「カサブランカ」の歌姫1-5 キスを笑う月

ところに建つホテルの前庭のことだった。
満月が照れくさそうにふたりを見ていた。
見つめ合ったまま、時間が止まった。
私はそっと、顔をチカの顔に近づけた……。
連載 「カサブランカ」の歌姫 ファイル-1 上野チカ〈5〉

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チカの言う「バークリー広場」は、駅前の歩道橋を渡った向かい側にあるらしかった。
私の腕を手でつかんで、長い足でサッサッと歩いていくので、私の歩調は、つい、速足になる。傍目には、運動の得意な娘について行くのがやっと……なお父さんにしか見えないかもしれない。
歩道橋を上がって下がると、そこは、恋人たちの待ち合わせ場所としてもよく使われる高層ホテルの前庭だった。
夜更けの前庭は、チカチカと光る街灯の中に、針葉樹の樹影を浮かび上がらせて、シン……と静まり返っていた。
刈り込まれた植栽の影が、何となく英国っぽく見えなくもない。
「ここが、バークリー広場?」
「わたし的には。だって、行ったことないし、ロンドンなんて」
「ボクもないよ。でも、ここじゃあ、ナイチンゲールは鳴かないなぁ。日本にはいないし……」
「そうなの?」
チカは、ちょっと残念そうな顔をした。
「でも、月は出てる」
「ワッ、すごい。満月じゃない」
「ちょっと、困った顔をしてるよ」
「ロンドンのお月さんみたいに?」
それは、『バークリー広場のナイチンゲール』のサビに出てくる歌詞のことを言っているのだった。
《ロンドン上空を立ち去りがたく漂っている月は、
眉をしかめて当惑顔だ。
ボクたちがこんなにも愛し合っていることなんて、
きっと、彼にはわかりっこない。》
「もっと困らせちゃおうか」
チカは意味がわからない――というふうに、いや、わかってはいるけど、どこまで本気で言っているのかわからない、という顔で私の顔を見つめた。
私も彼女のつぶらな瞳を凝視した。
見つめ合ったまま、ほんのしばらく、時計が止まった。
私の腕を手でつかんで、長い足でサッサッと歩いていくので、私の歩調は、つい、速足になる。傍目には、運動の得意な娘について行くのがやっと……なお父さんにしか見えないかもしれない。
歩道橋を上がって下がると、そこは、恋人たちの待ち合わせ場所としてもよく使われる高層ホテルの前庭だった。
夜更けの前庭は、チカチカと光る街灯の中に、針葉樹の樹影を浮かび上がらせて、シン……と静まり返っていた。
刈り込まれた植栽の影が、何となく英国っぽく見えなくもない。
「ここが、バークリー広場?」
「わたし的には。だって、行ったことないし、ロンドンなんて」
「ボクもないよ。でも、ここじゃあ、ナイチンゲールは鳴かないなぁ。日本にはいないし……」
「そうなの?」
チカは、ちょっと残念そうな顔をした。
「でも、月は出てる」
「ワッ、すごい。満月じゃない」
「ちょっと、困った顔をしてるよ」
「ロンドンのお月さんみたいに?」
それは、『バークリー広場のナイチンゲール』のサビに出てくる歌詞のことを言っているのだった。
《ロンドン上空を立ち去りがたく漂っている月は、
眉をしかめて当惑顔だ。
ボクたちがこんなにも愛し合っていることなんて、
きっと、彼にはわかりっこない。》
「もっと困らせちゃおうか」
チカは意味がわからない――というふうに、いや、わかってはいるけど、どこまで本気で言っているのかわからない、という顔で私の顔を見つめた。
私も彼女のつぶらな瞳を凝視した。
見つめ合ったまま、ほんのしばらく、時計が止まった。

チカの見開かれたままの目が、私には、少し怖かった。
瞬きひとつせずに、私の目の、その奥の色まで読み取ろうとするかのように、チカの目は、鋭い光を私の目に投げかけていた。
私は、彼女の目が放つ光線から目をそらさないようにして、静かに顔を彼女の顔に近づけた。
エサを欲しがる小鳥のヒナのようだと感じたチカの唇が、歌を歌い始める前の唇のようにちょっと突き出されて、吸い込んだブレスが流れ出すのをのどの奥が止めていた。
唇が彼女の唇のかすかな熱を感じた。
一瞬、ためらった。
見開かれたままのチカの目が、「どうするの?」と問いかけているように見えた。20歳の上野チカの、あまりにまっすぐな目の光に、覚悟のほどを問われているように思えた。
唇と唇がサワッ……と触れ合った。
しかし、閉じられたチカの唇をこじ開けはしなかった。その唇をこじ開け、粘膜と粘膜をディープに絡ませ、唾液を交換し合う――という行為は、20歳の濁りのない視線、その視線が伝えようとしているまっすぐな意志になじまないような気がした。
私は、触れ合った唇をそっと離し、その唇で彼女の鼻の頭に、そして額の中央に口づけして、顔を離した。
チカは、なおも私の顔を見つめていた。その目が「どうして?」と問いかけているようにも見えた。
「ちゃんと口説いてなかったし……」
キスするときには、ちゃんと口説いてほしい。最初にチカの歌を聴いて、「キスしたくなる唇だ」と言った私にチカが言った言葉だった。その言葉を私は、「遊びなら私に触らないで」という宣言――と受け取っていた。
「つまんないこと言っちゃったな……」
チカは、ボソリとつぶやいた。
エッ、それ、つまらないことなの……?
しかし、「じゃ、もう一度」と彼女の体を抱き寄せるなんていう不格好なことは、私にはできなかった。

たぶん、そんなふたりを、東京上空の月は、吹き出しそうになりながら見ていたに違いない。
それは、おそらく、私とチカが「TRUE」な関係になる、唯一のチャンスだった。いまなら、そう思えるが、そのときの私は、「ま、いいか」と、そのチャンスをスルーしてしまった。
それからも、私は、度々、「カサブランカ」に足を運び、その度に、私はチカとたがいの持ち歌を交換し合った。
チカは、驚くほどの速さで新しい曲を覚えていき、そのうち、私の知らない曲を歌ったりするようにもなった。
20歳の吸収力は、驚異的でもあった。
そのうち、チカは、自分の音楽仲間とユニットを結成して、ライブハウスなどで活動するようにもなった。
少しずつ、私とチカの間には、距離が生まれていった。
それを寂しいと感じる気持ちはなかった。どこかで、その成長を喜んでもいる自分がいた。
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