ポーラに忘れな草〈5〉 忍び声の夜

公子を自分たちの合唱団に誘う。
そんなある夜、テープを抱えた飯尾が、
公子の部屋をノックして——。
連載 ポーラに忘れな草 第5章

前回から読みたい方は、⇒こちらからどうぞ。
ここまでのあらすじ 深川繁は高校の3年間を下宿で過ごした。その下宿「花咲荘」に、母親に連れられてひとりの女子高生が引っ越してきた。ミッションスクールに通う矢田公子が障子戸一枚と廊下で隔てられた隣人となったときから、繁の生活が変わった。日曜日、部屋で『ヘイ・ポーラ』を歌っていると、障子の向こうからメゾソプラノのコーラスがかぶってきた。そうして始まったふたりのデュエットは、日曜日ごとの下宿の風物となっていった。そこへ、新しい住人が越してきた。近くのM大に通う学生・飯尾。混声合唱部に所属する飯尾は、ふたりのデュエットに割って入り、公子に「うちの混成」に「助っ人」として参加しないかと誘いかけてきた――
廊下を挟んで、障子の向こうから聞こえてくる声。
公子と、公子の部屋に侵入した男が交わす声。
どちらかが姿勢を変えるたびに聞こえる、畳と衣服の擦れる音。
「花咲荘」の2階は、それらの音を拾うためであるかのように、静まり返っていた。
「夜中やで、あんまり大きな音は出せんけど、これ、ワシらの今年の定演の録音なんよ。フォーレの『レクイエム』ゆうんやけど、聴いたことある?」
「い、いえ。ないです」
公子の声は、か細かった。
「じゃ、回してみるけん」
カチャリと音がして、テープが回り始め、コーラスの低くこごもった声が流れた。公子の部屋の話し声が止んで、単調なコーラスの響きが、障子を震わせた。
ふたりは、狭い4畳半にどんなふうに位置を占めて、この音を聴いてるんだろう?
向かい合って視線を交わしながらか、それとも肩を並べて……か?
想像が頭の中を駆け巡って、解きかけた数Ⅱの問題が、まったく手につかなくなった。
「のぉ、聴いたらわかるやろ? ソプラノ、弱いやろ?」
テープのコーラスの音に混じって、飯尾の太い声がする。
「よく……わからないです」
公子の声は、相変わらずか弱い。
「弱いんよ。声量なさすぎじゃ。公ちゃん、けっこう声量あるよのぉ。思い切り出したら、もっと響く思うんよ」
「そんな……声量やら……」
「おなかに息を溜めてな、ちょっとごめん、ここな。ここに力入れて、『あっ』ゆうて出してみ」
「そんな……夜中やし……」
「そやな。夜中やった。あ、ほんでな、これが、ステージの写真。黒のロングスカートに白のブラウスや。格好いいやろ? 公ちゃんが着たら、引き立つやろうのぉ。ステージにパッと、ボタンの花が咲いたみたいになるわ」
「そんなん、私、よう着られん……」
「似合うて。今度、持ってくるけん、着てみぃや」
そこで、飯尾の声が急に低くなり、言葉が聞き取れなくなった。
公子と、公子の部屋に侵入した男が交わす声。
どちらかが姿勢を変えるたびに聞こえる、畳と衣服の擦れる音。
「花咲荘」の2階は、それらの音を拾うためであるかのように、静まり返っていた。
「夜中やで、あんまり大きな音は出せんけど、これ、ワシらの今年の定演の録音なんよ。フォーレの『レクイエム』ゆうんやけど、聴いたことある?」
「い、いえ。ないです」
公子の声は、か細かった。
「じゃ、回してみるけん」
カチャリと音がして、テープが回り始め、コーラスの低くこごもった声が流れた。公子の部屋の話し声が止んで、単調なコーラスの響きが、障子を震わせた。
ふたりは、狭い4畳半にどんなふうに位置を占めて、この音を聴いてるんだろう?
向かい合って視線を交わしながらか、それとも肩を並べて……か?
想像が頭の中を駆け巡って、解きかけた数Ⅱの問題が、まったく手につかなくなった。
「のぉ、聴いたらわかるやろ? ソプラノ、弱いやろ?」
テープのコーラスの音に混じって、飯尾の太い声がする。
「よく……わからないです」
公子の声は、相変わらずか弱い。
「弱いんよ。声量なさすぎじゃ。公ちゃん、けっこう声量あるよのぉ。思い切り出したら、もっと響く思うんよ」
「そんな……声量やら……」
「おなかに息を溜めてな、ちょっとごめん、ここな。ここに力入れて、『あっ』ゆうて出してみ」
「そんな……夜中やし……」
「そやな。夜中やった。あ、ほんでな、これが、ステージの写真。黒のロングスカートに白のブラウスや。格好いいやろ? 公ちゃんが着たら、引き立つやろうのぉ。ステージにパッと、ボタンの花が咲いたみたいになるわ」
「そんなん、私、よう着られん……」
「似合うて。今度、持ってくるけん、着てみぃや」
そこで、飯尾の声が急に低くなり、言葉が聞き取れなくなった。

「………もな、………するかもしれんで」
「いややぁ……何ゆうん?」
飯尾が何を言ったのか、公子は恥ずかしそうに声を挙げ、どちらかの足が、畳をこする音がした。
「………と、もう…………たん?」
「そんなん………ません」
「………にな、………たら、………やで」
「何、言い寄ん」
「あいつ………んと違うん? な、………して………してみ。ちょっと………して」
「もォ………やめてくださいよ………が………たら、………しますよ」
「ワシが………たろかいの? おまえ………せえゆうて……」
「ダメ………ゼッタイ………ダメ」
ほとんどささやくような声になり、時折、「な、な……」という飯尾の声がして、公子の小さな忍び笑いが聞こえたが、やがて、その笑い声も聞こえなくなってしまった。
テープの音は止まっていた。
静まり返った「花咲荘」の2階に響くのは、ふたりのささやき合う声と、足が畳をこする音だけになった。

翌朝、学校へ行こうと階段を下りていると、遅れて賄いをとった公子が上ってくるところと鉢合わせになった。
階段の真ん中で、どちらも、一瞬、足を止め、おたがいの顔を見つめ合った。
何かを言いたそうに、公子の口が「あ」の字に開いた。
繁の口も、いつもの「おはよう」を言うために、「お」の字に開いた。
しかし、声帯が金縛りにあったようで、声が出てこない。公子の口からも、声が出てこない。
繁は、のどの奥に用意された言葉を呑み込んで、口を閉じ、公子もあきらめたように口を閉じ、そして、繁は階段を下り、公子は階段を上った。
たったそれだけのことだった。
今朝は、おたがい調子がわるいだけだ――そう思おうとした。
しかし、そうではなかった。
繁と公子の回路は、その朝以来、プツリと閉ざされてしまったのだ。
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