「耳から入った言葉」は消せても、「口から出た言葉」は消えない

人がその一生を終えるとき、最後まで残るのは、
「言葉」です。耳から入ってきた言葉は、いい言葉も、
わるい言葉も、消してしまうことができます。しかし、
口から出た言葉は、そうはいきません――。
「言葉」です。耳から入ってきた言葉は、いい言葉も、
わるい言葉も、消してしまうことができます。しかし、
口から出た言葉は、そうはいきません――。
メンタル エロ 恋愛観 男の心理 女の心理 官能小説
人がその一生を終えるとき、最後まで残るのは何だろう?
ときどき、そんなことを考えます。
いくらモノがあっても、お金があっても、そんなものは、ただの消え物。とても「ファイナル・カーテン(最後の一幕)」を豊かに彩ってくれるとは思えません。
この世で果たしてきた実績も、功績も、栄誉も、最後には、砂の上の足跡のように、風に吹かれ、波に洗われて、消されてしまいます。
では、残るものは何か?
私は、「言葉」だと思っています。
「言葉」というのは、自分と世界、自分と他者をつなぐ「関係性」だと言ってもいいかもしれません。
私たちの「生」は、その「関係性」の結果として始まり、
その「関係性」を残して消えていく。
人生とはそういうものだ――と、私は確信しています。
その「言葉=関係性」が「貧弱」だと、人生も貧弱なまま、幕を下ろすことになります。
「言葉=関係性」が豊かであれば、豊かな心のまま、「ああ、よかった」と幕を下ろせます。
その「言葉」には、2種あります。
ひとつは、他者から発せられて、あなたの耳に飛び込んでくる言葉。
もうひとつは、あなたから発せられて、他者の耳に飛び込んでいく言葉です。
《いい言葉》と《わるい言葉》のリスト
人がその一生を「ああ、よかった」と言って終えるか、それとも「ひどい人生だった」と言って終えるか――は、生涯を通じて、どんな言葉を受け取ってきたか、どんな言葉を発してきたかによって決まる。そう言ってもいいかと思います。
人がその耳で受け取ったり、口から発したりする言葉には、《いい言葉》 もあれば 《わるい言葉》 もあります。
何が《いい言葉》で、何が《わるい言葉》か?
それは人それぞれで、おそらくだれしも、心の中にそのリストを持っているのだろうと思います。
ちなみに、私のリストは、以下のとおりです。
ときどき、そんなことを考えます。
いくらモノがあっても、お金があっても、そんなものは、ただの消え物。とても「ファイナル・カーテン(最後の一幕)」を豊かに彩ってくれるとは思えません。
この世で果たしてきた実績も、功績も、栄誉も、最後には、砂の上の足跡のように、風に吹かれ、波に洗われて、消されてしまいます。
では、残るものは何か?
私は、「言葉」だと思っています。
「言葉」というのは、自分と世界、自分と他者をつなぐ「関係性」だと言ってもいいかもしれません。
私たちの「生」は、その「関係性」の結果として始まり、
その「関係性」を残して消えていく。

人生とはそういうものだ――と、私は確信しています。
その「言葉=関係性」が「貧弱」だと、人生も貧弱なまま、幕を下ろすことになります。
「言葉=関係性」が豊かであれば、豊かな心のまま、「ああ、よかった」と幕を下ろせます。
その「言葉」には、2種あります。
ひとつは、他者から発せられて、あなたの耳に飛び込んでくる言葉。
もうひとつは、あなたから発せられて、他者の耳に飛び込んでいく言葉です。

人がその一生を「ああ、よかった」と言って終えるか、それとも「ひどい人生だった」と言って終えるか――は、生涯を通じて、どんな言葉を受け取ってきたか、どんな言葉を発してきたかによって決まる。そう言ってもいいかと思います。
人がその耳で受け取ったり、口から発したりする言葉には、《いい言葉》 もあれば 《わるい言葉》 もあります。
何が《いい言葉》で、何が《わるい言葉》か?
それは人それぞれで、おそらくだれしも、心の中にそのリストを持っているのだろうと思います。
ちなみに、私のリストは、以下のとおりです。

・「ありがとう」「お陰さま」「感謝」。
・「愛する」「好き」。
・「誠実」「謙虚」「寛容」。
・「尊敬」「大事」「憧憬」。
・「一生懸命」「努力」「不屈」。
――など。

・「くたばれ」「死ね」「呪う」。
・「裏切る」「ウソ」「欺瞞」。
・「ねたむ」「うらやむ」「誹謗」「中傷」。
・「嫌悪する」「忌避する」「逃げる」。
・「欲張る」「強欲」「傲慢」「利己的」。
――など。
たぶん、人生を終える時期がやって来たら、私は自分の人生を振り返って、そういう言葉を受け取ったかどうか、そういう言葉を他人に向けて発したかどうかを、振り返ってみるだろうと思います。
キリスト教でも、イスラム教でも、そして仏教でも、死の前には、その人の「罪」を問う場面(=「最後の審判」という考え方です)が想定されていますが、そこで問われるのも、そうした言葉を発したかどうか、発してはいなくても心の内に抱いたかどうか――ではないかと思います。
最後に残るのは「言葉」――と申し上げたのは、そういう意味です。

さて、そうしてこの身に受ける、あるいはこの身から出る言葉の数々を、私はどう処理しているか――と言うと、原則は、ごく単純です。

⇒日々、聞き流しているので、墓場まで引きずる心配もありません。

⇒しまい込むのは奥のほうなので、「心の宝物」にはなるけれど、いちいち取り出してひけらかしたりはしない。

⇒意識してないので、記憶することもない。人から「××と言ってくれた」と言われても、「ヘェ、そんなこと言ったっけ?」としか思わない。

⇒これをやっておかないと、その言葉は、墓場まで引きずってしまうことになる。
私の場合は、上記のような処理をふだんから心がけているのですが、もし、その言葉の処理を間違えて日々を過ごしていたら、どうなるでしょう?
たとえば――。
〈1〉耳から入って来る 《わるい言葉》 を、聞き流せずに、脳の長期記憶フォルダーに書き込んでしまったら?
私の脳の中は、消し去れない《わるい言葉》でいっぱいになり、それはやがて、「憎悪」や「怨念」という感情に凝縮されていって、最後には、私は、この世や周囲の人間たちを「ガッデム!」と呪いながら、命を終えることになるかもしれません。
〈2〉耳から入って来る 《いい言葉》 に、「感謝」のシーズニングを施さずに、聞き流してしまったら?
それが「賞賛」や「高評価」などの言葉であれば、聞き流してもいいのですが、「愛ゆえに発せられた言葉」であった場合、それを聞き流してしまうと、私は、感謝すべき人たちに感謝する術を知らないまま、人生に幕を下ろしてしまうことになります。
〈3〉口から出る 《いい言葉》 に自ら満足して、それを「功績」として脳の中に蓄えてしまったら?
自らの《いい言葉》に「自己満足」していたら、人は、それを周囲にひけらかそうとしたり、尊大な態度をとったりするようになります。もしかしたら、そんな私は、地上の生を終える直前まで、「自分はこんなに立派に生きた」を主張しようとして、周囲から「偽善者」と思われてしまうかもしれません。←聖書には、こんな言葉があります。「右の手がしていることを左の手に知らせるな」
〈4〉口から出る 《わるい言葉》 を、出しっぱなしでたれ流しにしたら?
どんなに気をつけていても、人は、《わるい言葉》をその口から発してしまうことがあります。それを「よくないことを言った」と気づかないまま、一生を過ごしてしまったら、私は、罪の意識に苛まれたまま最後のときを迎えるか、自分の罪を知らないまま、「最後の審判」の法廷に引き立てられることになるでしょう。
どれもイヤなので、私は、《いい言葉》も《わるい言葉》も、耳から入って来たり口にしたりしたその瞬間に、極力、処理を施してしまうようにしているわけです。
しかし、それでも、処理しきれずに、人生の終盤まで残ってしまう「言葉」があります。

処理しきれずに、人生を終えようとするそのときまで引きずってしまう言葉。
もっともやっかいなのが、「自分の口から出た 《わるい言葉》 」です。なぜ、引きずってしまうかと言うと、それが《わるい言葉》である――と、口にしたそのときには気づいてないことが多いからです。
後で「わるいことを言った」と気づいても、そのときにはもう手遅れ、ということも多いかと思います。
しかし、自分が口にした《わるい言葉》は、何とか清算しておかないと、私は、往生できません、あるいは、天国に行けません。
「ああ、いい人生だった」と言って人生を終えるためにも、何とかしなくちゃいけません。
もし、その《わるい言葉》を吐いた相手が、いまも会うことのできる相手であれば、生きているうちに、「あのときは、ほんとうにすまなかった」と詫びて、許しを請おう――と思います。
もし、会うことがかなわない相手であれば、その言葉は、神前なり仏前なりで懺悔して、赦しを乞う。場合によっては、巡礼の旅にでも出て、贖罪を願う。
これをやっておかないと、たぶん、私は、「取り消したい言葉」のリストを抱えたまま、罪深い一生を終えてしまうことになります。
耳から入って来たほうの言葉はどうなのか?――と言うと、これは、自分の脳の中での処理ですむことですから、万が一、《わるい言葉》が頭の奥にこびりついていたとしても、「よし、すべて、チャラにしよう」ですむことです。
しかし、口から出た言葉は、相手に受け取られてしまっているわけですから、自分だけの脳内処理では、その言葉の毒を消すことはできません。
つまり「贖罪」が必要になる――というわけです。
「耳が受け取った言葉」は放っておいてもいいけど、
「口が発した言葉」は放っておいてはいけない。
私は、そう思います。
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