ポーラに忘れな草〈終章〉 フォゲット・ミー・ノット

しかし、残された時間は少なかった。
公子が福井へ帰っていく日。繁たちは、
港へ公子を見送りに行くことになった——。
連載 ポーラに忘れな草 第11章

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ここまでのあらすじ 深川繁は高校の3年間を下宿で過ごした。その下宿「花咲荘」に、母親に連れられてひとりの女子高生が引っ越してきた。ミッションスクールに通う矢田公子が障子戸一枚と廊下で隔てられた隣人となったときから、繁の生活が変わった。日曜日、部屋で『ヘイ・ポーラ』を歌っていると、障子の向こうからメゾソプラノのコーラスがかぶってきた。そうして始まったふたりのデュエットは、日曜日ごとの下宿の風物となっていった。そこへ、新しい住人が越してきた。近くのM大に通う学生・飯尾。混声合唱部に所属する飯尾は、ふたりのデュエットに割って入り、公子に「うちの混成」に「助っ人」として参加しないかと誘いかけてきた。ある夜、その飯尾が、テープレコ―ダ―を持って、公子の部屋をノックし、それからもしばしば公子の部屋をノックした。公子の部屋から漏れる忍び声に眠れぬ夜を過ごす繁。そんなある夜、公子の部屋から男女が争い、もつれ合う音が響いて、大家が駆け上がってきた。飯尾は部屋を追い出されることになり、繁は公子に声をかけられなくなった。そんな繁に、ある日、公子の友人だという女が、手紙を託してきた。《お願いです。一度でいいから公ちゃんの心のドアをノックしてあげてください》。繁は、勇気を奮い起こして、その願いを実行した。「私、あの人には、何も奪われてないんよ」。懸命に訴える公子の手に自分の手を兼ねる繁。ふたりは指と指を絡め合い、クリスマスの約束を交わし合った。年が明けると、繁は早めに「花咲荘」に戻った。しかし、公子の帰郷は時間がかかっていた。実は、両親が離婚することになったという。あと2か月。卒業したら、公子は母親の住む福井へ帰るという。「家路」のメロディが流れる城山で、別れの時を過ごした。「思い出がほしい」と言う公子と繁は、静かに口ち口を近づけ合った――
足早な冬の日は、繁と公子のあせる心を、どんどん追い越していった。
繁たちには、あまりにもやることが多すぎた。
公子には、卒業するための試験が、繁には、翌年のクラス編成を決めるための試験と、志望校を絞り込むための模擬試験が迫り、その間に、いくつもの学校行事が組み込まれていた。
「なんだかあわただしいね」
顔を合わせてはそう言いながらも、日曜日の教会通いは続けた。
復活した繁と公子のデュエットは、「花咲荘」につかの間の平和な日々を取り戻した。
しかし、繁も、公子も、周りのみんなも、それが三月の初めまでの、わずかな時間の平和にすぎないことを知っていた。
三月に入るとすぐ、公子は関西汽船で大阪に向かい、そこから福井にいる母親の元に帰る。それから地元の短大に進んで、そのあとは……。
繁たちは、どちらも、まだ「そのあと……」を決められない身分だった。
「わしが、大学に進んだ頃には、公ちゃん、もう結婚しとるかもしれんのぉ」
冗談めかして言うと、公子は、半分泣きそうな顔になり、口を尖らせて抗議した。
「そうしてほしいん?」
繁は、それに「YES」とも「NO」とも返すことができなかった。

答えを出せない方程式に行き当たると、繁たちはただ黙って顔を寄せ合い、口と口で儚い「いま」を確かめ合った。
公子の「いま」は、日に日に熱を帯びてくるようだった。
熱の正体は、公子の口の中に潜んでいた。わずかに開いた歯と歯の間から、時折、その正体が顔をのぞかせて、繁の中で熱を帯びて待機していたそれと触れ合った。
先端と先端は、相手の熱を確かめるように突つき合い、おたがいを軸にしてフォークダンスのように回転し合い、裏を表に、表を裏に重ねて、粘液を溶かし合った。
飽きることなくその遊戯を続けるうちに、ふたりのブレスは荒くなっていく。ハフン、ハフン……と、公子の歯の間からもらされる息の匂いまでもが貴重なものに思えて、繁はそれを思いきり、胸の奥まで吸い込んだ。
しかし、繁たちの遊戯は、やはりそこまでだった。
公子の体を抱き寄せ、肩に置いた手を静かに胸に滑らせようとすると、公子の手がやさしくそれを押しとどめた。
「もし、深川クンが京都に受かって、私と再会できたときには、深川クンがしたいこと、全部、してもええよ。それまでは、せられん。私、辛くなるやろ……」
繁の手を両手で包んで、そっと元の場所に戻しながら、公子は懇願するように繁の胸に頭を埋めた。
繁たちには、あまりにもやることが多すぎた。
公子には、卒業するための試験が、繁には、翌年のクラス編成を決めるための試験と、志望校を絞り込むための模擬試験が迫り、その間に、いくつもの学校行事が組み込まれていた。
「なんだかあわただしいね」
顔を合わせてはそう言いながらも、日曜日の教会通いは続けた。
復活した繁と公子のデュエットは、「花咲荘」につかの間の平和な日々を取り戻した。
しかし、繁も、公子も、周りのみんなも、それが三月の初めまでの、わずかな時間の平和にすぎないことを知っていた。
三月に入るとすぐ、公子は関西汽船で大阪に向かい、そこから福井にいる母親の元に帰る。それから地元の短大に進んで、そのあとは……。
繁たちは、どちらも、まだ「そのあと……」を決められない身分だった。
「わしが、大学に進んだ頃には、公ちゃん、もう結婚しとるかもしれんのぉ」
冗談めかして言うと、公子は、半分泣きそうな顔になり、口を尖らせて抗議した。
「そうしてほしいん?」
繁は、それに「YES」とも「NO」とも返すことができなかった。

答えを出せない方程式に行き当たると、繁たちはただ黙って顔を寄せ合い、口と口で儚い「いま」を確かめ合った。
公子の「いま」は、日に日に熱を帯びてくるようだった。
熱の正体は、公子の口の中に潜んでいた。わずかに開いた歯と歯の間から、時折、その正体が顔をのぞかせて、繁の中で熱を帯びて待機していたそれと触れ合った。
先端と先端は、相手の熱を確かめるように突つき合い、おたがいを軸にしてフォークダンスのように回転し合い、裏を表に、表を裏に重ねて、粘液を溶かし合った。
飽きることなくその遊戯を続けるうちに、ふたりのブレスは荒くなっていく。ハフン、ハフン……と、公子の歯の間からもらされる息の匂いまでもが貴重なものに思えて、繁はそれを思いきり、胸の奥まで吸い込んだ。
しかし、繁たちの遊戯は、やはりそこまでだった。
公子の体を抱き寄せ、肩に置いた手を静かに胸に滑らせようとすると、公子の手がやさしくそれを押しとどめた。
「もし、深川クンが京都に受かって、私と再会できたときには、深川クンがしたいこと、全部、してもええよ。それまでは、せられん。私、辛くなるやろ……」
繁の手を両手で包んで、そっと元の場所に戻しながら、公子は懇願するように繁の胸に頭を埋めた。

そうして一月が終わり、二月が駆け抜けた。
あっという間に、公子が乗船する日がやってきた。
大きな荷物をチッキで送った公子は、ボストンバッグひとつで「花咲荘」を旅立つことになった。
港に向かう公子を、「花咲荘」の下宿人たち全員で見送りに行くことになった。
「短い間やったけど、みんな、ありがとう。私、ここでの1年間、忘れんよ。おばさん、お世話になりました」
深々と頭を下げると、鬼の大家夫人も目を瞬かせ、藤田くんが下宿の玄関先で『アニー・ローリー』を吹奏した。
下宿から港までは、伊予鉄の電車で三十分足らずだ。
いつもは長く感じるその距離が、その日はいやに短く感じられた。
駅から桟橋までの道を歩きながら、繁の頭には、公子が「花咲荘」にやって来てからの出来事が、スライドショーのように浮かんでは消えた。
母親に連れられた公子が、ひとりひとりの部屋を訪ねて頭を下げていた光景、いつも障子戸に影を映し出していた公子の制服、廊下の向こうから聞こえてきた小さなくしゃみ、初めて公子が繁の部屋をノックして、英語の文法について質問し、そのまま話し込んでしまった夜のこと、そのとき、公子が繁の牛乳ビンに活けてくれた濃い水色の花……。
あっ―――と、突然、頭の中に何かがひらめいた。
「みんな、先に行っとって。ちょっと、買うもののあるけん」
足を180度回転させて、駅前への道を駆け出した。
「十一時出航やで、遅れられんよ」と、背中から藤田クンの声がした。

「すみません。忘れな草、ないやろか?」
息を切らしながら飛び込んだ繁を見て、花屋の女主人は、「ナニ、この人?」という顔をした。
「何言いよんで。この季節に忘れな草なんか、ありゃあせんがなもし」
繁の思いつきは、無残にも砕け散り、肩を落として出て行こうとするのを、女主人が呼び止めた。
「あ、もし。だれか、大事な人がお行きんさるんかのぉ。じゃったら、これ、どがいやろ?」
女主人が、小ぶりな薄水色の花を手にして、繁の失意に微笑みかけた。
「スイートピーゆうての、お別れの花には、よう使われるんよ。忘れな草よりは、よっぽど見栄えがええ思うけどな」
「わかった。じゃ、それ。な、おばさん、十一時出航なんよ。急いでくれる?」

〈十一時出航の大阪行き「こがね丸」、間もなく出航です。
ご乗船のお客様は、お急ぎ、ご乗船ください〉
桟橋からのアナウンスが、繁と公子の時間をカウントダウンしていた。
花束をていねいに仕上げようとする女主人の善意と繁のあせる気持ちとは、完全なミスマッチだった。女主人の手つきをイライラしながら眺め、花束が仕上がると、繁はそれをひったくるようにして店を飛び出し、桟橋に向かって駆けた。一目散に駆けた。
桟橋には、『蛍の光』のメロディが流れ、タラップはすでに外されて、ドラの音が鳴り響いていた。
「深川クン、早く!」
手に手にテープを持った藤田クンたちが、繁の姿を見て、「急げ!」と手招きした。
スクリューがリヴァースの回転を始めて、「こがね丸」は艫を先頭に、ゆっくり岸壁を離れ始めていた。
公子は、デッキに立って、みんなとつながったテープを片手に束ね、もう一方の手をちぎれそうなほどに振っていたが、繁の姿を見つけると、手を口に当てて、何かを叫んだ。
その声は、ドラの音にかき消されて聞こえない。
繁は手にした花束を、頭上にかざし、思い切りバックスウイングをつけて、それを空に放り投げた。
遠投五十四メートル。そこそこ肩には自信があった。
花束は季節風の舞う三月の空に放物線を描き、正確にデッキに向かって飛んでいった。
「フォゲット・ミー・ノット!」
その軌跡を見ながら、繁はあらん限りの声で叫んだ。
公子はデッキから身を乗り出すようにして、空に向かって手を差し出した。公子の両手が花束をキャッチしようとしたそのとき、不意に、強い横風が吹きつけた。
その風にあおられ、花束は公子の手の寸前で、横に流れて、船べりの海中に落下した。
あ~あ、というふうに、公子が両手を広げ、泣きそうな顔になった。
海に落下した花束は、スクリューが巻き起こす渦に巻き込まれて、海面をグルグルと回転している。繁は、その花束を手で指し示しながら、もう一度、叫んだ。
「フォゲット・ミー・ノ~ット!」
公子は片手を耳に当てて、「聞こえない」というフリをしたあと、今度は口に手を当てて、何かを叫んだが、そのメゾソプラノも、繁の耳には届かなかった。

それが、繁が見た公子の最後の姿だった。
やがて船は、沖合いで方向を変え、汽笛の音を合図に全速で遠ざかっていった。
桟橋に取り残された繁たちは、ぼう然と、遠ざかる「こがね丸」を見送り、それからトボトボと駅への道を歩いて、帰りの伊予鉄に乗り込んだ。
「公ちゃん、なんてゆうたんやろなぁ。あ、これ、公ちゃんから預かってたんよ。深川クンに渡してくれゆうて」
藤田クンが、ポケットから取り出したのは、ベージュ色の封筒だった。
ローズ色の蝋でていねいに封印された封筒を開けると、いつもの水色の便箋が出てきた。
〈ありがとう。 公子〉
書いてある文字はそれだけだった。
文字はそれだけだったが、その文字に添えて貼り付けてあるものがあった。
濃い水色の、小さな花。
忘れな草の押し花だった。
公子は、この日が来ることを覚悟して、あのときの花を押し花にしていたのか……。
そう思うと、胸が苦しくなった。
繁は、その便箋と封筒を持って座席を立ち、電車のドアに寄りかかって、遠ざかる港の、その上に広がる三月の空を眺めた。
薄雲の向こうで鈍く光る太陽が、虹色に溶けていった。
第3話『ポーラに忘れな草』は、これにて《完》です。

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