人は、死んでも「復活」する? それとも「生まれ変わる」?

人は死んだらどうなるのか?
世界には、2通りの考え方があります。
「死んでも復活する」という考えと「生まれ変わる」という考え。
どっちもイヤという人は、どうすればいいのでしょう?
世界には、2通りの考え方があります。
「死んでも復活する」という考えと「生まれ変わる」という考え。
どっちもイヤという人は、どうすればいいのでしょう?
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人は、死んだらどうなるのか?
この問題については、世界には、大きく分けると、2通りの考え方があります。
ひとつは、「復活する」という考え方です。
「アブラハム系」と呼ばれる、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界では、人は、死んでも、「最後の審判」に呼び出され、そこで天国に行くか地獄に落ちるかが決定される――とされてきました。
この「地獄行き」があまりに恐ろしいので、ユダヤ教やイスラム教を信仰する人たちは、戒律を守って救われようとします。イスラム教の一部には、「神のために命を落とせば、天国に行ける」と教え込んで、「自爆行為」などに走る若者を養成しようとする宗派もあります。
「復活」の際には、死者はそのボディごと呼び出される――と考えられていましたから、これらのアブラハム系宗教では、「火葬」を嫌います。火葬してしまうと、「復活するボディ」がなくなるからです。
「天国に行く」は、「永遠の命を得る」と同義、と考えていいと思います。
しかし、そのためには「戒律を守らなくてはいけない」とするユダヤ教やイスラム教とキリスト教とでは、少し、その道筋が違っています。
なぜ、キリスト教徒は「断食」しないのか?
みなさんは、たぶん、キリスト教徒が、戒律を守るために「断食」したり、豚肉を食べないでいたり、アルコールを口にしないでいる……なんていう姿を、見たことなどないだろうと思います。私も、見たことがありません。
それは、なぜか?
イエスという人物が現れて、それまでの考え方をガラリと変えてしまったからです。
イエス以前のユダヤ教の教えの中では、「復活」の前提となる「最後の審判」では、人は、どんな罪を犯してきたかによって裁かれ、「天国行き」と「地獄行き」が分別されるとされていました。その「罪」の軽重を判断するのは、「律法学者」と呼ばれるユダヤ教の指導者たちでした。
なにしろユダヤの律法には、全部で613もの戒めが定めてあります。これを、一般の民がすべて覚えて、履行するなんてことは、不可能に近い。そこで、律法学者たちが「これはいい」「これはダメ」と判定することになるわけですが、イエスは、そんな律法主義に真っ向から異を唱えました。
「人は律法によって救われるのではない。神の愛によって救われるのだ」というのが、イエスの思想の根本でした。
この問題については、世界には、大きく分けると、2通りの考え方があります。

「アブラハム系」と呼ばれる、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界では、人は、死んでも、「最後の審判」に呼び出され、そこで天国に行くか地獄に落ちるかが決定される――とされてきました。
この「地獄行き」があまりに恐ろしいので、ユダヤ教やイスラム教を信仰する人たちは、戒律を守って救われようとします。イスラム教の一部には、「神のために命を落とせば、天国に行ける」と教え込んで、「自爆行為」などに走る若者を養成しようとする宗派もあります。
「復活」の際には、死者はそのボディごと呼び出される――と考えられていましたから、これらのアブラハム系宗教では、「火葬」を嫌います。火葬してしまうと、「復活するボディ」がなくなるからです。
「天国に行く」は、「永遠の命を得る」と同義、と考えていいと思います。
しかし、そのためには「戒律を守らなくてはいけない」とするユダヤ教やイスラム教とキリスト教とでは、少し、その道筋が違っています。

みなさんは、たぶん、キリスト教徒が、戒律を守るために「断食」したり、豚肉を食べないでいたり、アルコールを口にしないでいる……なんていう姿を、見たことなどないだろうと思います。私も、見たことがありません。
それは、なぜか?
イエスという人物が現れて、それまでの考え方をガラリと変えてしまったからです。
イエス以前のユダヤ教の教えの中では、「復活」の前提となる「最後の審判」では、人は、どんな罪を犯してきたかによって裁かれ、「天国行き」と「地獄行き」が分別されるとされていました。その「罪」の軽重を判断するのは、「律法学者」と呼ばれるユダヤ教の指導者たちでした。
なにしろユダヤの律法には、全部で613もの戒めが定めてあります。これを、一般の民がすべて覚えて、履行するなんてことは、不可能に近い。そこで、律法学者たちが「これはいい」「これはダメ」と判定することになるわけですが、イエスは、そんな律法主義に真っ向から異を唱えました。
「人は律法によって救われるのではない。神の愛によって救われるのだ」というのが、イエスの思想の根本でした。
人は、生まれながらに罪を背負っている。
私たちは、みな、ひとしく罪びとなのである。
にもかかわらず、神は、そんな私たちを愛してくださる。
その神の愛を信じるならば、人は、永遠の命を得るであろう。
そのためにイエスは、人間の罪すべてを背負って十字架にかかり、その罪を贖う――という方法をとりました。
そのイエスが「復活」したと描かれているのは、「神の愛を信じれば、こうしてあなたたちも永遠の命を得られるんだよ」と示すためでもあった――と言えるだろう、と私は思っています。


仏教の世界では、「輪廻転生(りんねてんしょう)」と言われたりしますが、実はこれは、仏教の思想ではなく、仏教の元となった「バラモン」の教えです。
バラモンの教えでは、人は、死んでも、また新しい肉体を得てこの世に生まれ変わる……ということを、永遠に繰り返すとされています。
生まれ変わるのは、何も、人間とは限りません。獣や虫に生まれ変わる(=畜生道)こともあれば、地獄に堕ちる(=地獄道)こともあり、逆に天界に昇る(=天道)こともあります。
これを「六道(りくどう)」と言うのですが、どんな世界に生まれ変わるかは、生前の行い(カルマン=業)によって決まります。善い行いを積めば善い世界に、悪い行いを重ねれば悪い世界に生まれ変わります。現世で苦しい思いをするのは、「前世の報い」というふうに、「輪廻転生」的な世界観の中では考えられています。
どんな世界に生まれ変わるかを決めるのは、みなさんご存じの閻魔大王(インドでは「ヤマ」と呼ばれます)です。
死んでから閻魔大王の審判を受けるまでの期間は、「49日」。これを「中陰(ちゅういん)」と言います。言ってみれば「裁判を待つ未決期間」のようなものです。
仏教とともに、この話は日本にも伝えられて、これにさらに細かなディテールが加わります。(←詳しくは下図参照)

日本では、この「49日」の「未決期間」を「冥途」とも言いますが、その49日間の間に、なんと、全部で7回もの審判を受けます。
死後7日目に「最初の審判」を受けると、その先に「三途(さんず)の川」が待ち受けています。最初の審判で「善人」と判断された人間は、橋を通って渡れますが、「悪人」と判断されると、浅瀬を歩いて渡らなければならず、「極悪人」と判断されると、濁流の中を泳いで渡らなくてなりません。
死後の世界もラクではありません。
後の時代になると、この「三途の川」に「渡し舟」というものが登場します。その渡し舟の「渡し賃」が「六文」。棺桶に六文銭が入れられるようになったのは、死者が無事、「三途の川を渡れますように」という願い込めての風習だったわけです。
そうしてやっと「三途の川」渡ると、そこは「賽(さい)の河原」と呼ばれる場所。そこには老婆が待ち受けていて、死者の衣服をはぎ取り、その重さを量ります。重いほど、生前の罪も重いと判断されます。
こういう裁きを何度も受けて、49日目にやっと、どの世界に転生するかが決まる。
「四十九日」の法要というのは、「中陰」=「冥途の旅」が終わって、死者の行き先が決まったことを確認する儀式――と言ってもいいかと思います。

それにしても、こんな生まれ変わりを何度も繰り返すなんていうのは、ちょっと大変。
古代のインドの人たちは、「この世」を「苦界」ととらえていました。「輪廻転生」とは、その「苦界」に何度も生まれ変わるということです。
できることなら、そんな繰り返しからは逃れたい。この繰り返しから逃れることを「解脱(げだつ)」と言いました。
どうすれば「解脱」できるか?
「バラモン」では、「真理」を悟ることによって「解脱」できると説きました。
釈迦は、「苦の原因である煩悩を取り除き、涅槃(ねはん)の境地に至れ」と説きました。
日本で発展した仏教各派も、それぞれに、「解脱」に至る方法を説いています。「成仏」も、「往生」も、「解脱」して浄土に迎え入れられることを指す言葉ですが、その方法は、宗派によって違います。
厳しい修行を経て、初めて「往生」がかなうと説く宗派もあれば、「(仏の慈悲を)信じてすがれば、往生が定まる」と説く宗派もあります。
方法は違うものの、いったん浄土に迎え入れられると、もう二度と生まれ変わることはありません。
仏として仏国王土に迎えられ、永遠の命を生きることになるわけです。
さて、「復活」がいいか、「生まれ変わり」がいいか?
どっちにも「裁判」がつきものですが、その「裁判」から逃れるための宗教も存在する。
私は、「裁判」は苦手なので、お裁きなしの「救い」を求めたいと思います。
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