「カサブランカ」の歌姫5-5 禁断の美酒

近くのパスタ屋に飛び込んだ。杏里は、
「一杯だけワインを飲まないか?」と言う。
それは、彼女にとって禁断の美酒。
彼女は自らこわれる道を選んだ――。
連載 「カサブランカ」の歌姫 ファイル-5 立川杏里〈5〉

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「おなかすいたわね」という杏里と、パスタ屋に入ることにした。
杏里はカルボナーラを、私はアラビアータを注文し、ふたりでサラダをひと皿とって、分け合って食べようということになった。
パスタができ上がって来るのを待っている間、杏里は、手にしたトートバッグをひざの上に乗せて、中から一冊の分厚いファイルを取り出した。
そのページをめくって、一枚の譜面を取り出すと、それを私の前に差し出した。
「これ、歌ってる?」
見ると、『Maybe You’ll Be There』とある。直訳すると、「ひょっとしたらあなたがいるかもしれない」というところだろうか。
譜面を見て、メロディを小声で口ずさみながら、詞を読んでみる。
《人込みを見るたびに、
バカみたいに立ち止まって見つめてしまうの。
そんなことあるはずもないのだけど、
そこに、あなたがいるかもしれないと思って……》
「ヘェ、初見で歌えるんだね?」
ちょっと見直したぞ、という感じで杏里が言う。
「一応、グリークラブやってたもんでね。でも、ちょっとセンチメンタルな歌だね、これ?」
「そう思う?」
「石川啄木を思い出しちゃった」
「石川啄木……? どうして?」
啄木の歌に、こういう一首がある。
《君に似し 姿を街に見る時の
こころ躍りをあはれと思へ》
どこかテイストが似ている。
それを言うと、「フーン、そんな歌を詠んでたんだ、啄木。でも、荻野さんもあれだね……」と、私を見た目が、クスリと笑ったように見えた。
「あれ……って?」
「そういう短歌を覚えてるあなたも、センチメンタルってこと」
「そう言われると、一言もない」
「別に、責めてるんじゃないよ。よかったら、持ち歌にしてほしい――と思っただけ」
「じゃ、この譜面……」
「あげる」
それは、私には、何よりも貴重な贈り物に見えた。
「ありがとう。じゃ、さっそく歌詞を覚えて、どこかで歌ってみることにする」
「どこか? 私には聴かせてくれないの?」
「あ、じゃ、筆おろしは、杏里さんのいるときにする」
「ちょうど、今週、『Soyer』にスケジュール入ってるよ」
「OK! じゃ、そのときに」
そんな話をしているとき、「お待たせしました」とパスタとサラダが運ばれてきた。
杏里はカルボナーラを、私はアラビアータを注文し、ふたりでサラダをひと皿とって、分け合って食べようということになった。
パスタができ上がって来るのを待っている間、杏里は、手にしたトートバッグをひざの上に乗せて、中から一冊の分厚いファイルを取り出した。
そのページをめくって、一枚の譜面を取り出すと、それを私の前に差し出した。
「これ、歌ってる?」
見ると、『Maybe You’ll Be There』とある。直訳すると、「ひょっとしたらあなたがいるかもしれない」というところだろうか。
譜面を見て、メロディを小声で口ずさみながら、詞を読んでみる。
《人込みを見るたびに、
バカみたいに立ち止まって見つめてしまうの。
そんなことあるはずもないのだけど、
そこに、あなたがいるかもしれないと思って……》
「ヘェ、初見で歌えるんだね?」
ちょっと見直したぞ、という感じで杏里が言う。
「一応、グリークラブやってたもんでね。でも、ちょっとセンチメンタルな歌だね、これ?」
「そう思う?」
「石川啄木を思い出しちゃった」
「石川啄木……? どうして?」
啄木の歌に、こういう一首がある。
《君に似し 姿を街に見る時の
こころ躍りをあはれと思へ》
どこかテイストが似ている。
それを言うと、「フーン、そんな歌を詠んでたんだ、啄木。でも、荻野さんもあれだね……」と、私を見た目が、クスリと笑ったように見えた。
「あれ……って?」
「そういう短歌を覚えてるあなたも、センチメンタルってこと」
「そう言われると、一言もない」
「別に、責めてるんじゃないよ。よかったら、持ち歌にしてほしい――と思っただけ」
「じゃ、この譜面……」
「あげる」
それは、私には、何よりも貴重な贈り物に見えた。
「ありがとう。じゃ、さっそく歌詞を覚えて、どこかで歌ってみることにする」
「どこか? 私には聴かせてくれないの?」
「あ、じゃ、筆おろしは、杏里さんのいるときにする」
「ちょうど、今週、『Soyer』にスケジュール入ってるよ」
「OK! じゃ、そのときに」
そんな話をしているとき、「お待たせしました」とパスタとサラダが運ばれてきた。

「どうぞごゆっくり」と行きかけたウエートレスを、杏里が「あ、ちょっと」と呼び止めた。
「ね、一杯だけ、ワイン飲まない?」
「エッ…!?」と、私は彼女の顔を見た。ワインは、彼女にとって「禁断の美酒」ではなかったのか? 心配そうな顔をしている私を見て、彼女は言った。
「一杯だけだから」
しかし、その「一杯だけ」の約束は、彼女自身の手で破られた。
「やっぱり、パスタにはワインがいいよね。ね、もう一杯だけもらわない?」
立川杏里は、自ら、こわれていく道を選んだ。
そして、私は、それを止めなかった。
彼女の目に浮かぶ光が、トロン……と解け始めた。

店を出てしばらく歩くと、公園があった。
かつては、駐車場だった場所に樹木を植え、遊具を配した公園だった。
「ブランコがあるね」と、杏里の目が輝いた。
私と杏里は、どちらからともなく公園に足を踏み入れた。
「久しぶりだなぁ……」
杏里は、ブランコの鉄の鎖を懐かしそうに撫でると、長いスカートの裾をたくし上げて、座板の上に腰を下ろし、小さく地面を蹴った。
ギーコ、ギーコ……と、ブランコが揺れ始める。
私も、隣のブランコに腰を下ろして地面をキックした。
ふたつ並んで揺れるブランコは、やがてシンクロして、少し冷んやりとする晩秋の空気の中をゆっくりとスウィングした。
「杏里さんって、だれか、探している人がいるの?」
私は、さっきから気になっていた質問を口にした。
「エッ……!?」
しばらく答えが返って来ない。いけないことを訊いたか――と思っていると、「どうして?」と小さな声がした。
「どうして、そんなこと訊くの?」
「さっき、教えてくれた歌が、そう言ってるように感じた」
「ああ、あれ……?」
小さく答えた彼女のブランコの振幅が、大きくなった。彼女の時間が、過去と現在を往復しているように見えた。
「お父さん……」
振り切れて戻って来るブランコの上から、答えが返って来た。
「エッ!?」
私は思わず、ブランコを止めた。杏里もブランコを止めた。
「お父さん、家出したんだ。私が12歳のときに」

立川杏里の父親は、九州の青果店で番頭として働いていた。杏里が12歳になった春、その父親は、忽然と家族の前から姿を消した。同じ青果店で働いていた若い女も、一緒に姿を消した。ふたりで駆け落ちしたんじゃないか――というのが、周囲のウワサだった。
それ以来、父親の消息は知れない。
「街でホームレスとか見かける度に、つい、顔をのぞき込んじゃうんだよね。もしかしたら、お父さんじゃないかって思って」
「まさに、Maybe you’ll be thereだね」
私が言うと、杏里は座板から立ち上がり、私の前に立って、私が座っているブランコの鎖をつかんで、それを揺すった。
「バカみたいでしょ、私……」
「いや、ごくまともな気持ちだと思う。あなたの祈りが通じるといいね」
杏里は小さくうなずいて、鎖をつかんだまま体の向きを変えた。
スカートの裾をひざまでたくし上げると、座板に座ったままの私の上に、ゆっくり腰を沈めてきた。
彼女は下着を着けていないように見えた。やわらかな肉の窪みが、パンツを通して私の下腹の愚かな高まりを探るように動き、その瞬間、私のそこには体中の血が集まっていった。
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2014年10月発売 定価122円
中学校の美しい養護教諭とボクの、淡い恋の物語です。

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みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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