ポーラに忘れな草〈6〉 坊ちゃん、泳ぐべからず

訪ねるようになって平穏な夜が失われた。
公子の部屋から聞こえてくる忍び声に、
眠れぬ夜を過ごした繁は——。
連載 ポーラに忘れな草 第6章

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ここまでのあらすじ 深川繁は高校の3年間を下宿で過ごした。その下宿「花咲荘」に、母親に連れられてひとりの女子高生が引っ越してきた。ミッションスクールに通う矢田公子が障子戸一枚と廊下で隔てられた隣人となったときから、繁の生活が変わった。日曜日、部屋で『ヘイ・ポーラ』を歌っていると、障子の向こうからメゾソプラノのコーラスがかぶってきた。そうして始まったふたりのデュエットは、日曜日ごとの下宿の風物となっていった。そこへ、新しい住人が越してきた。近くのM大に通う学生・飯尾。混声合唱部に所属する飯尾は、ふたりのデュエットに割って入り、公子に「うちの混成」に「助っ人」として参加しないかと誘いかけてきた。ある夜、その飯尾が、テープレコ―ダ―を持って、公子の部屋をノックした。繁と公子の夜は、その夜をきっかけにギクシャクし始めた――
「公ちゃん、ちょっといい?」
飯尾は、ちょくちょく公子の部屋を訪ねるようになった。
その「ちょっといい?」が廊下から聞こえるたびに、繁の神経は、公子の部屋の話し声に奪われ、目の前に広げた英語のリーダーの単語も、数Ⅱの公式も、まったく頭に入らなくなってしまった。
「いっぺん、練習だけでも見学に来たらええ」
「いや、私は……」
「どない? 今度の水曜日? ちょっとだけでものぞきに来ん?」
「水曜日は、教会で………があるし………」
「なん? 公ちゃん、教会なんか行きよん?」
「は、はい……」
「公ちゃん、クリスチャンなんか?」
「はい……」
異教徒の審問を受けて、公子の声は、どんどん小さくなっていく。
そして、始まるひそひそ声での会話。
「………が………で、かわいいわ」
「ダ………それは………」
また、畳の擦れる音がする。
そっと、障子戸を引いてみた。
4~5センチほど開けたすき間から、公子の部屋の明かりが見えた。
うすぼんやりと障子を照らす明かりの中で、輪郭のない光の濃淡が、右へ、左へ……と動き、そのたびに畳を擦る音がした。
心臓の音が、耳の奥で、どんどん速く、強くなっていく。
頭蓋骨がドームとなって、その音を共鳴させる。
そんな時間が、夜更けの二時、三時まで続く。
そういう夜は、布団に潜り込んでも、頭の中を妄想が駆け巡り、結局、眠れないまま朝を迎えることになる。
ドーン、ドーン……。
遠くで打ち鳴らされる太鼓の音を聴くと、繁はタオルと石けんを持って「花咲荘」を飛び出した。本湯の一番風呂に飛び込んで、頭のてっぺんまで湯に沈め、脳の中に澱のように沈殿した妄想のかけらを、湯煎にかけた。
やっと、澱が溶け出して、脳の中を血が巡り始めると、プハーッと湯から頭を出す。
湯気にかすむ大理石の浴場。その壁に、大きな板が掲げてある。そこに、墨で大書された文字がある。
〈坊ちゃん、泳ぐべからず。〉
だよな……。
何やってんだろ、オレ――と、今度は冷水を頭からかぶり、自分の頬をペタペタとたたいて、フロを出る。
下宿へ戻って朝の賄いをすませると、やっと襲ってきた睡魔と闘いながら、学校へ向かい、午前中の授業をほとんど寝たまま、やり過ごした。
飯尾は、ちょくちょく公子の部屋を訪ねるようになった。
その「ちょっといい?」が廊下から聞こえるたびに、繁の神経は、公子の部屋の話し声に奪われ、目の前に広げた英語のリーダーの単語も、数Ⅱの公式も、まったく頭に入らなくなってしまった。
「いっぺん、練習だけでも見学に来たらええ」
「いや、私は……」
「どない? 今度の水曜日? ちょっとだけでものぞきに来ん?」
「水曜日は、教会で………があるし………」
「なん? 公ちゃん、教会なんか行きよん?」
「は、はい……」
「公ちゃん、クリスチャンなんか?」
「はい……」
異教徒の審問を受けて、公子の声は、どんどん小さくなっていく。
そして、始まるひそひそ声での会話。
「………が………で、かわいいわ」
「ダ………それは………」
また、畳の擦れる音がする。
そっと、障子戸を引いてみた。
4~5センチほど開けたすき間から、公子の部屋の明かりが見えた。
うすぼんやりと障子を照らす明かりの中で、輪郭のない光の濃淡が、右へ、左へ……と動き、そのたびに畳を擦る音がした。
心臓の音が、耳の奥で、どんどん速く、強くなっていく。
頭蓋骨がドームとなって、その音を共鳴させる。
そんな時間が、夜更けの二時、三時まで続く。
そういう夜は、布団に潜り込んでも、頭の中を妄想が駆け巡り、結局、眠れないまま朝を迎えることになる。
ドーン、ドーン……。
遠くで打ち鳴らされる太鼓の音を聴くと、繁はタオルと石けんを持って「花咲荘」を飛び出した。本湯の一番風呂に飛び込んで、頭のてっぺんまで湯に沈め、脳の中に澱のように沈殿した妄想のかけらを、湯煎にかけた。
やっと、澱が溶け出して、脳の中を血が巡り始めると、プハーッと湯から頭を出す。
湯気にかすむ大理石の浴場。その壁に、大きな板が掲げてある。そこに、墨で大書された文字がある。
〈坊ちゃん、泳ぐべからず。〉
だよな……。
何やってんだろ、オレ――と、今度は冷水を頭からかぶり、自分の頬をペタペタとたたいて、フロを出る。
下宿へ戻って朝の賄いをすませると、やっと襲ってきた睡魔と闘いながら、学校へ向かい、午前中の授業をほとんど寝たまま、やり過ごした。

そんな毎日を過ごしていては、成績が落ちてくるのも当たり前だった。
「どうしたんだ、深川、この成績は? このままじゃ、TもKも危ないぞ」
心配した教師に呼び出されて、事情を訊かれたこともあった。
そんなことはわかってる。わかってるけど、こいつばっかりは、どうしようもないんですよ、先生……。
公子とは、あれ以来、口をきかない日が続いている。
朝夕の賄いでも顔を合わせるし、洗面所ではち合わせすることもあったが、それでも、たがいの目を、一瞬、見つめただけで、すぐに目をそらしてしまう。
「どうしたん、深川クン? 公子さんと何かあったん? 最近、話もしてないやん」
ふたりの様子が変だ――と感じた藤田クンが、声をかけてくれたこともあった。
「ウーン、自分でも、ようわからんのや」
「こないだのォ、公子さん、洗面所で涙流しとったで。どうしたんですか、訊いたら、あわてて部屋に帰ってしもうたんやけんど」
公子の涙……?
たぶん、それは、飯尾のせいだろうと思ったけど、そのことは藤田クンには言わないでおいた。

そうして、十月が終わり、十一月になり、文化祭や何かであわただしい毎日が過ぎて、冷たい風が枯葉を吹き散らす季節になった。
繁は家から送ってもらった電気火鉢を引っ張り出し、チーちゃんたち姉弟は電気コタツにもぐりこみ、藤田クンは、電気足温器の上から毛布をかけて、少し早めの越冬態勢に入った。
公子は、どうやって、この寒さをしのいでいるのだろう――と思ったが、繁はまだ、公子の部屋に足を踏み入れたことがなかった。
ときどき聞こえてくる、「コホン、コホン」という咳の音や、「クシュッ」と響くくしゃみの音で、もしかして風邪でも引いているのかと気になったが、声をかけるきっかけも作れないまま、やがて、街にはクリスマス・ソングが流れ始めた。
そんな、ある日――。
やけに冷え込む夜だった。
「オーッ、冷えるのォ」
言いながら廊下をやって来た飯尾が、公子の障子戸をトントンと叩いて、返事も待たずに戸を開けた。
「公ちゃん、寒うないか? それ、何? アンカ? おお、ええのう。ワシも、足入れさせてくれや」
「あ、つめた……」
「な、ホラ。ワシの足、冷えとるやろ? ホラ……」
「ちょ、ちょっと……冷たいけん……」
繁の頭の中には、公子の部屋の情景が浮かんでいた。
アンカの上から布団を被せ、そこに足を入れて暖をとっているところへ、飯尾が冷たい足をもぐりこませたのだ。その足が、公子の足に触れているのだ。
わざと? たぶん、わざとだ。そう思うと、またも、頭の中が熱くなった。
「なぁ、公ちゃん、公ちゃんは、来春、卒業やろ? どないするんで?」
「どない……て?」
「上の学校、行くん?」
「たぶん……」
「M大に来たらええ。ほんで、混声に入りぃや」
「私、たぶん、短大です」
「S学園の短大けゃ?」
「いや、親が神戸におるんで、そっちのほうや、思います」
「そりゃ、寂しいのォ。こっちにおられんのかい。ワシゃのぉ……」
そこで、声が小さくなった。
「そんな……なこと言われても、私……」
公子が、低く抑えた、しかし、しっかりした声で答えている。
「……したらええやん。の、ワシゃよぉ……ワシゃ……」
ドサッという音がした。
「ダ……ダメ……や、め……ングッ……」
声は、それっきり聞こえなくなった。
しかし、音がした。
畳が激しくこすれる音。何かが壁にぶつかる音。机の上で何かが倒れる音。ドタン……と、何かが床に打ちつけられる音。そして、どちらかが激しく息を遣う音……。
繁は、ギュッと、拳を握り締めた。
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教師のビンタが支配する教室から、突如、姿を消した美少女。40年後、ボクが知った真実は?
【右】『『チャボのラブレター』
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美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。

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みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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