「カサブランカ」の歌姫1-4 バークリー広場

譜面の入った私のファイルをめくっては、
「これ、歌って」とリクエストする。その夜は、
『バークリー広場のナイチンゲール』。
歌い終わると、チカがそっとささやいた――。
連載 「カサブランカ」の歌姫 ファイル-1 上野チカ〈4〉

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「カサブランカ」には、それからも度々、足を向けることになった。
いつ行っても、客が2~4組しかいなく、心おきなく歌える――というのが、ひとつの理由だった。
もうひとつの理由。それは、上野チカだった。
「カサブランカ」には、ママの秋元百合の他に、ハウスボーカル兼ウエートレスの女の子が2人いたが、私が店に顔を出すと、決まって上野チカが席に着いた。
だれの席にだれが着くか、マスターやママが指令しているようにも思えない。たぶん、チカは自分の意思で私の席に着いているのだろう。あるいは、「荻野さんの席に着いていいか」と、自分から言い出しているのかもしれない。
席に着くと、チカは、酒を作るのもそこそこに、「見せて」と私のファイルに手を伸ばした。譜面でパンパンに膨らんだ、ずしりと重いファイルをももの上に載せて、端からめくっては、「フーン」だの「ヘェ~」だのと感嘆の声をもらす。
その姿は、絵本を与えられて夢中でページをめくる子どものようにも見えた。
そして、彼女は言うのだった。
「きょうは、これ、聴きたい」
返事を聞く間もなく、彼女はさっさとその譜面を取り出して、バンマスに渡してしまう。
それ、いまは歌いたい気分じゃないんだけど――と思っても、無視である。
しかし、そんなわがままなリクエストに振り回されていることが、どこか、心地よくもあった。まるで、口うるさく、小生意気な娘に振り回されるオヤジのように、「やれやれ……」と思いながら、私は、チカの気ままなリクエストに応じた。
チカが私に「歌って」と求めるのは、こういう店にやって来る客が知らないか、好んで歌おうとはしないレアな曲、そして、ゲストで入るボーカルも滅多に歌わない曲だったりする。もしかしたら、自分のレパートリーに加えたいと思っているのかもしれない。
歌を趣味とする人間にとって、自分が発見してレパートリーに加えた曲にだれかが興味を示し、「自分も歌いたい」と思ってくれることは、たいていの場合、うれしいことのひとつだ。「譜面が欲しい」と言われれば、喜んでコピーした譜面を渡す。
チカは、私にとって、そういう音楽仲間のひとりになりつつあった。
いつ行っても、客が2~4組しかいなく、心おきなく歌える――というのが、ひとつの理由だった。
もうひとつの理由。それは、上野チカだった。
「カサブランカ」には、ママの秋元百合の他に、ハウスボーカル兼ウエートレスの女の子が2人いたが、私が店に顔を出すと、決まって上野チカが席に着いた。
だれの席にだれが着くか、マスターやママが指令しているようにも思えない。たぶん、チカは自分の意思で私の席に着いているのだろう。あるいは、「荻野さんの席に着いていいか」と、自分から言い出しているのかもしれない。
席に着くと、チカは、酒を作るのもそこそこに、「見せて」と私のファイルに手を伸ばした。譜面でパンパンに膨らんだ、ずしりと重いファイルをももの上に載せて、端からめくっては、「フーン」だの「ヘェ~」だのと感嘆の声をもらす。
その姿は、絵本を与えられて夢中でページをめくる子どものようにも見えた。
そして、彼女は言うのだった。
「きょうは、これ、聴きたい」
返事を聞く間もなく、彼女はさっさとその譜面を取り出して、バンマスに渡してしまう。
それ、いまは歌いたい気分じゃないんだけど――と思っても、無視である。
しかし、そんなわがままなリクエストに振り回されていることが、どこか、心地よくもあった。まるで、口うるさく、小生意気な娘に振り回されるオヤジのように、「やれやれ……」と思いながら、私は、チカの気ままなリクエストに応じた。
チカが私に「歌って」と求めるのは、こういう店にやって来る客が知らないか、好んで歌おうとはしないレアな曲、そして、ゲストで入るボーカルも滅多に歌わない曲だったりする。もしかしたら、自分のレパートリーに加えたいと思っているのかもしれない。
歌を趣味とする人間にとって、自分が発見してレパートリーに加えた曲にだれかが興味を示し、「自分も歌いたい」と思ってくれることは、たいていの場合、うれしいことのひとつだ。「譜面が欲しい」と言われれば、喜んでコピーした譜面を渡す。
チカは、私にとって、そういう音楽仲間のひとりになりつつあった。

「カサブランカ」にいつも女連れでやって来る客がいた。来れば、いつも女の肩を抱き寄せては、何やら口説いてでもいるように見える。その男が、珍しくピアノの横に立った。
どうやら歌うつもりでいるらしい。その様子を見て、チカが吐いて捨てるように言った。
「また、あれ?」
「あれ」というのは、歌う曲のことだ。毎度、同じ曲を聞かされて「もう、飽きた」というふうにも聞こえる。
そこへ、イグアナ顔のマスター・鈴原正一郎がやって来て、「荻野さん、あの上原さんってさ……」と声を潜めた。
「世が世なら、A社の社長になるはずの人だったのよ」
「A社」と言えば、洋酒業界最大手の大企業だ。その社長一族の御曹司として誕生したのだが、不幸なことに生まれたのは双子で、しかも、自分のほうが先に母親の胎内から世に出て来てしまった。双子の場合、民法の決まりで、先に生まれてきたほうが「弟」と判断される。結局、社長の座を継いだのは、後から出てきた兄のほうだった。
上原氏は、泣く泣く――かどうかは知らないが、どこかの商社に就職して、サラリーマンとして生涯を過ごすことになった。
その上原氏の十八番は、『アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ラブ』だ。というより、それしかまともに歌える曲がないらしい。
「見ててごらん、あの人、歌うときには、右足をひょいと上げるから。面白いのよぉ」
なぜかおねェ言葉を使うマスターが指さす先で、上原氏は、ピアノに右手を置いて上体を支え、右足のひざから下をヒョイと折って後方に持ち上げている。その姿は、電柱に小便をひっかけるときの犬のようでもあり、「ねェ、ママ」と何かをおねだりをする幼い子どものようでもある。
それがおかしくて、フフッ……と笑っていると、横からマスターが言う。
「すねてんのよね、あの人。社長になれなかったから」
そう言うマスターのおねェ言葉も、相当に気味がわるいと思った。

上野チカは、上原某をあまり好んでないように見えた。
「社長になれなかったぐらいで、すねんじゃねェよ」
おねェ言葉のマスターを横目に、小さな声でつぶやく。その言葉の調子が強く、するどいことに、私は「おや…?」と思った。「どうしたの?」という感じで顔をのぞき込むと、チカは私の耳元に口を寄せて言うのだった。
「私のことも口説いたんだよ、あの男」
なるほど、そういうことか。しかし、チカが上原氏を嫌うのは、単に口説かれたから――というだけではなかった。
「オレは、世が世なら、A社の社長になっていた男だぞって言うんだよね。バッカじゃないの? こっちは、世が世なら、人間以下の存在だったんだゾ。文句があるか――つーんだ」
チカの怒りの正体が、そのとき、何となくわかった。そして、その生い立ちの秘密も。
上原氏の歌が終わると、「さ、気分直そう」と、チカは私の手を引いた。
その夜のチカのリクエストは、『バークリー広場のナイチンゲール』だった。あまりジャズっぽい曲ではない。どちらかと言うと、英国っぽいと感じさせる端正な曲で、メロディラインも美しい。
たぶん、上原氏の『アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ラブ』の後の「お口直し」には、こういう曲がいいだろうという選曲だったのに違いない。

歌っているのは、アニタ・オデイ。
1コーラス=38小節に5小節のエンディングが付いた、少し長い曲。歌い終えると、チカが拍手で迎えてくれ、そして言うのだった。
「こういう曲って、歌う人を選ぶよね」
「エ……?」
「ロングトーンをきれいに歌える人でないと無理。でも、朗々と歌いすぎちゃう人じゃ、詩情を表現できないし……」
「キミにも合うんじゃないの」
「勉強しま~す」
ふざけるように言った後で、チカは私のひざをポンと叩いて言った。
「きょうは最後までいてくれるでしょ?」
「カサブランカ」の閉店は、午前2時だ。もう、終電は出た後なので、何時までいても同じだ。「ああ、いるよ」と答えると、チカは「よかった」と答えた。
「帰りに、バークリー広場に寄って行こうか。いいでしょ?」
一瞬、私には、その意味がわからなかった。
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