「純」を叫ぶ人ほど、心の中はドロドロ

File-03 「純」を叫ぶ人ほど、心の中はドロドロ
他人を「不道徳だ」「ゲスだ」「不倫だ」
などとなじり、自分は「純粋」と主張する。
そういう人たちの心の中には、醜い欲望や
劣等感が潜んでいる。愛の世界では、
「純」という言葉はウソつきなのです。
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ひとつだけ、覚えておいていただきたい法則があります。
人は、心の内に隠さなければならないものが大きいほど、
外に向かっての「武装」が強大になる。
という法則です。
その「武装」として、しばしば使われるのか、「道徳」です。
本来の「道徳」は、自らを律する行動規範として黙々と遵守するものであって、人の行動を指弾するために使うべき道具ではありません。
もし、あなたに向かって「道徳」の旗を振りかざし、「おまえは不道徳だ」「不純だ」「不潔だ」「インキンだ(エッ!?)」……などと叫ぶ人がいたら、叫んでいるその人の心の内にこそ、醜い欲望やずるい心根がひそんでいる――と思って、間違いありません。
歴史的にも、社会的にも、そのことを裏付ける事例がゴロゴロ転がっています。

「道徳」は繰り返し人間を裏切ってきた

「十字軍」は、略奪者の群れだった。
イスラム勢力に占領された聖地エルサレムを奪還せよ――とのかけ声で編成され、全部で7回(回数については諸説あり)に及ぶ遠征が行われますが、その実態は、略奪者の群れ。兵を差し向けた諸侯たちは、中東の地に自分の植民地を作ることに血眼になり、行軍の進路にあたる各地で、残虐な殺戮や略奪を繰り返しました。
とりわけ、「十字軍」に名を借りた、各地でのユダヤ人虐殺は、歴史に大きな汚点を残すこととなり、2000年には、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、全世界に向かって、それらの残虐行為を「悔い改める」との声明を発表しました。

日本を大戦へと駆り立てた「神国」の思想
日本は「神の国」であり、日本人はその神の国の「純潔」な民族であると煽り立てて、国民を戦争へと駆り立てたのは、当時の軍部とジャーナリズムでした。しかし、その戦争の実態は、侵略行為以外の何物でもなく、「聖戦」の旗印に踊らされた軍人たちは、「純潔」ではないとする他民族に対して、各地で残虐な行為に及びました。
戦争末期には、「1億火の玉」「十死零生」などの掛け声に応じて、若い命が自らを犠牲として散っていきましたが、若者たちにそれを命じ、「あとからわれわれも必ず行く」と約束した上層部の中で、その言葉を実行したのは、わずか数名の指揮官たちだけでした。

イラクを「悪魔」呼ばわりし、多国籍軍を「十字軍」と称した欺瞞
記憶に新しい湾岸戦争では、おバカのブッシュが、イラクや北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、多国籍軍を「十字軍」と称して、「正義の戦い」を仕掛けましたが、その実態は、イラクの石油をめぐる権益闘争。ブッシュのシンクタンクが、石油メジャーの息のかかった組織であったことがスッパ抜かれて、そのネライが露呈してしまいました。

「純潔」の名のもとに繰り返される「民族浄化」
これも記憶に新しいと思いますが、旧ユーゴスラビアから独立したセルビアでは、国内の他民族を排除しようという動きが起こり、大規模な殺戮が行われました。古くは、ナチス支配下のドイツでのユダヤ人虐殺。日本でも、関東大震災時の朝鮮人虐殺。「純潔」の名のもとに行われる「民族浄化」は、歴史上、たびたび登場する概念です。
まだまだいろいろあるのですが、これくらいにしておきます。
要は、「道徳」という旗のもとでは、どんな非人間的なことも行われてきた――ということ。むしろ、「道徳」は、その非人間的なことを覆い隠す隠れ蓑として使われてきた、ということを覚えておいていただきたいのです。
そして、筆者は、こう思っています。
「純」という言葉ほどキケンな言葉はない。
「純潔」「純粋」「純血」――こうした言葉のもと、いったいどれだけの殺戮や略奪、差別が繰り返されてきたか? このブログのタイトルを「不純愛講座」としたのも、管理人が「純」のウソを、イヤというほど見てきたからなのです。
人は、心の内に隠さなければならないものが大きいほど、
外に向かっての「武装」が強大になる。
という法則です。
その「武装」として、しばしば使われるのか、「道徳」です。
本来の「道徳」は、自らを律する行動規範として黙々と遵守するものであって、人の行動を指弾するために使うべき道具ではありません。
もし、あなたに向かって「道徳」の旗を振りかざし、「おまえは不道徳だ」「不純だ」「不潔だ」「インキンだ(エッ!?)」……などと叫ぶ人がいたら、叫んでいるその人の心の内にこそ、醜い欲望やずるい心根がひそんでいる――と思って、間違いありません。
歴史的にも、社会的にも、そのことを裏付ける事例がゴロゴロ転がっています。

「道徳」は繰り返し人間を裏切ってきた

「十字軍」は、略奪者の群れだった。
イスラム勢力に占領された聖地エルサレムを奪還せよ――とのかけ声で編成され、全部で7回(回数については諸説あり)に及ぶ遠征が行われますが、その実態は、略奪者の群れ。兵を差し向けた諸侯たちは、中東の地に自分の植民地を作ることに血眼になり、行軍の進路にあたる各地で、残虐な殺戮や略奪を繰り返しました。
とりわけ、「十字軍」に名を借りた、各地でのユダヤ人虐殺は、歴史に大きな汚点を残すこととなり、2000年には、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、全世界に向かって、それらの残虐行為を「悔い改める」との声明を発表しました。

日本を大戦へと駆り立てた「神国」の思想
日本は「神の国」であり、日本人はその神の国の「純潔」な民族であると煽り立てて、国民を戦争へと駆り立てたのは、当時の軍部とジャーナリズムでした。しかし、その戦争の実態は、侵略行為以外の何物でもなく、「聖戦」の旗印に踊らされた軍人たちは、「純潔」ではないとする他民族に対して、各地で残虐な行為に及びました。
戦争末期には、「1億火の玉」「十死零生」などの掛け声に応じて、若い命が自らを犠牲として散っていきましたが、若者たちにそれを命じ、「あとからわれわれも必ず行く」と約束した上層部の中で、その言葉を実行したのは、わずか数名の指揮官たちだけでした。

イラクを「悪魔」呼ばわりし、多国籍軍を「十字軍」と称した欺瞞
記憶に新しい湾岸戦争では、おバカのブッシュが、イラクや北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、多国籍軍を「十字軍」と称して、「正義の戦い」を仕掛けましたが、その実態は、イラクの石油をめぐる権益闘争。ブッシュのシンクタンクが、石油メジャーの息のかかった組織であったことがスッパ抜かれて、そのネライが露呈してしまいました。

「純潔」の名のもとに繰り返される「民族浄化」
これも記憶に新しいと思いますが、旧ユーゴスラビアから独立したセルビアでは、国内の他民族を排除しようという動きが起こり、大規模な殺戮が行われました。古くは、ナチス支配下のドイツでのユダヤ人虐殺。日本でも、関東大震災時の朝鮮人虐殺。「純潔」の名のもとに行われる「民族浄化」は、歴史上、たびたび登場する概念です。
まだまだいろいろあるのですが、これくらいにしておきます。
要は、「道徳」という旗のもとでは、どんな非人間的なことも行われてきた――ということ。むしろ、「道徳」は、その非人間的なことを覆い隠す隠れ蓑として使われてきた、ということを覚えておいていただきたいのです。
そして、筆者は、こう思っています。
「純」という言葉ほどキケンな言葉はない。
「純潔」「純粋」「純血」――こうした言葉のもと、いったいどれだけの殺戮や略奪、差別が繰り返されてきたか? このブログのタイトルを「不純愛講座」としたのも、管理人が「純」のウソを、イヤというほど見てきたからなのです。

「道徳」は「劣等感」を覆い隠す鎧になる
さて、問題を「恋愛」に戻しましょう。
ここにひとり、妙齢のご婦人がいます。
年のころ40代半ば。きっちりと身を包むパンツ・スーツに、パーマでまとめた髪。顔には金縁のメガネ。このご婦人が、通りを歩くミニ・スカートの女子高生を見て、マユをひそめます。

私・長住の理論によると、このご婦人は、実は、自分もそんなスカートをはきたくて仕方がないのです。
はきたいけれど、そんな年齢でもないし、自分の脚にミニ・スカートは似合わない――とわかっている。そこで、堂々とミニをはいて歩く女子高生たちを、「道徳」の名のもとに一刀両断に切り捨てるわけです。
もう、お気づきかと思いますが、このご婦人に「道徳」の鎧を着せたのは、たぶん、彼女の劣等感=コンプレックスだろうと思われます。
「自分にはできない」という劣等感と向き合いたくないがために、「道徳」という固い鎧を身に着けて、できている人々に怨嗟の攻撃を仕掛けているわけです。
「道徳」は、こんなときのまことに便利な道具。筆者も、たびたび使わせていただきました。

実は、長住、泳げないのでした。

「不倫」を責める「道徳」は、「おひとりさま1名ずつ」
「道徳家」は、他人の恋愛にも余計な口出しをします。
典型的なのが、「不倫攻撃」。「人の家庭を壊して心が痛まないの?」「泥棒ネコ」……とそりゃあまぁ、激しい口調で口撃を仕掛けます。
自由恋愛論者(恋愛しない自由を含む)であり、反・家族帝国主義を標榜する筆者の目には、なんとわかりやすい人たちだろう――と映ってしまいます。
この人たちが主張している「道徳」は、きわめて新しい道徳(「道徳」と言っていいかどうかもわからないような道徳)で、端的に言うと、「おひとりさま1名ずつを守りなさいよ」ということなんですね。
「道徳」と言うより「分配理論」です。
「おひとりさま1名ずつ」が社会的に定着したのは、何度もお話したかと思いますが、産業革命以降。労働力を再生産するためには、みんなに2~3人ずつ子どもを作ってもらわないと、とても社会が維持できない――というのが、社会的動機でした。
「おひとりさま1名ずつを守りなさいよ」を「道徳」として叫ぶ人たちの本心は、「そうしないと私があぶれる」です。つまり、「分け前」に預かれなくなってしまうわけです。
自信がある人は、「分け前」のことなど気にしません。気にするのは「ほんとに愛があるのかどうか」だけです。
つまり、ここでも「道徳」は、劣等感をカバーするツールとして、激しく使われることになるわけです。

「これは正しいこと?」と自分に問い続ける心
では、「鎧」が「道徳」ではなく、「倫理」だったらどうなるか?
「倫理」は「分け前」や「形」ではなく、物事の真偽を問います。問題にするのは、「How」ではなく、「True or not」です。
恋愛に関して言うなら、「私だけを愛してくれるか?」とか「浮気するかどうか?」とか「毎日、キスしてくれるか?」なんていう瑣末な問題ではなく、「私はこの人をほんとうに愛していると言えるのか?」「何の報酬も期待しない愛でいられるだろうか?」――と、愛の本質を問い続けます。
人を攻撃するための道具としてではなく、自分に向かって「これは正しいことなの?」と問いかける言葉、それこそが「倫理」だと筆者は思っています。
たとえ、周り中が「ニッポン、勝った!」と日の丸を打ち振っていても、「この戦争って、正しいのか?」と、自らに問いかける言葉。たとえ、周り中が「あのふたり、不倫だよ」と後ろ指を指しまくっていても、「あのふたりの愛に、何か打算があるだろうか?」と問いかける言葉。「倫理」とは、そんな言葉の源だろうと思います。
「道徳」は、しばしば欺瞞の道具として使われますが、「倫理」は、その欺瞞を見抜き、人に真理を問い続けます。
「不倫だからダメ」は「道徳」の言葉ですが、「倫理」が発する言葉は、「その愛って、ほんとに愛?」。
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妻は、おふたり様にひとりずつ (小説)
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教師のビンタが支配する教室から、突如、姿を消した美少女。40年後、その真実を知ったボクは……。
【右】『『チャボのラブレター』
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美しい養護教諭と「ボク」の、淡い恋の物語です。

管理人は、常に、下記3つの要素を満たすべく、知恵を絞って記事を書いています。
みなさんのポチ反応を見て、喜んだり、反省したり……の日々です。
今後の記事作成の参考としますので、正直な、しかし愛情ある感想ポチを、どうぞよろしくお願いいたします。



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