ポーラに忘れな草〈2〉 牛乳瓶に忘れな草

ある夜、繁の部屋の障子戸を遠慮がちに
ノックする音がした。英語の構文を教えて
ほしいとやってきた公子だった――。
連載 ポーラに忘れな草 第2章

ここまでのあらすじ 深川繁は高校の3年間を下宿で過ごした。その下宿「花咲荘」に、母親に連れられてひとりの女子高生が引っ越してきた。ミッションスクールに通う矢田公子。父親の転勤で、ひとり、学校に残ることになったのだと言う。障子戸一枚と廊下で隔てられた隣人。ある夜、その隣人が、遠慮がちに繁の部屋の障子戸をノックした――
障子を開けた瞬間、それまで嗅いだこともない香りが、繁の鼻をくすぐった。
石鹸の匂いと、ほんのり甘いシャンプーの香り。それらに混じってかすかに漂う、濡れた動物の毛の匂い――。
身だしなみにうるさい公子の学校では、肩より長い髪は、お下げにまとめるのが校則になっていた。
いつもは、そのお下げ姿しか見てないのだが、そのときの公子は、洗いたての髪をひと束にまとめて、左肩から胸の前へと垂らしていた。
銭湯から戻ったばかりなんだ――。
全身から漂ってくる洗ったばかりの体の匂いに、リアルな女を感じて、公子が少しおとなに見えた。
「ごめんなさい、こんな時間に。ちょっとだけ教えてもらいたいことがあって……」
公子は大きな目をいつもより大きく開いて繁の顔を見上げ、それから、恥ずかしそうに口の端を結んだ。
口を結ぶと、公子の口角の両側には、小さなえくぼが浮かぶ。そのえくぼは、初めて会ったときからの、繁のお気に入りだった。

公子の「教えてもらいたいこと」は、簡単な英語の構文だった。
その質問と回答は、ほんの十五分ほどで終わってしまった。
そのまま立ち去りそうな公子をもう少しだけ引き留めたくて、繁は「コーヒー、飲む?」と訊いた。
「ウン、飲みたい。あ、そうや。なんか、小さなビン、ない?」
「ビン? ビンゆうたら、牛乳ビンぐらいしかないで」
「あ、それでええわ。ちょっと借りてもいい?」
繁が、電気ポットで湯を沸かしている間、公子は繁から受け取った牛乳ビンを持って洗面所に向かい、それから自分の部屋の戸を開けた。
戻ってきた公子が手にした牛乳ビンには、小さな、濃い水色の花が挿してあった。
「学校の園芸部の友だちが育ててたんを、もろうてきたんよ。何ゆう花か、知っとる?」
「いや、見たこともないが」
「忘れな草ゆうんよ。英語でゆうたら、Forget me not」
「Forget……そのまんまやなぁ」
「小さな花やろ。ユリみたいに気高くもないし、バラみたいに華麗でもないし、ゆうたら、そこらに生えとる野草みたいな花。でもな、この花のために命を落とした若者がおったんよ」
「どこで?」
「ドナウ川のほとりゆう話しか知らん。その若者な、恋人にこの花をプレゼントしよう思うて、泳いで川の中の小島まで渡ったんやけど、その帰りしなに、深みにはまって流されてしもたんやて」
「それで? その若者は死んでしもたん?」
「ウン。でもな、流される前にな、若者は花束を岸辺の彼女に投げて、叫んだんやて。ボクのことを忘れないで……て」
「それで、忘れな草か。ええ話やのぉ」
「やろ? 深川クンの部屋、なんにものうて寂しそうやから、ちょっとおすそ分けしたんよ。少しの間でええから、飾っといてくれる?」
「もちろん」と、繁は、その牛乳ビンを勉強机の脇の本棚の上に置いた。
殺風景な部屋に、ポッと明かりが点ったような気がした。
しかし、この明かり、なんて物悲しい色をしてるんだろう……。
それから、繁たちは、学校のこと、将来のこと、趣味のこと、読んだ本のこと、下宿の賄いのおかずのこと――と、とりとめもない話を続けた。
公子は、話しながらよく手を動かした。
「ねェ、ねェ」と言いながら、ちゃぶ台の上に置いた繁の手の甲をチョンチョンと叩く。
「ワァ、それ、すごい!」と言いながら、両手を胸の前で組み合わせる。
「ウーン、どうしようか?」と考え事をするときには、両手で頬をはさんで首を傾ける。
「エッ、私のこと?」などと言うときには、人差し指をえくぼの辺りに当てて自分を指差す。
コーヒーを飲むときには、取っ手をつかむのではなくて、カップを両手で包み込むように持って飲む。
ほんの少しの間に、繁は公子という生きもののほとんどのクセを、頭に刻み込んだような気がした。
石鹸の匂いと、ほんのり甘いシャンプーの香り。それらに混じってかすかに漂う、濡れた動物の毛の匂い――。
身だしなみにうるさい公子の学校では、肩より長い髪は、お下げにまとめるのが校則になっていた。
いつもは、そのお下げ姿しか見てないのだが、そのときの公子は、洗いたての髪をひと束にまとめて、左肩から胸の前へと垂らしていた。
銭湯から戻ったばかりなんだ――。
全身から漂ってくる洗ったばかりの体の匂いに、リアルな女を感じて、公子が少しおとなに見えた。
「ごめんなさい、こんな時間に。ちょっとだけ教えてもらいたいことがあって……」
公子は大きな目をいつもより大きく開いて繁の顔を見上げ、それから、恥ずかしそうに口の端を結んだ。
口を結ぶと、公子の口角の両側には、小さなえくぼが浮かぶ。そのえくぼは、初めて会ったときからの、繁のお気に入りだった。

公子の「教えてもらいたいこと」は、簡単な英語の構文だった。
その質問と回答は、ほんの十五分ほどで終わってしまった。
そのまま立ち去りそうな公子をもう少しだけ引き留めたくて、繁は「コーヒー、飲む?」と訊いた。
「ウン、飲みたい。あ、そうや。なんか、小さなビン、ない?」
「ビン? ビンゆうたら、牛乳ビンぐらいしかないで」
「あ、それでええわ。ちょっと借りてもいい?」
繁が、電気ポットで湯を沸かしている間、公子は繁から受け取った牛乳ビンを持って洗面所に向かい、それから自分の部屋の戸を開けた。
戻ってきた公子が手にした牛乳ビンには、小さな、濃い水色の花が挿してあった。
「学校の園芸部の友だちが育ててたんを、もろうてきたんよ。何ゆう花か、知っとる?」
「いや、見たこともないが」
「忘れな草ゆうんよ。英語でゆうたら、Forget me not」
「Forget……そのまんまやなぁ」
「小さな花やろ。ユリみたいに気高くもないし、バラみたいに華麗でもないし、ゆうたら、そこらに生えとる野草みたいな花。でもな、この花のために命を落とした若者がおったんよ」
「どこで?」
「ドナウ川のほとりゆう話しか知らん。その若者な、恋人にこの花をプレゼントしよう思うて、泳いで川の中の小島まで渡ったんやけど、その帰りしなに、深みにはまって流されてしもたんやて」
「それで? その若者は死んでしもたん?」
「ウン。でもな、流される前にな、若者は花束を岸辺の彼女に投げて、叫んだんやて。ボクのことを忘れないで……て」
「それで、忘れな草か。ええ話やのぉ」
「やろ? 深川クンの部屋、なんにものうて寂しそうやから、ちょっとおすそ分けしたんよ。少しの間でええから、飾っといてくれる?」
「もちろん」と、繁は、その牛乳ビンを勉強机の脇の本棚の上に置いた。
殺風景な部屋に、ポッと明かりが点ったような気がした。
しかし、この明かり、なんて物悲しい色をしてるんだろう……。
それから、繁たちは、学校のこと、将来のこと、趣味のこと、読んだ本のこと、下宿の賄いのおかずのこと――と、とりとめもない話を続けた。
公子は、話しながらよく手を動かした。
「ねェ、ねェ」と言いながら、ちゃぶ台の上に置いた繁の手の甲をチョンチョンと叩く。
「ワァ、それ、すごい!」と言いながら、両手を胸の前で組み合わせる。
「ウーン、どうしようか?」と考え事をするときには、両手で頬をはさんで首を傾ける。
「エッ、私のこと?」などと言うときには、人差し指をえくぼの辺りに当てて自分を指差す。
コーヒーを飲むときには、取っ手をつかむのではなくて、カップを両手で包み込むように持って飲む。
ほんの少しの間に、繁は公子という生きもののほとんどのクセを、頭に刻み込んだような気がした。

「ちょっと冷えてきたね」
公子がブルッと体を震わせた。
時計の針は、もう夜中の一時を回っていた。
「それ、着たら?」
「ウン、ちょっと着させてもらうわ」
肩に羽織っていただけのセーターを、公子は頭から被り、首を通し、腕を通す。
薄いピンク色のセーターは、公子の胸のふくらみの上で、引っかかっている。その裾を引っ張り下ろすと、公子の胸は、まるでプルンと音を立てるようにセーターの中に納まり、しっかりその形を浮き上がらせた。
「いまね、私ら、新しいフォークダンス、覚えよるんよ。ちょっと練習してみん?」
公子がS学園でフォークダンス部に所属していることは、食事のときの自己紹介で知らされていた。
「エッ!? こんな時間に?」
ためらう繁の手をとって、「いいから、いいから」と立ち上がらせると、公子は「シーッ」と唇に指を立てた。
「足音、響かんように、そっとね」
それは、繁がまったく見たことも聞いたこともないダンスだった。
男女が向かい合って両手を取り合い、ステップを踏みながら、体を近づけたり遠ざけたりする――というのが動きの基本で、その間に、おたがいの体を軸にして円を描いたり、片方が相手の掲げた腕の下でターンしたり……という動きが組み込まれていた。
「私が、右足を引いたら、深川クンは左足を出すんよ。ほんで、私が右足を出したら、深川クンは、左足を引くん。それを同時にね……」
繁の耳元で、ささやきかけるように動きを指示する公子の声。その声とともに吐き出される息が、少し熱かった。
「ホラ、遅れんで。1、2、3、4。2、2、3、4……」
30分も続けているうちに、握り合った手にはじっとり汗がにじみ、公子が耳元でささやく声もあえぎ始めた。
「フーッ。ちょっと疲れたね」
「続きは今度にしようか」
動きを止めて、しばらく繁たちは、おたがいの顔を見つめ合った。
つないだ手の指と指が、おたがいの手の中でペアを探して、ためらいがちに動いた。
やっと相手を見つけて、5本の指は、一瞬、絡まり合った。
その指に少しだけ力を込めたとき、相手の指はスルリと、その絡み合いを解いた。
「きょうはもう遅いけん……」
公子は、自分の足元を見下ろすように下を向いたまま、小さな声で言った。
頬がほんのり紅色に染まり、まぶたが小刻みに震えている。その声は、やさしく繁を諭すようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
意を決したように教科書を手にした公子は、「おやすみ」と、ほとんど口のかたちだけであいさつして、戸口に向かった。
障子戸を開けながら、一瞬、目を忘れな草の牛乳ビンに向け、その目を繁に振り向けた。
〈あの花、大事にしてね……〉
公子の目がそう言っているように、繁には見えた。
公子が部屋を去ったあとも、繁はしばらく、絡み合った指先の感触を思い出して、ボーッとしていた。
やっと気を取り直して、部屋を片づけ、寝ようとしているところへ、障子戸の隙間からスーッと差し込まれたものがある。
見ると、2つ折にした水色の便箋だった。
《楽しい時間をありがとう。
もっといっぱい、いろんなことを話したかったけど、
きょうはもう寝ます。
あなたの貴重な勉強の時間をジャマして、ごめんなさい。 公子》
もっといっぱい、いろんなことを話したかったけど、
きょうはもう寝ます。
あなたの貴重な勉強の時間をジャマして、ごめんなさい。 公子》
それから、数え切れないほど受け取ることになる「水色の手紙」の、それが第一通目だった。
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美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。

管理人は、常に、フルマークがつくようにと、工夫して記事を作っています。
みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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