愛してくれる者を愛しても、「愛」とは呼ばれない
本日は「クリスマスイヴ」です。
多くの人が「メリー・クリスマス」と言葉を交わし合い、飲み屋では「乾杯!」の盃を重ね合い、恋人たちや子どもたちは、自分のパートナーや親からどんなプレゼントをもらえるか――と、胸をときめかせているかもしれません。
いささか趣旨が違うのではないか――と思うところもないではありませんが、ま、それはそれでいい。何しろ「ハロウイン」を「仮想祭り」にしてしまうような国民ですから、それも仕方ないかとは思うのですが、しかし――です。
私は、ときに思うことがあるのです。
この人たち、ほんとうに幸せなんだろうか――と。
クリスマス・ソングのメロディーが流れる街を、「自分たちこそ幸せ」という顔で、楽しそうに歩くカップルや家族。
その「幸せそうな姿」が、「排他的」に見えてしまう度に、私は「それ、違うんだけどなぁ」と思ってしまうわけです。
イエスという人物の思想に惹かれて
筆者・長住は、高校2年生のときに、洗礼を受けています。
というわけで、一応、クリスチャンではあるのですが、いまは教会には通っていません。といって、宗旨替えをしたわけでもありません。ただ、あざとく信者獲得に走ったり、結婚式で商売したりしようとする「世俗化」された教会のありように、疑問を感じているからですが、その話は長くなりますので、いずれまた、機会を改めてさせていただこうかと思います。
さて、『聖書』を思想的根拠にして生きる筆者にとって、クリスマスというのは特別な意味を持つ日です。
いまから2019年前(年代に関しては異論もあり)に、イスラエルの地に「イエス」というひとりの人物が誕生し、人々に、この人物こそ「キリスト」(=ユダヤ教の世界で、いつかこの世に現れると信じられていた「救い主」)であると信じられ、弟子たちがその言説を信じて、現代にいたる「キリスト教」各派の基礎が作られました。
その「イエス」を「神の子」とし、父と子と聖霊の「三位一体」を教義として確立させたのは、後に西ローマ帝国内に設立されたカトリック教会ですが、筆者・長住は、その教義を信用していませんから、厳密な意味では「キリスト教徒」とは言えないのかもしれません。
筆者が信奉しているのは、教義ではなく、『聖書』を通して知ることのできるイエスその人の思想と哲学です。
多くの人が「メリー・クリスマス」と言葉を交わし合い、飲み屋では「乾杯!」の盃を重ね合い、恋人たちや子どもたちは、自分のパートナーや親からどんなプレゼントをもらえるか――と、胸をときめかせているかもしれません。
いささか趣旨が違うのではないか――と思うところもないではありませんが、ま、それはそれでいい。何しろ「ハロウイン」を「仮想祭り」にしてしまうような国民ですから、それも仕方ないかとは思うのですが、しかし――です。
私は、ときに思うことがあるのです。
この人たち、ほんとうに幸せなんだろうか――と。
クリスマス・ソングのメロディーが流れる街を、「自分たちこそ幸せ」という顔で、楽しそうに歩くカップルや家族。
その「幸せそうな姿」が、「排他的」に見えてしまう度に、私は「それ、違うんだけどなぁ」と思ってしまうわけです。

筆者・長住は、高校2年生のときに、洗礼を受けています。
というわけで、一応、クリスチャンではあるのですが、いまは教会には通っていません。といって、宗旨替えをしたわけでもありません。ただ、あざとく信者獲得に走ったり、結婚式で商売したりしようとする「世俗化」された教会のありように、疑問を感じているからですが、その話は長くなりますので、いずれまた、機会を改めてさせていただこうかと思います。
さて、『聖書』を思想的根拠にして生きる筆者にとって、クリスマスというのは特別な意味を持つ日です。
いまから2019年前(年代に関しては異論もあり)に、イスラエルの地に「イエス」というひとりの人物が誕生し、人々に、この人物こそ「キリスト」(=ユダヤ教の世界で、いつかこの世に現れると信じられていた「救い主」)であると信じられ、弟子たちがその言説を信じて、現代にいたる「キリスト教」各派の基礎が作られました。
その「イエス」を「神の子」とし、父と子と聖霊の「三位一体」を教義として確立させたのは、後に西ローマ帝国内に設立されたカトリック教会ですが、筆者・長住は、その教義を信用していませんから、厳密な意味では「キリスト教徒」とは言えないのかもしれません。
筆者が信奉しているのは、教義ではなく、『聖書』を通して知ることのできるイエスその人の思想と哲学です。

当時、イスラエルの地を支配していたのは、ユダヤ教です。ひと言で言うと、「ユダヤ教」というのは、神と人間の契約関係を守りなさい――という教えです。
全能である神を信じ、私があなたたちに示す律法を守るならば、あなたたちに祝福を与えよう。ユダヤの人たちが信奉する神と民の間には、そんな契約関係が成立していました。
この律法というのは、「汝、姦淫するなかれ」などを含む「モーセの十戒」として知られる10の戒めのことです。しかし、イエス誕生以前のイスラエルの人たちは、この10の戒めを613もの細目に発展させ、それを守ることで神の祝福が得られるというふうに考えていました。
しかし、613にも及ぶ律法の細かな規定を完璧に守れる人間など、いようはずがありません。だいいち、覚えていられない。
そこで登場したのが、「律法学者(=パリサイびと)」と呼ばれる聖職者たちです。彼らは、細目化された律法を隅々まで記憶して、それが守れていれば「おまえは義」、守れていないと「おまえは罪びと」というふうに裁いていきます。
それで、人々の魂は救われたのか?
否、です。
「あいつは、断食の日にパン食ってたゾ」
「あいつ、安息日なのに働いてやがった」
おたがいをチクり合い、密告し合う社会。律法学者が「義」を説く社会は、そんな社会でした。
そこへイエスが現れて、こう言うのです。

イエスが「義人」と言ったのは、「自分は正しい。間違ったことはしてない」と主張する人間たち。律法学者たちによって「義」とされるような人たちのことです。しかし、イエスは、そういう「義人たち」を招くために来たのではない――と言います。そういう人たちが救われるのは、「ラクダが針の穴を通るより、むずかしい」と言うのです。
イエスが「罪びと」と言ったのは、「自分は罪深い人間です」と自戒し、「どうかこんな私を救ってほしい」と願い、祈っている人間たち。律法学者たちによっては、決して「義」とされない人たちのことです。自分はそういう人たちを招くために来たのだ――と言い、神の愛はそういう人たちを救うめにこそ注がれるであろう、と言うのです。
そんな男がこの地上に誕生して、十字架にかかるまで、「神の愛」を説き続けてくれた。そのことを限りなく喜ばしく、うれしいことと感じられるので、私にとって、クリスマスというこの日は、「Merry」であり、「Happy」であるわけです。

イエスは言います。
自分は、「律法を廃するため」ではなく、「成就するため」に来たのである――と。
「律法の義によっては救われない」としながら、それを「成就する」とはどういうことか?
イエスが語った言葉の真意は、こうではないか――と、私は思います。
人々の律法に対する理解を究極まで深めて示し、律法は「表面的な服従」によって成就されたりされなかったりするのではなく、真の意味を理解し、自分の行動を反省し、従おうとする意志を持ち続けることによって成就される。そこまで深めることによってこそ、律法は普遍化される。
イエスは、律法のひとつひとつを取り上げて、それを普遍化した解釈を示します。
あなたがたは「姦淫するな」と言われているだろう。
しかし、私は言う。
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中で姦淫をしたのである。
「隣り人を愛し、敵を憎め」とも言われているだろう。
しかし、私は言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
続けて、イエスはこう言うのですが、実はここが迫力あるので、原文のまま、ご紹介しておきましょう。

続く第6章では、イエスはこうも言っています。

施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。――第2節
施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。――第3節
これらの言説を通して示されたイエスの「愛の思想」には、2つの重要なことが語られています。
ひとつは、「愛」と「エゴイズム=自己愛」を混同するな――ということ。
そしてもうひとつは、「愛の行動」を「見せるためにするな」という偽善の戒めです。

自分を愛してくれる者を愛したとて、何の報いがあろうか?
この季節になると、私は特に、イエスの愛の思想の根幹を成すこの言葉を、胸の奥でリフレインします。
街の中を、幸せそうな顔をし、肩を寄せ合って、たがいの愛を確かめ合うように歩く恋人同士。キャッキャッとうれしそうに笑いながら歩くファミリー。
そんな幸せそうな姿を見ると、「自分を愛してくれる者を愛したとて」という、イエスの言葉をささやいてあげたくなったりもしますが、それはしません。ただ、「どうか、あなたたちの愛が、いつまでも変わりなく続きますように」と祈ります。
そう祈りながら、ひとつだけつけ加えるのは、こんな言葉ですかね。
あなたが愛する人から受け、愛する人に振り向けて、
幸せと感じるその愛の眼差しを、
世界の片隅で傷つき、苦しんでいる人や、
嘆き、悲しんでいる人たちに、
ほんの少しでいいから振り向けてあげてほしい。
そのために、何かをしてほしい――と、お願いするわけではありません。
これみよがしの善行を見せてほしいと、希望するわけでもありません。
ただ、愛の眼差しを振り向けてほしい。それだけなんです。
その気持ちが心のどこかにあれば、少なくとも、恋人の肩を抱き寄せながら、寒空で体を震わせるホームレスの姿に「チッ!」と舌打ちするような人間になることはないだろう――と、私は思います。
そういう心を持って、私たちがしないですんだこと、意識せずにしてしまった小さなことは、きっと、どこかで神の目に映るに違いありません。
最後に、イエスが発したこの言葉を。
わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたのである。
どうぞ、素敵なクリスマスをお過ごしください。
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