「カサブランカ」の歌姫1-3 キスしたくなる唇

チカの唇を、私は「かわいい」と思った。
「キスしたくなるような唇だね」と言うと、
チカは言うのだった。「したくなったら、
ちゃんと口説いてね」――。
連載 「カサブランカ」の歌姫 ファイル-1 上野チカ〈3〉

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「小鳥が歌ってるようだったよ」
歌い終わって席に戻って来たチカに言うと、チカは、ポカンと口を開けた。
「ハ……? 意味わかんないし……」
「小さな口を目いっぱい開けて歌う姿が、ツバメのひなみたいでかわいかった」
「何だ、そっちか。小さいんだよね、私の口」
「でも、そういう口、キスするとおいしいんだって」
「フーン」と言って私の顔を一瞥する。しかし、怒ったというふうでもない。
「させないよ、そんなこと言っても」
「残念……」
「もしかして、したい――って思った?」
「いつかは……ね」
しばらく返事がない。やっぱり、怒ったのかもしれない――と思っているところへ、ママの秋元百合がやって来た。
「どう? よかったでしょ、チカちゃんの歌?」
「心の毒が、全部、洗い流されたような気がしましたよ」
「あら、そんなに毒が溜まってたんですか?」
「腹の中、真っ黒」
「やだぁ!」と、チカが飛びのく。
「それじゃ、チカちゃんの歌をいっぱい聴かなくちゃね」
「でも、私、そんなにレパートリー多くないんですよね。面目ない」
「面目」なんて言葉を若い子が使うことが、少し、面白かった。
歌も渋いが、言葉遣いも渋い。この女の生い立ちを知りたいと思った私が、「キミって……」と言いかけたとき、それより先に、チカが「ね……」と口を開いた。
歌い終わって席に戻って来たチカに言うと、チカは、ポカンと口を開けた。
「ハ……? 意味わかんないし……」
「小さな口を目いっぱい開けて歌う姿が、ツバメのひなみたいでかわいかった」
「何だ、そっちか。小さいんだよね、私の口」
「でも、そういう口、キスするとおいしいんだって」
「フーン」と言って私の顔を一瞥する。しかし、怒ったというふうでもない。
「させないよ、そんなこと言っても」
「残念……」
「もしかして、したい――って思った?」
「いつかは……ね」
しばらく返事がない。やっぱり、怒ったのかもしれない――と思っているところへ、ママの秋元百合がやって来た。
「どう? よかったでしょ、チカちゃんの歌?」
「心の毒が、全部、洗い流されたような気がしましたよ」
「あら、そんなに毒が溜まってたんですか?」
「腹の中、真っ黒」
「やだぁ!」と、チカが飛びのく。
「それじゃ、チカちゃんの歌をいっぱい聴かなくちゃね」
「でも、私、そんなにレパートリー多くないんですよね。面目ない」
「面目」なんて言葉を若い子が使うことが、少し、面白かった。
歌も渋いが、言葉遣いも渋い。この女の生い立ちを知りたいと思った私が、「キミって……」と言いかけたとき、それより先に、チカが「ね……」と口を開いた。

「荻野さんは、歌はやらないんですか?」
「歌? 歌なら、いつも歌ってるよ。フロに入ってる間も歌ってるし、歩きながらも歌ってるし……。あ、でもね、歩きながら歌うのは、もう止めた」
「どうして……?」
「追突されちゃうから」
「エーッ、追突? クルマに?」
「いや、人に」
上野チカと秋元百合が、「ハ……?」というふうに顔を見合わせた。謎解きにはいささか時間がかかりますが――とふたりの顔を見ると、「教えて」というふうに目が輝いている。ようがす、教えましょうと口を開いた。
「たとえば、オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリートなんぞを歌いながら、軽快なテンポで歩いているとしましょうか。そうね、歌舞伎町の裏通りあたりを」
「もっと、サニー・サイドな通りがいいわ」と、チカが口をとがらせる。
「じゃ、銀座通り。その華やぐ通りを軽快なミディアム・テンポで歩いていた私でありますが、やがて、曲が終わります。次は、マイ・ファニー・バレンタイン」
「いきなり、スローバラードですか?」
「歩調も、スローに変わります。その瞬間に、ガシャーン!」
「エッ。追突……?」
「何も知らず、私を信じてすぐ後ろを歩いていた無辜の通行人が、避けきれずにぶつかって、チッと舌を鳴らす。舌を鳴らすぐらいならいいけど、ヘタするとケガさせてしまうかもしれない。いけない、こんなことで人を傷つけてしまっては――とね、深く反省したわけですよ」
「バッカみたい」と、チカがあきれたような声を出した。
「歩いてるときぐらい、同じテンポをキープしてればいいじゃないですか?」
「それじゃあ、アルバムの構成として、変化がないでしょ?」
「ハイ、ハイ。それで……?」とチカが言う。
「きょうは、どっちを歌ってくれるんですか?」
「エッ!? 歌わせるの、客に?」
「そこまで話してて、歌わない――って寸法はないでしょ」
横から、秋元百合が口を添えた。
「この店は、歌えるお客さんには、歌ってもらうんですよ。ひまな日は、特に」
そう言えば――と見回すと、店内にいるのは、私の他にはカップルの客が1組いるだけだった。そのカップルは、何やら話に夢中になっているが、どうもその雰囲気は、音楽談義を交わしているというふうでもない。
好きだな、こういう店――と、私は思った。

「歌え」と言われたんじゃ、いい加減には歌えない。
ママにたのんで、預けたバッグを持ってきてもらい、中から、譜面の入ったクリアファイルを取り出した。いつでも歌えるようにと、自分のキーに書き直した譜面が、常時80~100曲分はファイルしてある。その分厚さに、ママもチカも「ワオッ!」と目を剥いた。
その中から1曲を取り出した。
チカのバラードの後なら、これくらいのテンポがいいだろう――と取り出したのは、『バット・ノット・フォー・ミー』だった。
彼らは愛の歌を書いているけど、私のためじゃない。
頭の上には、幸運の星。
でも、それも私のためじゃない。
愛のお導きに従ったところで、
ロシア悲劇も真っ青な、
灰色の雲が見つかるだけさ。
ガーシュイン兄弟が作詞・作曲したジャズ・スタンダード。それをミディアム・テンポで2コーラス歌って、サックス⇒ピアノ⇒ベースと1コーラスずつ回し、最後にもう1コーラス歌って、エンディングは最後の4小節をリピート。静かにマイクを置くと、サックスの西原さんが拍手しながら握手を求めてきた。
それが、私の「カサブランカ」デビューだった。

――トランペット奏者、チェット・ベイカーが、1955年にオランダで行った演奏のライブ盤。
(トランペット演奏と歌がチェット・ベイカー)
席に戻ると、チカも「イエーイ!」と、握手を求めてきた。
その手が、ほんのり汗ばんでいた。
「聴いてて、力、入っちゃった」と、照れくさそうに言う。
「確かに、黒い雲、湧いてましたね」
「腹の中から吐き出させてもらいました」
「すっきりした……?」
「ウサは晴れた」
「あのね……」と、その目が私の目をのぞき込み、それから床に落ちる。もう一度、意を決したように上げた顔が、ちょっと真剣だった。
「さっきの返事」
「エッ、何だっけ?」
「荻野さんがしたい――って言ったことの……」
「オゥ、あれか……」
「ちゃんと口説いてください。そしたら……」
私とチカは、そのときから、単なる「クラブの女」と「客の男」ではなくなった。少なくとも、精神的には――。
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みなさんのひと押しで、喜んだり、反省したり……の日々です。
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