ポーラに忘れな草〈1〉 障子の向こうの彼女

繁は「花咲荘」と名付けられた下宿で
過ごした。その下宿にひとりの女子高生が
越してきた。繁は彼女に恋をした——。
マリアたちへ-第3話
ポーラに忘れな草 第1章
クシュッ!
廊下を隔てた障子戸の向こうで、子犬のような声が響いた。
続いて、カサコソと紙を引っ張り出す音。
フシュッ、フシュッ……。
二度、三度、鼻をかむ音。その紙をまるめる音がして、再び、「花咲荘」の2階は沈黙に包まれた。
木造の旧家の2階を、全部で5つの部屋に仕切って学生たちに下宿させている「花咲荘」は、「荘」とは名ばかりの素人下宿だった。
歩くと、ギシギシと床が鳴る廊下を挟んで、東側に2部屋、西側に2部屋。廊下の南端が階段になっていて、降りたところに、みんなが賄いを食べる食堂があった。
廊下の北の端は、共同の洗面所。その西隣がトイレ。東隣に1部屋だけドア付の部屋があったが、その部屋は、繁が入居したときから、ずっと空き部屋のままだった。障子戸の部屋に比べて、1000円ほど賃料が高い。それで入るものがいないのだろう――と、下宿人たちはウワサしていた。
矢田公子の部屋は、廊下を挟んで繁の部屋と向き合っていた。
障子の戸で仕切られているだけなので、周囲が寝静まった夜更けになると、おたがいの部屋の気配が手に取るように相手に伝わった。
あ、いま、本を閉じた。
いま、布団を敷いた。
いま、服を脱いでパジャマに着替えた。
目覚ましのネジを巻いた。
灯りを消した……。
「フーッ……」
矢田公子は、布団にもぐりこむと、必ず一度、小さくため息を洩らす。
その声を聞くと、繁もそろそろ寝なければいけない時間だと悟る。
しかし、すぐには寝ない。
彼女より、ほんの少しだけ遅くまで起きていて、数Ⅱの練習問題を1問でも2問でも解いたり、英語のリーダーを1ページでも2ページでも読解したりして、それから、ゆっくり参考書を閉じ、眠りに就く。
翌朝、顔を合わせた公子に、「ゆうべも遅かったん?」と訊かれたとき、
「ウン。公ちゃんの部屋の明かりが消えてから、1時間ぐらい」
と、誇らしげに答えるためだった。
廊下を隔てた障子戸の向こうで、子犬のような声が響いた。
続いて、カサコソと紙を引っ張り出す音。
フシュッ、フシュッ……。
二度、三度、鼻をかむ音。その紙をまるめる音がして、再び、「花咲荘」の2階は沈黙に包まれた。
木造の旧家の2階を、全部で5つの部屋に仕切って学生たちに下宿させている「花咲荘」は、「荘」とは名ばかりの素人下宿だった。
歩くと、ギシギシと床が鳴る廊下を挟んで、東側に2部屋、西側に2部屋。廊下の南端が階段になっていて、降りたところに、みんなが賄いを食べる食堂があった。
廊下の北の端は、共同の洗面所。その西隣がトイレ。東隣に1部屋だけドア付の部屋があったが、その部屋は、繁が入居したときから、ずっと空き部屋のままだった。障子戸の部屋に比べて、1000円ほど賃料が高い。それで入るものがいないのだろう――と、下宿人たちはウワサしていた。
矢田公子の部屋は、廊下を挟んで繁の部屋と向き合っていた。
障子の戸で仕切られているだけなので、周囲が寝静まった夜更けになると、おたがいの部屋の気配が手に取るように相手に伝わった。
あ、いま、本を閉じた。
いま、布団を敷いた。
いま、服を脱いでパジャマに着替えた。
目覚ましのネジを巻いた。
灯りを消した……。
「フーッ……」
矢田公子は、布団にもぐりこむと、必ず一度、小さくため息を洩らす。
その声を聞くと、繁もそろそろ寝なければいけない時間だと悟る。
しかし、すぐには寝ない。
彼女より、ほんの少しだけ遅くまで起きていて、数Ⅱの練習問題を1問でも2問でも解いたり、英語のリーダーを1ページでも2ページでも読解したりして、それから、ゆっくり参考書を閉じ、眠りに就く。
翌朝、顔を合わせた公子に、「ゆうべも遅かったん?」と訊かれたとき、
「ウン。公ちゃんの部屋の明かりが消えてから、1時間ぐらい」
と、誇らしげに答えるためだった。

矢田公子が、母親に連れられて「花咲荘」にやって来たのは、その年の桜の季節だった。
公子は、お嬢さん学校として知られた「S学園」の3年生、繁は受験校として知られた「A学園」の2年生。どちらもミッション系の学校だったが、「S学園」はプロテスタント系、「A学園」はカトリック系で、それぞれ女子、男子だけの学校だった。
「事情があって、私たちは神戸に引っ越すんですが、この子は学校もありますので、こちらに残していくことになりましたの。あと1年だけですけど、みなさん、よろしくお願いします」
上品な物腰で、繁たちの部屋をひと部屋ひと部屋訪ねては、ていねいに頭を下げる母親の横で、公子は、お下げにまとめた頭をぴょこりと下げて回った。
頭を下げながらも、大きな目を相手の顔に向け、遠慮がちに、これから同居人になる人物たちの表情を探っているように見えた。
「S学園」の目印とも言える幅広のボックス・プリーツのスカートに、臙脂の棒リボンの付いた丸襟のブラウス。その胸が、息を吸い込むたびに大きくふくらんでいたのを、繁はいまでもハッキリ覚えている。
「まあ、A学園なんですか。じゃ、公子、勉強のこと、お聞きしたらいいわ。A学園の生徒さんは、2年生のうちに高校3年間分の勉強を全部、終わらせるそうよ。あなたより先に進んでるかもしれない。ね、公子」
目を輝かせる母親の背中をつついて、とがめるような視線を送ったあと、公子は繁の顔を見て、ヒョイと首をすくめて見せた。
「勝手なこと言ってるけど、気にしないでね」
とでも言うように、クスリと笑ったその笑顔を、繁は「かわいい」と思った。
それが、繁と公子の出会いだった。

繁たちが顔を合わせるのは、朝の賄いの時間と晩の賄いの時間の一日2回。
会えば、どちらからともなく、「おはよう」「こんばんは」と声を掛け合い、二言、三言、言葉を交わした。
「遅うまで、ガンバっとんやね」
「ゆうべも遅かったん?」
「勉強、進んどる?」
たいてい、声をかけてくるのは公子のほうだった。
そうして問いかけてくる声の調子が、やわらかく、やさしく、しかも澄んだメゾソプラノで、繁はその声を聞くたびに、何かとてつもなく大きくフワリとしたものに包まれているような気がした。
公子は、部屋にいる間はいつも、制服をハンガーにかけて、それを部屋の障子戸の上の鴨居にぶら下げていた。
障子に映る制服のシルエットは、公子がすぐそこにいることの存在証明のようなもので、繁はそれを見るたびに、不思議な安心感に包まれた。
繁たちは、節度ある隣人同士だった。
障子戸一枚で隔てられたおたがいの生活領域に、けっして無遠慮に踏み込むようなことをしなかった。
朝夕に交わされる、ほんの二言、三言の言葉だけで、相手の体調や心のありようを察し、相手が元気で何の問題もなさそうであることを察すると、自分も気持ちが明るくなる。
公子が入居してからの最初の1ヵ月は、そんなふうに過ぎていった。

四月が終わり、五月の連休に入ったある夜のことだった。
時計は、すでに夜の十一時を回っていた。
不意に、繁の部屋の障子戸を、小さく叩く音がした。
「公子です。ちょっといいですか?」
周囲にさとられないようにと潜めた、絹のような声だった。
繁の夜の平穏は、そのひと声から崩れていくことになった。
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美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。
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【右】『『チャボのラブレター』
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