「カサブランカ」の歌姫1-1 忠誠心のない女

カビ臭い店内に設置されたピアノとドラム。
ママらしい女性に紹介されたのは、「チカ」と名乗る
ジャズ・シンガーの卵だった。ズケズケとモノを言う
その性格に、私は好感を持った……。
連載 「カサブランカ」の歌姫 ファイル-1 上野チカ〈1〉
扉を開けると、いきなり、サックスのビロードのような音が、体に絡みついてきた。
ベーベーという平べったい音ではない。
ヴフォーッとはらわたを震わせ、シュフーッとむせび泣く。
いい音出してるなぁ――と店内に足を踏み入れると、「いらっしゃいませ」と声がした。
赤いワンピースのフレアをスラリとした脚にまとわりつかせた女が、「あら…?」というふうに、私の顔を見た。その後ろから、ヌッ……と顔を出した生きものがいた。
一瞬、イグアナか――と思った。しかし、イグアナではなかった。あばただらけの顔と、狭い額。目が狭い額の上方につりあがった顔が、一瞬、イグアナに見えただけだった。
「初めてなんですが……」
恐る恐る店内の様子を探りながら言うと、男は、エサを見つけたイグアナのように目を吊り上げ、喉をヒクリと動かした。
「どなたかの紹介ですか?」
「いや、ジャズの店でネットを検索していて見つけたので、フラッと寄ってみたんですが……」
「それは、それは、光栄です。あの……何か、おやりになるんですか?」
「エッ、何か――って?」
「何か楽器をおやりになるとか……」
「あ、いや……私は、不調法なもので、そういうのは……」
何か楽器をやるのか――と尋ねるのは、客がミュージシャンであるかどうかを確かめるためだろう。
こういう店の場合、ミュージシャンには、特別の料金が設定されていることが多い。通常、2500~3500円ぐらいで設定されている「ミュージック・チャージ」を、ミュージシャンだと「ロハ=ただ」にする。飲んだ酒と食べたつまみの料金だけで飲み食いができるようにしている。
そうして、ミュージシャンが気軽に飲みに来て、たまに演奏に加わってくれたりすれば、店にも活気が生まれる。そういうことを期待しての、「ミュージシャン料金」だ。
私はその頃、趣味でジャズ・ボーカルをやっていた。そこらへんの駆け出しのボーカルよりは、よほど曲も知っているし、うまく歌えるという自負もあったが、それをことさらに言い立てる気はしなかった。
ベーベーという平べったい音ではない。
ヴフォーッとはらわたを震わせ、シュフーッとむせび泣く。
いい音出してるなぁ――と店内に足を踏み入れると、「いらっしゃいませ」と声がした。
赤いワンピースのフレアをスラリとした脚にまとわりつかせた女が、「あら…?」というふうに、私の顔を見た。その後ろから、ヌッ……と顔を出した生きものがいた。
一瞬、イグアナか――と思った。しかし、イグアナではなかった。あばただらけの顔と、狭い額。目が狭い額の上方につりあがった顔が、一瞬、イグアナに見えただけだった。
「初めてなんですが……」
恐る恐る店内の様子を探りながら言うと、男は、エサを見つけたイグアナのように目を吊り上げ、喉をヒクリと動かした。
「どなたかの紹介ですか?」
「いや、ジャズの店でネットを検索していて見つけたので、フラッと寄ってみたんですが……」
「それは、それは、光栄です。あの……何か、おやりになるんですか?」
「エッ、何か――って?」
「何か楽器をおやりになるとか……」
「あ、いや……私は、不調法なもので、そういうのは……」
何か楽器をやるのか――と尋ねるのは、客がミュージシャンであるかどうかを確かめるためだろう。
こういう店の場合、ミュージシャンには、特別の料金が設定されていることが多い。通常、2500~3500円ぐらいで設定されている「ミュージック・チャージ」を、ミュージシャンだと「ロハ=ただ」にする。飲んだ酒と食べたつまみの料金だけで飲み食いができるようにしている。
そうして、ミュージシャンが気軽に飲みに来て、たまに演奏に加わってくれたりすれば、店にも活気が生まれる。そういうことを期待しての、「ミュージシャン料金」だ。
私はその頃、趣味でジャズ・ボーカルをやっていた。そこらへんの駆け出しのボーカルよりは、よほど曲も知っているし、うまく歌えるという自負もあったが、それをことさらに言い立てる気はしなかった。

「ご案内します」と言われて足を踏み入れた店内には、一面に赤いカーペットが敷き詰められていた。元は、鮮やかな赤だったのかもしれないが、すでに色は褪せ、繊維の表面は擦り切れ、あちこちに飲み物のこぼれたシミが広がっている。
タバコの臭いの染み込んだフロアは、少し、カビ臭い。古いジャズクラブというのは、たいていそんな臭いがする。そんな臭いに浸っているのも、わるくはない。
20坪ほどはあるだろうか。壁に沿って「コ」の字にソファが設置され、2人分に1脚ずつ、小さなテーブルが置かれ、そのテーブルの前に丸形のスツールが2脚ずつ並べられていた。
「コ」の字の正面がステージになっている。左にグランドピアノ、右にドラムセット、中央にマイクスタンドが配置されていた。
フーン、通常は、トリオで演奏するのか。ドアを開けたときにはサックスの音が聞こえていたから、たまに管が加わってカルテットになることもあるのだろう。
席に案内してくれた赤いワンピースの女が、横に座って「飲み物はどうしますか?」と尋ねてきた。
バーボンを頼むと、「ターキーかハーパーならありますけど……」と言う。「では、ターキーを」と頼んで、キッチンに向かう女の後ろ姿を目で追った。
歳は、30代半ばを少し過ぎた……というあたりだろうか。ワンピースのフレアの裾をフワフワと揺らしながら歩く姿が、どこかあか抜けている。
ほどなく、トレーにターキーのボトルとアイスペールとミネラルウオーターのボトルを載せた彼女が、シャナリ、シャナリと腰を振りながら戻って来た。今度は、ひとりではなかった。彼女よりひと回りは若いと思われる女の子を連れてきて、私の隣に座らせた。
「彼女、チカちゃんて言います。ボーカルの卵で、この店で歌の勉強がてら働いてもらってるんですよ。後で歌わせますから、聞いてやってくださいね」
チカと紹介された女の子は、「よろしくお願いします」と頭を下げて、グラスに氷を入れ、あまりうまくない手つきでバーボンを注ぐと、ミネラルを加えてカラカラとマドラーでかき混ぜた。
背の高い、スラリとした女の子だった。小さな顔の真ん中に、つぶらな瞳がチョコンとついている。決して美人というタイプではなかったが、どこか、アニメの主人公を思わせる愛嬌のある顔立ちが、かわいいと言えばかわいい。
赤いワンピースの女は、彼女が私の酒を用意するのを見届けると、「じゃ、チカちゃん、お願いしますね」と、席を立った。

「いまの人がママ?」
チカと紹介された女の子に尋ねると、ウン……と首がタテに動いた。
「あのイグアナみたいな人は?」
顔で入口のほうをしゃくって見せると、彼女は一瞬、「エッ…?」という顔をして、それから「ウケる」と目をほころばせた。
「マスターのこと?」
「あ、あの人がマスターなの?」
「一応、そういうことになってるみたいよ」
「イチオウ……?」
「ときどきいなくなっちゃうから。つか、突然、店を閉めちゃうし……」
「エッ、突然? それって……」
「コレ」と、チカは親指と人差し指で「○」を作って見せた。
「カサブランカ」というその店は、あまり堅実な経営ではない――ということなのだろう。それにしても……と、私は思った。
「キミ、口が軽いんだね」
「忠誠心ないですから」
この女、面白い――と思った。
「忠誠心ない――って人だから、ついでに訊くんだけどさ、じゃ、あのママは、マスターの愛人か何か?」
「タイプなんですか?」
「どうして?」
「そういうことを訊く人って、その女が気になるってことでしょ?」
「単なる知的興味」
「フーン。じゃ、答えちゃうか。あのママ、そんなに趣味わるくないですよ」
「つまり、タイプじゃないってこと?」
「ああいう男がタイプ――って女、まずいないと思いますよ」
ズカズカとモノを言う態度が、どこか心地よく感じられた。
上野チカ。20歳。元アングラ劇団員。
それが、私とチカの出会いだった――。
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