し髪に白いものが目立ち始めた年頃の、ちょっと目の大きな女。
「なんで?」と見開かれた目の表情が、17年に及ぶ時を経て、ボクの記憶を揺さぶった。
その表情は、あのとき、ボクに「どうして?」と問いかけたときの表情だった。
17年前、ボクは、大学卒業と同時に就職していた出版社の雑誌編集部を退職した。「辞めることにしたから」と告げたときに、彼女は、眉を「八の字」に寄せ、「どうして?」とボクの目をのぞき込んできた。驚きと嘆きがブレンドされたような目の色。同じ目の色が、17年間、一度も会わなかったボクの顔を、シゲシゲと見つめていた。
「戸川か? 戸川菜穂……だよね?」
覚えてたのね――というふうに、彼女の首がタテに動いた。
戸川菜穂は、ボクが所属していた編集部で、フリーのライターとして仕事をしている女だった。馬力のあるライターで、だれもが尻込みするような取材先にも、「ワタシ、行く」と自分から名乗り出て、きちんと話を聞き出してくる。原稿もしっかり書けているので、ボクは、自分が担当する記事には、いつも、彼女を起用していた。
締切が終わると、ボクたちは、よく飲みにも出かけた。そして、いつの間にか、ふたりは体を重ね合う関係にもなった。
そのままいけば、いつかは一緒に暮らす関係になるかもしれない――という、漠然とした思いはあった。しかし、どちらも、ゴールは目指していなかった。「結婚」が恋愛のゴールであるという考えは、ボクにも、彼女にもなかった。
そして、ボクは、その編集部を辞める決断を下した。
理由は、その出版社の出版物が、ボクの思想とは相容れないからだった。新しく出す雑誌の編集長を引き受けないか――と打診されたとき、ボクは、「辞めるならいまだ」と決断し、辞表を提出した。

元々フリーランスだった菜穂は、「どうして?」と理由を尋ねはしたが、「辞めないで」とは言わなかった。
ボクは会社を去り、それ以来、彼女と会うことはなかった。
会いたいなぁ――という気持ちはあった。しかし、気軽に会いに行ける距離にボクはいなかった。会社を辞めたボクは、九州の新聞社や広告代理店と契約して、フリーの編集者兼コピーライターとして仕事を始めることになった。いずれは、地方で出版活動を開始することを目標に。
しかし、その目標は、3年で潰えた。目標がなくなると、九州で仕事を続けていくことは、厳しい状況になる。ボクは、再び、東京の出版社の仕事も引き受けることにして、編集プロダクションを設立し、事務所を東京に構えることに決めた。
そのときにはもう、戸川菜穂は、業界から姿を消していた。

もう、会うことはないだろうな――と思っている人だった。
その人が、アンノウンな電車の車内で、いきなり、ボクの座席の隣にドサッと腰を下ろして、ボクの顔をのぞき込んできた。
あり得ないだろう、こんなこと。
「なんで、この電車に?」
今度は、ボクが尋ねた。
戸川菜穂は、「ウン……」とうなずいて床に目を落とした。しばらく考え込んだ末に口から出た言葉は、ボクの胸を打った。
「ビョーイン」
「エッ、病院?」
「この先のガンセンターで治療受けてるの。ガンになっちゃったのよ、ワタシ。ステージⅡの乳がんだって」
「エーッ」と声を挙げるボクに、彼女はおどけた顔を作って言うのだった。
「昔、あなたがもんでくれたオッパイ、もう、なくなっちゃうかもしれないわ」
言葉を失うボクに、彼女は「またね」と手を振って、電車を降りていった。
ボクたちはおたがいの電話番号を交換し合ったが、彼女から電話がかかってくることはなかったし、ボクからの電話に彼女が応答することもなかった。
遡った時間が、ボクの中で、ひとつ崩れた。
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