ピンちゃん〈15〉 ラスト・ショーの鶴

突然、ピンちゃんが言い出した。だから、
「みんな先に帰って」というのだが、だれも
帰ろうとはしなかった——。
連載 ピンちゃん 第15章

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ここまでのあらすじ 中学3年の2学期、ボクは瀬戸内海に面した工業都市のその中学校に転校した。その中学校の校庭に忘れ去られたような平均台が1基、据えてあった。ある日の放課後、ボクは、その平均台で舞うひとりの女子生徒を目にした。「ピンちゃん」と呼ばれる同じクラスの女子。その姿に恋をしたボクだったが、彼女には親衛隊がついていた。ピンちゃんと親しく口をきく転校生のボクは、その標的になっていた。そんな中、クラス対抗のリレーが行われ、なぜか、転校生のボクがメンバーに選ばれた。それは、転校生に恥をかかせてやれ、というクラスの連中の意地悪でもあった。その手には乗るか。ボクは必死で足を動かしたが、後続のランナーに次々抜かれていく。そのとき「ガンバって」と叫ぶ声が聞こえた。ピンちゃんの声だった。秋になると、担任の教師から「弁論大会に出てみないか」と声がかかった。ボクがその準備にかかった頃、ピンちゃんはひとりで平均台の練習に励んでいた。その練習姿を見ていると、「おい」と長尾が突っかかってきた。「止めんね」と止めに入ったピンちゃんは、長尾に校舎の裏に連れていかれた。コンちゃんたちは、「ピンちゃん、長尾にやられたらしい」と言う。怒りに体が震えた。そんな中、やってきた弁論大会当日、ボクはその日の弁論を、「ピンちゃんの勇気に捧げよう」と決意した。最後の1枚半、1分間分の原稿にさしかかったとき、ボクの頭に突然、用意した原稿とは別のフレーズが浮かんだ。急遽、差し替えた原稿に、担任は苦い顔をしたが、結局は、そこが評価されて、ボクの弁論は金賞に選ばれた。その大会の会場には、ピンちゃんも来ていたが、金賞を祝福する輪の中に、彼女の姿はなかった。弁論の内容に傷ついて、姿を消したか? 心配しながら帰り支度をしていると、自転車の前カゴに、ドスンとだれかが荷物を放り込んできた。ピンちゃんだった。ボクが自転車を引き出すと、「乗せて」と荷台にまたがって、手を腰に回してくる。だれかに見られたら大変だと思いながら、ボクは、彼女の体温を背中に感じながら、農道を走った。翌週、金賞の弁論を、校内放送で再演することになった。その原稿を放送すれば、ピンちゃんに危害が及ぶかもしれない。原稿を変えなくちゃと言うボクに、ピンちゃんが言うのだった、「一字一句変えずに放送して」と。放送が流された数日後のホームルームで、その事件は報告された。ピンちゃんの手袋が、なんと、男子トイレで発見されたと言うのだ。ピンちゃんは。長尾に男子トイレに連れ込まれ、いやらしいことをされそうになった。つかまれた手をふりほどくとき、手袋が脱げ落ちたというのだ。そのピンちゃんが、「家でクリスマス会をやるけど、来ませんか?」と言う。その会には、大北も幸恵も参加して、ピンちゃんのピアノでクリスマスソングを歌ったりした。楽しいひと時を過ごしてピンちゃん宅を出たボクは、帰り道、突然、黒い影に襲われた。いきなりの襲撃にボクは口の中を切り、血を流した。すぐ、冬休みになった。やがてボクたちには、別れの季節がやって来る。卒業まで1週間と迫ったある日、コンちゃんが教室に駆け込んできた。「ピンちゃんが、長尾たちに連れていかれた」というのだ。ボクたちは、コンちゃんに大北を呼びに行かせ、体育倉庫に急いだ。大北とボクと笠ブーとコンちゃん、4人で扉に体当たりを食らわせて扉をこじ開けて飛び込むと、真っ先に長尾が向かってきた。ボクは、その腹に渾身の蹴りを食らわせた。そして、ボクたちは、ピンちゃんを救出した――
3年生の2学期になって転校してきたボクにとって、その中学校での半年間は、ボクの思春期をほんの一時期、彩ったにすぎない通過点のようなものだった。
故郷でもなく、生涯を過ごす場所でもない、昼になれば、海風に乗って漂ってくる、化学工場の吐き出す硫黄臭のする臭いに鼻をつまみたくなるような、海辺の、小さな工業都市。
ボクは、その町の中学校で小さな恋に出会い、その小さな恋を守るために、生まれて初めて、人の体に跳びかかり、手を挙げた。
4月になれば、ボクはこの町を離れ、その小さな恋の相手も、遠い都会に去っていく。
しかし、この町でわずか半年の間に経験したことのすべてを、ボクはけっして忘れることがないだろう。
そう思うと、卒業までの一日一日、1時間1時間が、たまらなく貴重なものに思えた。
明日は卒業式、という日だった。
ピンちゃんを家まで送るために、4人が裏門の前に集まっていると、ピンちゃんが「ゴメン、ゴメン」と駆けてきた。
「あのね……」と、ピンちゃんが4人の顔を順番に眺めながら言った。
「うち、もう一度だけ、この平均台で練習したいんよ、思い出に。じゃけん……」
だから、みんな、今日は先に帰っていいよ――と言いたかったのだろうが、たとえ、ピンちゃんの口からそう言われても、だれも、帰ったりはしなかっただろう。
「ええのぉ。ワシらも思い出に、もういっぺん、ピンちゃんの平均台、見ときたいが」
笠ブーが言い出し、ボクも、コンちゃんも、「そうだね」とうなずいた。大北は、黙ってスケッチ・ブックを取り出した。
「エッ!? スケッチするん?」
「そうだよ。中学生活の思い出に」
「いやや。恥ずかしいわ……」
ピンちゃんの頬が、ちょっとだけ赤くなったような気がした。
「いいやん。ボクらも、しっかり目に焼き付けとくけん……」
ボクが言うと、ピンちゃんは「わかった」とうなずき、着替えのために校舎に走った。
故郷でもなく、生涯を過ごす場所でもない、昼になれば、海風に乗って漂ってくる、化学工場の吐き出す硫黄臭のする臭いに鼻をつまみたくなるような、海辺の、小さな工業都市。
ボクは、その町の中学校で小さな恋に出会い、その小さな恋を守るために、生まれて初めて、人の体に跳びかかり、手を挙げた。
4月になれば、ボクはこの町を離れ、その小さな恋の相手も、遠い都会に去っていく。
しかし、この町でわずか半年の間に経験したことのすべてを、ボクはけっして忘れることがないだろう。
そう思うと、卒業までの一日一日、1時間1時間が、たまらなく貴重なものに思えた。
明日は卒業式、という日だった。
ピンちゃんを家まで送るために、4人が裏門の前に集まっていると、ピンちゃんが「ゴメン、ゴメン」と駆けてきた。
「あのね……」と、ピンちゃんが4人の顔を順番に眺めながら言った。
「うち、もう一度だけ、この平均台で練習したいんよ、思い出に。じゃけん……」
だから、みんな、今日は先に帰っていいよ――と言いたかったのだろうが、たとえ、ピンちゃんの口からそう言われても、だれも、帰ったりはしなかっただろう。
「ええのぉ。ワシらも思い出に、もういっぺん、ピンちゃんの平均台、見ときたいが」
笠ブーが言い出し、ボクも、コンちゃんも、「そうだね」とうなずいた。大北は、黙ってスケッチ・ブックを取り出した。
「エッ!? スケッチするん?」
「そうだよ。中学生活の思い出に」
「いやや。恥ずかしいわ……」
ピンちゃんの頬が、ちょっとだけ赤くなったような気がした。
「いいやん。ボクらも、しっかり目に焼き付けとくけん……」
ボクが言うと、ピンちゃんは「わかった」とうなずき、着替えのために校舎に走った。

3月の、ようやく春の陽気が漂い始めた穏やかな日だった。
ピンちゃんは、ボクが最初にその姿に目を奪われた黒のレオタードに身を包み、短い髪を肩の上でピョンピョン跳ねさせながら、校舎から駆け出てきた。
「しばらくやってないけんなぁ、うまくできるかどうかわからんけど……」
そう言って舌をペロッと出して見せたピンちゃんは、体に溜めたバネをヒザに集めて、ピョンと跳び上がった。一瞬、空中に浮いたピンちゃんの両足は、幅10センチの平均台の梁の上にピタリと静止した。
「オーッ」と、全員が声を挙げた。
ピンちゃんは、両手を肩の位置に上げてバランスを取りながら、狭い梁の上を反対側の端までスッスッと歩いていくと、そこで、片脚を頭の上まで上げて腿を片手で支え、「Y」の字を作った。
どんな計算式も作り出せない絶妙のバランスを、ピンちゃんはその手と足とボディを使って、ボクたちの前に見せてくれた。ボクたちはその気高さに圧倒され、ただ、ポカンと口を開けて見ていることしかできなかった。
ピンちゃんは、「Y」の形に振り上げた足を下ろしながら、その遠心力を利用して体をクルリと反転させた。
怖いほどに真剣な目が、梁の前方の一点を見つめていた。
その一点へ向けて、ピンちゃんはまるで駆け出すように歩を進めた。
次の瞬間、ピンちゃんは、ボクたちのだれも想像さえしていなかった動きを見せた。
小走りに梁の上を台の中央まで進んだところで、上体だけをひねったと思うと、その体を思いきり後ろ向きに反らし、「あっ」と思ったときには、ピンちゃんの体が宙を飛んだ。
正確には、飛んだのではなかった。まるで飛ぶように、後ろ向きに反らした体勢で、両手で梁に着地し、クルリと体を一回転させたのだ。
ピンちゃんの脚は真っ直ぐに伸ばされたまま、天空に弧を描いた。回転した足先は、見事に、正確に、台の梁を捉え、再び、ピンちゃんは台の上で胸を反らした。
そのワザが、どれくらいの難度なのか、ボクたちは知らなかった。
しかし、わずか10センチ幅の狭い台の上で体を半ひねりさせてバック転をするというワザが、どんなにむずかしいものであるかは、容易に想像できた。
ただのバック転さえできないボクには、それは、もはや「神の領域」に属するワザにさえ見えた。
ピンちゃんの顔は、西の空に傾き始めた陽を受けて、誇らしげに輝いていた。
もう一度、台の中央に戻ったピンちゃんは、今度は、片足立ちになって、反対側の脚を思い切り上に上げて胸をグイと後ろに反らした。

ピンちゃんの片足は、反らした頭の後ろに着きそうになっている。ピンちゃんは、その足首を両手でつかんで、これでもかというほど胸を反らした。
鶴だ――と、ボクは思った。
初めてピンちゃんの平均台を見たときに覚えた感動が、再び、胸によみがえった。
ピンちゃんは、その姿勢を保ったまま、静止した。
反らされたピンちゃんの胸が、レオタードの上に、ふくらみ始めたものの輪郭を浮き上がらせていた。
ピンちゃんが演技を終えて地面に飛び降りると、笠ブーも、コンちゃんも、ボクも、そして大北も、「ホーッ」とため息をもらし、それからパチパチと手を打った。
いつの間にか、ボクたちの後ろで遠巻きに眺めていた男子や女子からも拍手が起こった。
それが、ピンちゃんのラスト・ショーだった。
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