西暦2072年の結婚〈38〉 政治のリアルと夕食のリアル

この小説には性的表現が含まれます。18歳未満の方はご退出を。
国会前で催涙液の放水を浴びた真弓は
霞ヶ関の駅で痛む目を洗いながら思った。
「ああ、夕食の時間に遅れるなぁ」
真弓の中では、「政治のリアル」は
「夕食のリアル」に敗北していた……。
連載 西暦2072年の結婚
第38章 政治のリアルと夕食のリアル

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放水を浴びた肌がヒリヒリと痛んだ。
目がチカチカとして涙が止まらず、まともに開けていられない。放水を頭から浴びた者の中には、顔を覆って道端にうずくまったままの者もいた。
明らかだった。装甲車の放水銃から放たれたのは、催涙液入りの放水だった。唐辛子から抽出されたカプサイシンを含む催涙成分が、肌に染み、目に染みて、人から行動する力を奪っていく。
かつて、日本では過激派のデモを鎮圧するのに使われ、韓国でも大統領への抗議行動を制圧するのに使われたが、国連から「非人道的」との指摘を受けて、しばらくは使用されないでいた。それが、再び、使われた。
それは、政府が、今回の騒動に危機感を募らせたからに違いない。
やっと外務省の前まで後退した真弓は、そこから霞ヶ関の駅を目指した。
とにかく、目を洗いたい。駅に駆け込んで、夢中で洗面台の蛇口に手を当てた。手を近づけると、蛇口からはわずかばかりの量の水が噴き出す。それを手のひらに溜めて目を浸け、目を瞬かせる。それを何度も何度も繰り返した。
それで、やっと、目を開けていられるようになった。
路上では、態勢を立て直したデモ隊が、グループごとにまとまって抗議活動を続けていた。しかし、単身で、衝動的に国会前にやって来ただけの真弓には、まとまって行動を共にすべき組織も仲間もいなかった。
駅からは、なおも抗議行動に参加しようとするグループが、改札から出て来ては、地上を目指して階段を上っていく。
後は、頼むぜ。
真弓は口の中でつぶやいて、人波とは逆に、改札から駅のホームへと向かった。
銀色の車体が入線してくると、ドアから車体に体を滑り込ませ、運よく空いたシートに迷わず腰を下ろした。
フワーッとした安心感が、放水で冷やされた体に広がっていく。その瞬間、真弓の頭には、思いもしない言葉が浮かんだ。
あ~あ、夕食の時間に遅れてしまうなぁ……。
次の瞬間には、ダイニングテーブルに並べた料理の皿を見下ろしながら、腰に手を当てて「フゥ……」と頬を膨らませている麻衣の姿が目に浮かんだ。
連絡もしないで夕食の時間に間に合わなかったことを、麻衣は怒っているだろうなぁ。
「申し訳ないけど……」と真弓は思った。
国会に押し寄せる人の波よりも、そこで叫んだシュプレヒコールよりも、浴びせられた放水よりも、「間に合わなかった夕食」のほうが、真弓にとっては、差し迫った問題に感じられた。
真弓の頭の中では、「政治のリアル」は「夕食のリアル」に敗北していた。
それが、立花真弓という男の限界だ――と、真弓は悟った。
目がチカチカとして涙が止まらず、まともに開けていられない。放水を頭から浴びた者の中には、顔を覆って道端にうずくまったままの者もいた。
明らかだった。装甲車の放水銃から放たれたのは、催涙液入りの放水だった。唐辛子から抽出されたカプサイシンを含む催涙成分が、肌に染み、目に染みて、人から行動する力を奪っていく。
かつて、日本では過激派のデモを鎮圧するのに使われ、韓国でも大統領への抗議行動を制圧するのに使われたが、国連から「非人道的」との指摘を受けて、しばらくは使用されないでいた。それが、再び、使われた。
それは、政府が、今回の騒動に危機感を募らせたからに違いない。
やっと外務省の前まで後退した真弓は、そこから霞ヶ関の駅を目指した。
とにかく、目を洗いたい。駅に駆け込んで、夢中で洗面台の蛇口に手を当てた。手を近づけると、蛇口からはわずかばかりの量の水が噴き出す。それを手のひらに溜めて目を浸け、目を瞬かせる。それを何度も何度も繰り返した。
それで、やっと、目を開けていられるようになった。
路上では、態勢を立て直したデモ隊が、グループごとにまとまって抗議活動を続けていた。しかし、単身で、衝動的に国会前にやって来ただけの真弓には、まとまって行動を共にすべき組織も仲間もいなかった。
駅からは、なおも抗議行動に参加しようとするグループが、改札から出て来ては、地上を目指して階段を上っていく。
後は、頼むぜ。
真弓は口の中でつぶやいて、人波とは逆に、改札から駅のホームへと向かった。
銀色の車体が入線してくると、ドアから車体に体を滑り込ませ、運よく空いたシートに迷わず腰を下ろした。
フワーッとした安心感が、放水で冷やされた体に広がっていく。その瞬間、真弓の頭には、思いもしない言葉が浮かんだ。
あ~あ、夕食の時間に遅れてしまうなぁ……。
次の瞬間には、ダイニングテーブルに並べた料理の皿を見下ろしながら、腰に手を当てて「フゥ……」と頬を膨らませている麻衣の姿が目に浮かんだ。
連絡もしないで夕食の時間に間に合わなかったことを、麻衣は怒っているだろうなぁ。
「申し訳ないけど……」と真弓は思った。
国会に押し寄せる人の波よりも、そこで叫んだシュプレヒコールよりも、浴びせられた放水よりも、「間に合わなかった夕食」のほうが、真弓にとっては、差し迫った問題に感じられた。
真弓の頭の中では、「政治のリアル」は「夕食のリアル」に敗北していた。
それが、立花真弓という男の限界だ――と、真弓は悟った。

「よかったぁ。お帰りィ!」
玄関のドアを開けると、麻衣が大きなおなかをさすりながら駆け寄って来て、真弓の首に抱き着いてきた。
「連絡もないから、何かあったのかって、みんな、心配してたのよォ」
言いながら、真弓の体を抱き締めて揺すってくる。しばらく真弓の体を揺すっていた手が、「ン……?」というふうに止まった。
「どうしたの? 首の周りとか……あら、腕も……赤くなってるわよ。ね、どうしたの?」
麻衣の声を聞いて、俊介と次郎も階段を階段を駆け下りてきた。
「あれ……?」と、最初に気づいたのは、俊介だった。
「何かツーンとこないか、次郎クン? 目もショボショボしてくる」
「まさか、香水じゃないですよね?」
「バカ。香水がこんなにツーンとくるわけないだろうが。立花さん、何かぶっかけられちゃいました? たとえば……チカン除けスプレーとか?」
「バレたか……」と苦笑いする真弓を、麻衣が少し怖い顔でニラんでいた。
「たっぷり浴びちゃったよ、放水車から」
ジョーダンめかして答えると、俊介が真顔になった。
「立花さん、すぐシャワー浴びたほうがいいですよ。それ、あとでかぶれたりするらしいですから」
「そうだね、肌がちょっとヒリヒリしてるし……」
あわてて、バスルームに向かおうとする真弓の背後で、麻衣の「エーッ!?」という声が聞こえた。

シャワーを浴びてリビングに戻ると、麻衣と俊介と次郎が、真剣な顔でTVの画面を見つめていた。TVは緊急特番として、国会周辺で起きている騒動を伝えていた。
真弓に気づくと、全員が一斉に真弓の全身を足元から頭のてっぺんまで眺めまわして、それから俊介がゆっくり口を開いた。
「騒乱罪だってさ」
「そ、騒乱罪……?」
TV画面に映し出されていたのは、国会前から追いやられたデモ隊が新橋・銀座方面に流れて、その一部が暴徒化し、商店やクルマ、駅施設、交番などの破壊に回っている姿だった。
「やばいですよ、立花さん。騒乱罪ってなると、その場にいたってだけで、逮捕されちゃうそうじゃありませんか」
「騒乱罪を適用ということになると、そういうことになるね。しかし、ムリだろうよ。何十万っていうデモ隊だよ。よっぽど目立つことをやったやつは引っ張られるかもしれないけど、ボクは、まともにデモに参加して、シュプレヒコールを叫んでただけだから」
「ホントにそれだけ?」と、横から次郎がからかうように言う。それを「次郎ちゃん」と麻衣がたしなめた。
「ほんとは、そんなつもりじゃなかったんだけどさ」と真弓は頭を掻いた。
「しかし、電車で国会議事堂前まで来ると、プラカードや旗を持った人たちが次々に降りていくんだよね。なんだかさ、いま、この人たちの列に加わって声を挙げておかないと、後悔するような気がして……」
「オレだって、その場にいたら、足が動いただろうなぁ――って思いますよ」
俊介が、残念そうに言う。しかし、自分よりは血の気の多い俊介が、もしあの場にいたら、あるいは、放水に立ち向かって機動隊の盾に突っ込んでいったかもしれない。
「不思議なんだけど、国会の正門前まで行って声を挙げているとき、思ったんだよね。ここで挙げている声は、吉高ファミリーを守るための声でもある――ってね」
「ありがとう」と麻衣が言った。
「私たちを思って放水を浴びてくれたのね」
「みんな、そうだと思うよ。あそこに集まっていた人たちには、多かれ少なかれ、守りたい人がいたんだよ。反対を叫ぶ声が、どこか、切実に感じられたもの」
「そうだよなぁ」と俊介が言った。
「みんな、だれかを守りたいんですよね。そのための派兵だったら、オレは喜んでこの身を捧げるけど、アメリカに追従するためだけにおまえらの命を差し出せ――なんてのは、まっぴらごめんですよ。それも、ビンボー人にだけ命を差し出せってんでしょ? 怒りますよ、フツー」
俊介が見せた怒りも、国会前を埋め尽くした50万人の怒りの声も無視し、政府は2500人を2回に分けて集める、計5000人の追加徴集を決めた。
吉高ファミリーも、その渦中に巻き込まれていった。
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2015年7月発売 定価/122円
教師のビンタが支配する教室から、突如、姿を消した美少女。卒業から40年経って、ボクはその真実を知ります。
【右】『『チャボのラブレター』
2014年10月発売 定価122円
中学校の美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。

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