「カサブランカ」の歌姫5-8 そして、彼女はいなくなった

杏里の歌を聴く機会も、日に日に少なくなった。
そんなとき、ひとつのニュースがもたらされた。
杏里がジャズの世界を引退するという。
最後のステージを聴きに行った私は――。
連載 「カサブランカ」の歌姫 ファイル-5 立川杏里〈8〉

最初から読みたい方は、こちら から、前回から読みたい方は、こちら からどうぞ。
「Soyer」が店を閉じたのは、その翌年だった。シャンソンパブ「ソワイエ」とジャズクラブ「カサブランカ」は、再び袂を分かって、それぞれ、赤坂のメインストリートから姿を消した。
「ソワイエ」は、自由が丘の駅近くに小ぢんまりとした店を構えて営業を開始し、地元住民にはなかなか評判がいいらしい、というウワサを聞いたが、私は一度も足を向けたことがない。
「カサブランカ」は、六本木の外れに旧「Soyer」時代の半分ほどのスペースを借りて再出発したが、マスターの鈴原正一郎はほどなくしてガンに倒れ、店は、バンマスだった田村元さんが引き継ぐことになった。
立川杏里のホームグラウンドだった「BLUE」も、やり手だったママがやはりガンに倒れて、店は閉鎖が決まった。しかし、行き場を失った常連の客たちは、資金を出し合って、大塚に「トワイライト」という店を出し、「禁酒バンド」のメンバーもそのまま、新しい店のレギュラー・バンドとして出演を続けることになった。
客が10~15人も入ればいっぱいになる小さな店。杏里は、演奏の合間にはカウンターの中に入って、客の飲み物を用意したり、つまみを作ったりした。そこは、店というより、ジャズ好きが集まる隠れ家のようなものだった。
立川杏里は、そんな隠れ家に咲いた一輪の百合の花だった。香り豊かに、しかし驕ることなく、フレンドリーに、しかしだれにも手折られることなく、気高く咲くリリー。客たちは、そんな杏里という灯台に引かれるように、その小さな店に集まってきた。
そんな日々が、1年、2年……と続いた。
しかし、3年目、「禁酒バンド」を率いていた金野丈が、患っていた肝臓を悪化させてこの世を去った。それを機に、立川杏里が「トワイライト」に出演する回数も減った。
それからの杏里は、いくつかのライブハウスを選んで、月に10日ほど、スケジュールを入れる程度になった。私は、そんな中から、メンバーの構成を見ては、「こいつは聴いてみたい」と思うライブを選んで出かけるようになったが、その回数は、徐々に少なくなっていった。
「ソワイエ」は、自由が丘の駅近くに小ぢんまりとした店を構えて営業を開始し、地元住民にはなかなか評判がいいらしい、というウワサを聞いたが、私は一度も足を向けたことがない。
「カサブランカ」は、六本木の外れに旧「Soyer」時代の半分ほどのスペースを借りて再出発したが、マスターの鈴原正一郎はほどなくしてガンに倒れ、店は、バンマスだった田村元さんが引き継ぐことになった。
立川杏里のホームグラウンドだった「BLUE」も、やり手だったママがやはりガンに倒れて、店は閉鎖が決まった。しかし、行き場を失った常連の客たちは、資金を出し合って、大塚に「トワイライト」という店を出し、「禁酒バンド」のメンバーもそのまま、新しい店のレギュラー・バンドとして出演を続けることになった。
客が10~15人も入ればいっぱいになる小さな店。杏里は、演奏の合間にはカウンターの中に入って、客の飲み物を用意したり、つまみを作ったりした。そこは、店というより、ジャズ好きが集まる隠れ家のようなものだった。
立川杏里は、そんな隠れ家に咲いた一輪の百合の花だった。香り豊かに、しかし驕ることなく、フレンドリーに、しかしだれにも手折られることなく、気高く咲くリリー。客たちは、そんな杏里という灯台に引かれるように、その小さな店に集まってきた。
そんな日々が、1年、2年……と続いた。
しかし、3年目、「禁酒バンド」を率いていた金野丈が、患っていた肝臓を悪化させてこの世を去った。それを機に、立川杏里が「トワイライト」に出演する回数も減った。
それからの杏里は、いくつかのライブハウスを選んで、月に10日ほど、スケジュールを入れる程度になった。私は、そんな中から、メンバーの構成を見ては、「こいつは聴いてみたい」と思うライブを選んで出かけるようになったが、その回数は、徐々に少なくなっていった。

「ね、荻野さん、聞いた?」
そのニュースを私の耳に届けてくれたのは、本城リエだった。
「驚いたわ。杏里さん、引退するんだって」
「エーッ」と声を発したまま、私は言葉を失った。
「なんかね、もう、日本からもいなくなるらしい」
リエが言うには、立川杏里は黒人のミュージシャンと結婚して、アメリカに永住する覚悟を決めたらしい――という話だった。
その黒人ミュージシャンには心当たりがあった。
吉祥寺のライブハウスに出演しているベーシストで、杏里の歌に傾倒しているトムなんとかという男だった。そのトム某は、杏里とその亭主の話を聞いては、「ユーは、そんな男とはすぐ別れるべきだ。せっかくのユーの才能が殺されてしまう。よし、オレが話をつけてやる」と、いまにも家に談判にやって来そうな気配なので、「あわてて止めたのよ」と、杏里が笑いながら話してくれたことがあった。
もし、立川杏里に男気を見せて、アメリカ行きを決断させた男がいるとしたら、あのベース弾きしかあるまい――と、私は察しをつけた。
あの「ブランコ」の夜、私がビビってできなかったことを、その男は、やってのけたのだ。「かなわないや」と、サジを投げるしかなかった。

この日が、ジャズ・シンガー立川杏里の、日本での最後のライブという夜、私はリエと連れ立って、湯島のライブハウスへ出かけた。
たぶん、どこかで「杏里引退」の話を聞きつけたのだろう。30㎡ほどの店内は、杏里の古くからのファンたちで埋め尽くされた。
だれ言い出すともなく、その夜のライブの曲目は、ファンたちからの「あれを歌ってほしい」というリクエストに杏里が答える――という形で進められることになった。
聴きたい曲がいっぱいありすぎて、何をリクエストしていいのか迷った。
しかし、もしこの一曲を――と言うのなら、これしかない。そう思ってリクエストカードに書き込んだのは、『It Had To Be You』だった。日本語に訳すと、「キミじゃなきゃダメだったんだ」とでもいうところだろうか。1989年の映画『恋人たちの予感』で使われ、ハリー・コニック・JR、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、バーブラ・ストライザンドなどが歌った曲。そして、杏里が1stアルバムのタイトルにも使った曲だった。
歌詞を杏里の気分になって訳すと、こんな感じになるだろう。
あなたでなくちゃダメ。
あなたでなくちゃ、ダメだったの。
あちこち彷徨った挙句に見つけたの。
私を本気にさせ、寂しくさせてしまう人を。
あなたを思って悲しくなることさえうれしいと感じられる人を。

私がリクエスト・カードを渡すと、隣に座っていた古株のファンが、「ホォ、あなたもですか?」と声をかけてきた。店ではいつも、演奏の間じゅう、口三味線でトロンボーンを吹くマネをしていたりする太田なんとかという男だった。
「やっぱり、これでしょう。この曲を聴くたびに、『It had to be you』の《You》は、自分じゃないか――なんて、愚かな夢を抱いたりして……」
「あなたもですか? いやいや、男なんてのは、バカなもんですなぁ。でも、いいじゃないですか。彼女のためだったら、バカでもいいと思える、そんな女性に出会えたんだから……」
同感だった。

立川杏里は、私たちがリクエストした『It Had To Be You』を、彼女のその夜最後のステージの最後の曲に選んだ。
MCがちょっと泣かせた。
「きょうは、最後まで聴いていただいてありがとうございます。これが日本での最後の曲になりますが、なんと、10人のお客様が同じ曲をリクエストしてくださいました。たぶん……私がいちばん好きな曲です。私は、この曲を歌うたびに、思っていました。あなたでなくちゃダメっていうあなたは、きっと、みなさんの中にいる。みなさんのひとりひとりが、私にとってはこの曲で歌う『あなたでなくちゃダメ』な人たちでした。でも、私には、とうとう最後に、この人と思える『You』が現れて、日本を離れることになりました。きょうまで、私の歌を聴いてくださったみなさん、ごめんなさい。この曲でお別れです。It Had To Be You、聴いてください」
It had to be you,
It had to be you.
I wondered around and finally found the somebody who
Could make me true,could make me blue,
And even be glad just to be sad thinking of you.
ある者は体を揺らしながら、ある者はそっと目頭にハンカチを当てながら、そして太田某はいつものようにトロンボーンを吹くマネをしながら、彼女の最後の曲に聴き入った。
演奏が終わると、立川杏里はひとりひとりとハグして、私たちをエレベーターホールまで見送った。
「じゃ……」とエレベーターに乗り込もうとした私に、杏里が「あ……」と声をかけた。
「あの曲、私はもう封印するから、荻野さんに譲る」
横で、本城リエが「いいなぁ……」という顔をした。
「ファイル-5 立川杏里」は、これにて《完》です。

筆者の最新小説、キンドル(アマゾン)から発売中です。絶賛在庫中!

一生に一度も結婚できない「生涯未婚」の率が、男性で30%に達するであろう――と予測されている「格差社会」。その片隅で「貧困」と闘う2人の男と1人の女が出会い、シェアハウスでの共同生活を始めます。新しい仲間も加わって、築き上げていく、新しい家族の形。ハートウォーミングな愛の物語です。
「Kindle」は、「Amazon.com」が世界中で展開している電子本の出版・販売システム。「Kindle専用端末」があればベストですが、なくても、専用のビューアーをダウンロード(無料)すれば、スマホでも、タブレットでも、PCでも読むことができます。
下記タイトルまたは写真をクリックして、ダウンロードしてください。
2016年3月発売 定価:342円 発行/虹BOOKS
妻は、おふたり様にひとりずつ (小説)
既刊本もどうぞよろしく タイトルまたは写真をクリックしてください。



【左】『聖少女~六年二組の神隠し(マリアたちへ-2)』
2015年7月発売 定価/122円
教師のビンタが支配する教室から、突如、姿を消した美少女。卒業から40年経って、ボクはその真実を知ります。
【右】『『チャボのラブレター(マリアたちへ-1)』
2014年10月発売 定価122円
中学校の美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。
「Kindle」は、「Amazon.com」が世界中で展開している電子本の出版・販売システム。「Kindle専用端末」があればベストですが、なくても、専用のビューアーをダウンロード(無料)すれば、スマホでも、タブレットでも、PCでも読むことができます。
下記タイトルまたは写真をクリックして、ダウンロードしてください。
2016年3月発売 定価:342円 発行/虹BOOKS
妻は、おふたり様にひとりずつ (小説)
既刊本もどうぞよろしく タイトルまたは写真をクリックしてください。
2015年7月発売 定価/122円
教師のビンタが支配する教室から、突如、姿を消した美少女。卒業から40年経って、ボクはその真実を知ります。
【右】『『チャボのラブレター(マリアたちへ-1)』
2014年10月発売 定価122円
中学校の美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。

管理人は、常に、フルマークがつくようにと、工夫して記事を作っています。
みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
どうぞ正直な、しかしちょっぴり愛のこもった感想ポチをお願いいたします。



→この小説の目次に戻る トップメニューに戻る
- 関連記事
-
- 「カサブランカ」の歌姫5-8 そして、彼女はいなくなった (2017/01/30)
- 「カサブランカ」の歌姫5-7 禁酒同盟 (2017/01/21)
- 「カサブランカ」の歌姫5-6 危険なブランコ (2017/01/14)