ポーラに忘れな草〈3〉 ポール・ミーツ・ポーラ

隣人同士となった繁と公子。「この部屋
殺風景だから」と公子がくれた忘れな草が
繁の部屋に灯をともした―—。
連載 ポーラに忘れな草 第3章

前回から読みたい方は、⇒こちらからどうぞ。
ここまでのあらすじ 深川繁は高校の3年間を下宿で過ごした。その下宿「花咲荘」に、母親に連れられてひとりの女子高生が引っ越してきた。ミッションスクールに通う矢田公子。父親の転勤で、ひとり、学校に残ることになったのだと言う。障子戸一枚と廊下で隔てられた隣人。ある夜、その隣人が、遠慮がちに繁の部屋の障子戸をノックした――
日曜日の昼間、繁は、部屋の中でよく歌を歌った。
隣の部屋の藤田クンは、午前中、ずっと、トロンボーンのマウスピースを吹いている。
ブラスバンドに所属していて、曲の練習をしなければならないのだが、さすがに部屋の中でTBは吹けないので、マウスピースで練習して、午後になると、近くの大学のキャンパスに楽器を持って出かけて、鳴らしている。
斜め向かいの部屋には、藤田クンと同じ高校に通うチーちゃんという1級下の女の子が、中学1年生の弟と一緒に住んでいて、朝からケンカをしたり、大きな音を立てて掃除をしたり……と、けっこうけたたましい。
この弟のケン坊が、姉貴に引っぱたかれそうになると、藤田クンや繁の部屋に逃げ込んで来る。
それを姉貴が、「ホラ、深川さんたちは勉強しよんのやから、ジャマしたらいかんが」と連れ戻しに来て、そこでまたひと悶着ある。
そんなわけで、「花咲荘」の日曜日は、けっこう騒がしい。
公子の部屋からは、そうした生活雑音のようなものが、ほとんど聞こえてこなかった。
その代わり、よく洗濯をする。
北側の廊下の突き当たりにある共同の洗面所を、いちばんよく使っていたのは、たぶん、公子だろう。
コインランドリーなどない時代だから、洗濯は、繁たち下宿人にとっては、大仕事だった。溜め込むと大変なことになるので、わりとマメにやるのだが、公子のマメさは群を抜いていて、ほとんど毎日のように、洗面所で何かを洗っていた。
三和土の流しに蛇口が3つ並んだ洗面所は、繁たちが顔を洗い、歯を磨き、やかんに水を汲み、洗濯をする、「花咲荘」の井戸端のようなものだった。
何かをしにいくと、たいていだれかと顔を合わせ、そこでちょっとした井戸端話が始まったりもする。
そうした社交場があるから、繁たち住人は、おたがいの身の上や健康状態を、それとなく察知することができた。

その日も、朝から、洗面所でだれかが何かを洗っている音がしていた。
たぶん、公子だな――と思いながら、繁は部屋の中で、前夜、トランジスタラジオで聞き取ったヒット曲の歌詞を口ずさんでいた。
「ヘイ、ヘイ、ポーラ。
アイ・ワナ・マリー・ユー。
ヘイ、ヘイ、ポーラ。
ノー・ワン・エルス・ウイル・エヴァー・ドゥー…………」
ポール&ポーラのデュエット曲で、前週、ヒット・チャートのトップに躍り出たばかりの曲だった。
ハイ・スクールで惹かれあったふたりが、
「ボクは学校が終わるのをずっと待ってたんだ、もう待てない。結婚しよう」(ポール)
「私もずっと待ってたのよ。もしいまでも私を愛してくれているのなら、私たちの愛は現実のものになるわ」(ポーラ)
と、交互に自分の想いを伝え合う構成になっていて、曲は、A(ポールのソロ)→A(ポーラのソロ)→B(デュオ)というふうに進んでいく。
「マイ・ラブ、マイ・ラブ~」
Aの終わりのロングトーンを歌って、その小節の4拍目から始まる繰り返しのAの頭に戻ろうと、声帯を準備しているときだった。
「ヘイ、ポール。
アイヴ・ビーン・ウエイティング・フォー・ユー………」
その声は、突然、障子の向こうから、天使の歌声のように舞い降りてきた。
滑らかで、濁りのない、体ごとフワッと包み込んでくれるようなメゾソプラノだった。洗濯をしていた公子が、応じているのだ――と、すぐにわかった。
「トゥルー・ラブ・ミーンズ・プランニング、
ア・ライフ・フォー・トゥー。
ビーイング・トゥギャザー
ザ・フォール・デイ・スルー………」
そのまま、繁たちは、サビをコーラスした。
公子の声がだんだん近づいてきて、繁と公子の声は、障子戸の薄い紙を震わせながら重なり合った。
そっと戸を開けると、洗濯物を山と積み上げた洗面器を胸に抱えて、公子が廊下の繁の部屋の前に立っていた。
「マイ・ラブ、マイ・ラブ……」
エンディングを歌いながら、目と目を見つめ合った。
歌い終わってもなおも目をそらさず、余韻に浸っていると、突然、隣の部屋の障子戸が開いた。
隣の部屋の藤田クンは、午前中、ずっと、トロンボーンのマウスピースを吹いている。
ブラスバンドに所属していて、曲の練習をしなければならないのだが、さすがに部屋の中でTBは吹けないので、マウスピースで練習して、午後になると、近くの大学のキャンパスに楽器を持って出かけて、鳴らしている。
斜め向かいの部屋には、藤田クンと同じ高校に通うチーちゃんという1級下の女の子が、中学1年生の弟と一緒に住んでいて、朝からケンカをしたり、大きな音を立てて掃除をしたり……と、けっこうけたたましい。
この弟のケン坊が、姉貴に引っぱたかれそうになると、藤田クンや繁の部屋に逃げ込んで来る。
それを姉貴が、「ホラ、深川さんたちは勉強しよんのやから、ジャマしたらいかんが」と連れ戻しに来て、そこでまたひと悶着ある。
そんなわけで、「花咲荘」の日曜日は、けっこう騒がしい。
公子の部屋からは、そうした生活雑音のようなものが、ほとんど聞こえてこなかった。
その代わり、よく洗濯をする。
北側の廊下の突き当たりにある共同の洗面所を、いちばんよく使っていたのは、たぶん、公子だろう。
コインランドリーなどない時代だから、洗濯は、繁たち下宿人にとっては、大仕事だった。溜め込むと大変なことになるので、わりとマメにやるのだが、公子のマメさは群を抜いていて、ほとんど毎日のように、洗面所で何かを洗っていた。
三和土の流しに蛇口が3つ並んだ洗面所は、繁たちが顔を洗い、歯を磨き、やかんに水を汲み、洗濯をする、「花咲荘」の井戸端のようなものだった。
何かをしにいくと、たいていだれかと顔を合わせ、そこでちょっとした井戸端話が始まったりもする。
そうした社交場があるから、繁たち住人は、おたがいの身の上や健康状態を、それとなく察知することができた。

その日も、朝から、洗面所でだれかが何かを洗っている音がしていた。
たぶん、公子だな――と思いながら、繁は部屋の中で、前夜、トランジスタラジオで聞き取ったヒット曲の歌詞を口ずさんでいた。
「ヘイ、ヘイ、ポーラ。
アイ・ワナ・マリー・ユー。
ヘイ、ヘイ、ポーラ。
ノー・ワン・エルス・ウイル・エヴァー・ドゥー…………」
ポール&ポーラのデュエット曲で、前週、ヒット・チャートのトップに躍り出たばかりの曲だった。
ハイ・スクールで惹かれあったふたりが、
「ボクは学校が終わるのをずっと待ってたんだ、もう待てない。結婚しよう」(ポール)
「私もずっと待ってたのよ。もしいまでも私を愛してくれているのなら、私たちの愛は現実のものになるわ」(ポーラ)
と、交互に自分の想いを伝え合う構成になっていて、曲は、A(ポールのソロ)→A(ポーラのソロ)→B(デュオ)というふうに進んでいく。
「マイ・ラブ、マイ・ラブ~」
Aの終わりのロングトーンを歌って、その小節の4拍目から始まる繰り返しのAの頭に戻ろうと、声帯を準備しているときだった。
「ヘイ、ポール。
アイヴ・ビーン・ウエイティング・フォー・ユー………」
その声は、突然、障子の向こうから、天使の歌声のように舞い降りてきた。
滑らかで、濁りのない、体ごとフワッと包み込んでくれるようなメゾソプラノだった。洗濯をしていた公子が、応じているのだ――と、すぐにわかった。
「トゥルー・ラブ・ミーンズ・プランニング、
ア・ライフ・フォー・トゥー。
ビーイング・トゥギャザー
ザ・フォール・デイ・スルー………」
そのまま、繁たちは、サビをコーラスした。
公子の声がだんだん近づいてきて、繁と公子の声は、障子戸の薄い紙を震わせながら重なり合った。
そっと戸を開けると、洗濯物を山と積み上げた洗面器を胸に抱えて、公子が廊下の繁の部屋の前に立っていた。
「マイ・ラブ、マイ・ラブ……」
エンディングを歌いながら、目と目を見つめ合った。
歌い終わってもなおも目をそらさず、余韻に浸っていると、突然、隣の部屋の障子戸が開いた。

「トニーとマリアみたいやが」
先週、一緒に『ウエストサイド物語』を観に行った藤田クンが、障子戸の隙間から顔をのぞかせて冷やかした。
トニーとマリアは、物語の中では、現代版ロミオとジュリエットという役どころだった。ふたりが裏町のアパートメントの非常階段で『トゥナイト』をデュエットするシーンは、映画のハイライトのひとつになっていた。
「何言いよん……」
藤田クンに冷やかされて、公子は一瞬、頬を赤らめ、洗濯物を抱えて自分の部屋に逃げ込んでしまった。
「ヘンなこと、言うなや」
繁がにらみつけると、藤田クンはニヤニヤしながら近づいてきてた。
「ふたりの声、ものすご合うとったが。あんな、ワシ、『トゥナイト』の譜面、持っとんで。これ、写さしたるけん、今度、ふたりで歌うてみいや」
藤田クンは返事も聞かずに、自分の部屋から五線譜に手書きした譜面を持ってきた。
「それと、これ、EP版のレコード。その中に歌詞が入っとるで。あ、ほーか、深川クンとこ、電蓄なかったんやな。ほな、ワシの部屋で聞く?」
廊下でそんな話をしていると、公子の部屋の障子戸がスーッと開いた。
「それ、聞きたいわぁ。私にも聞かせて」
3人が藤田クンの部屋に集まって、レコードを回し始めると、チーちゃんとケン坊もやって来て、ちょっとしたレコード鑑賞会という感じになった。
「もう1回」「もう1回」
リクエストを繰り返してメロディと歌詞をつき合わせ、3回目には、繁も公子も、レコードに合わせて歌うことができるようになっていた。
「ふたりとも、すごいねゃー。もう歌えるようになっとん」
藤田クンが感心して言うそばから、ケン坊が、思いもしない言葉を発した。
「矢田さんと深川さん、結婚したらええのに」
言うなり、ケン坊は姉貴に頭をどつかれ、繁と公子は顔を見合わせて、ふたり一緒に声を挙げた。
「何言うの、ケンちゃん」

日曜日に『ヘイ・ポーラ』をデュエットするのは、繁と公子の小さな習慣になった。
掃除をしながら、洗濯をしながら、どちらかが歌い始めると、片方も声を合わせる。ときには、ふたり並んで洗面所で洗い物をしながら歌うこともあった。
『ヘイ・ポーラ』を歌い終えると、『トゥナイト』を練習した。
そのうち、歌詞を見なくても歌えるようになり、やがて『トゥナイト』も鼻歌気分で口ずさめるようになった。
そうして歌った日の夜更けになると、必ず、水色の便箋が、障子の隙間から差し込まれた。
《きょうは、ほんとに気持ちのいい天気でしたね。
コバルト色に晴れ上がった空を見ながら、
洗いたての洗濯物を干しているとき、
ふと感じました。
なんだか、私、マリアみたいだな……って。
私をつかの間、マリアの気分にさせてくれたのは、
私のトニー、深川クン。
ありがとう。
勉強、ガンバってね。 公子》
コバルト色に晴れ上がった空を見ながら、
洗いたての洗濯物を干しているとき、
ふと感じました。
なんだか、私、マリアみたいだな……って。
私をつかの間、マリアの気分にさせてくれたのは、
私のトニー、深川クン。
ありがとう。
勉強、ガンバってね。 公子》
そんな日々が、夏の終わりまで続いた。
それは、繁の十代にとって、もっとも幸せな日々だったと言える。
そう、あいつが「花咲荘」にやって来るまでは……。
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【右】『『チャボのラブレター』
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美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。

管理人は、常に、フルマークがつくようにと、工夫して記事を作っています。
みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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