荒野のバラと谷間のユリ〈23〉 野良ネコの旅の流儀

バラの花束名前も知らない、だれも来ない宿で、
ボクたちは束の間の休暇を過ごすことにした。


合併号が出て、1週間の休みが取れることになった。
「どこか行こうか?」と言い出したのは栞菜だった。
しかし、予定を組んだ旅はしたくない、と言う。
ブラリと電車に飛び乗ったボクたちは――。



 連載小説/荒野のバラと谷間のユリ ――― 第23章 
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ここまでのあらすじ 大学を卒業して、できたばかりの出版社「済美社」に入社したボク(松原英雄)は、配属された女性雑誌『レディ友』の編集部で、同じく新卒の2人の女子編集部員、雨宮栞菜、戸村由美と出会う。感性の勝った栞菜と、理性の勝った由美は、何事につけ比較される2人だった。机を並べて仕事する由美は、気軽に昼メシを食べに行ける女だったが、栞菜は声をかけにくい相手だった。その栞菜を連れ回していたのは、年上のデスク・小野田宏だった。栞菜には、いつも行動を共にしている女がいた。右も左もわからずこの世界に飛びこんだ栞菜に、一から仕事を教え込んだ稲田敦子。そのふたりに、あるとき、「ヒマ?」と声をかけられた。ついていくと、そこは新宿の「鈴屋」。「これ、私たちから引っ越し祝い」と渡されたのは、黄色いホーローのケトルとマグカップだった。その黄色は、ボクの部屋に夢の形を作り出す。そんなある夜、小野田に飲みに誘われた栞菜が、「松原クンも行かない?」と声をかけてきた。元ヒッピーだと言うママが経営するスナックで、ボクは小野田が、かつては辺境を漂白するバガボンドだったことを知らされる。その帰り、バガボンド小野田は、「一杯飲ませろ」と、ボクの部屋にやって来た。小野田は、黄色いマグカップでバーボンを飲みながら、自分の過去を語った。漂流時代にアマゾンを探検中、後輩を水難事故で死なせてしまったというのだった。やがて、年末闘争の季節がやって来た。組合の委員長・小野田は、「スト」を主張。書記のボクと副委員長の相川は、それをセーブにかかった。しかし、会社の回答は、ボクたちの予想をはるかに下回った。その回答を拒否することが決まった翌日、栞菜は部長たちと夜の銀座へ出かけ、由美はボクを夜食に誘って、「ストはやらないんでしょ?」とささやいた。女たちは、ほんとは、「スト」なんか望んではいないのだ。そんな中で開かれた第二次団交は、何とか妥結にいたり、栞菜の発案で、彼女と由美、ボクと河合の若者4人組で、祝杯を挙げることになった。その夜、珍しく酔った栞菜の体がボクの肩の上に落ちた。飲み会がお開きになると、稲田敦子と栞菜がボクの部屋を「見たい」とやって来た。「眠くなった」と稲田が奥の部屋に消えたあと、「飼いネコになりなよ」と発したボクの言葉に、栞菜は頭をすりつけ、唇と唇が、磁石のように吸い寄せられた。その翌々週、ボクたちは忘年会シーズンに突入した。珍しく酔った由美を送っていくことになったボクに、由美は、「介抱してくれないの?」とからんできた。一瞬、心が揺らいだが、酔った由美を籠絡する気にはなれなかった。その翌日、編集部に顔を出すと、小野田がひとりで荷物をまとめていた。「もう、この会社は辞める」と言うのだった。「荷物運ぶの手伝ってくれ」と言われて、蘭子ママの店に寄ると、小野田が言い出した。「おまえ、何で由美をやっちまわなかった?」。ママによれば、小野田にもホレた女がいたらしい。しかし、小野田は女から「タイプじゃない」と言われてしまったと言う。その女とは? 小野田が消えた編集部で、栞菜がボクに声をかけてきた。「ワインとパンがあるの。ふたりでクリスマスしない?」。ボクは栞菜を部屋に誘った。自分からセーターを脱ぎ、パンツを下ろした栞菜の肌は、磁気のように白かった。その体に重なって、初めて結ばれた栞菜とボク。週末になると、栞菜は、パンとワインを持ってボクの部屋を訪ねてくるようになった。彼女が持ち込む食器やテーブルウエアで、ボクの部屋は、栞菜の夢の色に染められていく。しかし、その夢の色は、ボクの胸を息苦しくもした。そんなとき、栞菜を慕う河合金治が、編集部で他の編集部員を殴った。1週間後、河合は会社に辞表を出した。もしかしてその責任の一端はボクにもあるのか? 胸を痛めるボクに河合が声をかけてきた。「ボクが辞めるの、キミが想像しているような理由じゃないからね」。小野田も河合もいなくなった編集部に、4月になって新人が2人、配属されてきた。うち1人が、高級婦人誌出身の高島。相川は、その高島を「エゴイスト」と断じ、「あれは危険な男だ」と言う。栞菜は、高島を「トノ」と呼んだ――




 4月の末には、また、合併号を出すことになった。
 合併号が出れば、最大1週間の休みを取ることができる。しかし、その期間は、所属する班の締切帯によって微妙にズレる。ボクと雨宮栞菜の休暇は、3日間だけ、重なることになった。
 「どこか行きたいね」と言い出したのは、栞菜のほうだった。
 「じゃ、伊豆にでも行こうか? どこか静かな宿でも探して……」
 ガイドブックを引っ張り出そうとするボクの手を、栞菜が止めた。
 「案内書どおりの旅って、あんまり好きじゃないんだ。そういうのじゃなくて、ブラッ……と、アテもなく出かけるのがいいわ」
 「目的も定めず? 予定も立てずに?」
 「そうよ……」
 やっぱり、野良ネコだ――と思っていると、「じゃ……」と栞菜が腰を上げた。
 「行きましょうか?」
 「ちょ……ちょっと待って。荷物とかあるし……」
 「荷物なんて要らない。お財布とハンカチだけあればいいわよ」
 何の計画も立てず、ただ、気の向くままに。それが、野良ネコ流の旅のスタイルらしかった。ボクは、その流儀に従うことにした。

        

 落合の駅から電車に乗った。
 中野でJRの快速に乗り換えて、終点まで行ってみようか――ということになった。東の終点まで行ってもしょうがないので、西の終点まで行くことにした。
 見慣れた退屈な街並みが徐々にまばらになり、まばらになるにつれて、ボクたちの日常が一枚また一枚と剥ぎ取られていく気がした。
 終点の高尾に着くと、「もうちょっと先まで行ってみようか?」と、どちらからともなく言い出し、ボクたちは、中央本線の各駅停車に乗り換えた。
 乗客もまばらな車両の窓際の席に座って、車窓に迫る山肌やその山肌を縫うように流れる渓流を眺めているうちに、やっと「旅をしている」という気持ちになった。
 「だれも知らないような駅で降りて、だれも来ないようなひなびた宿に泊まって、温泉に浸かりたいわ」
 車窓の風景を眺めながら、栞菜が言う。
 それは、ボクたちを支配する日常のシステムから逃れてしまいたい――という、栞菜の心の叫びのようにも思えた。「ガイドブックが紹介しないような旅」は、そんな心の叫びが求めた希望だったのだろう。
 「ワインの里」として知られる駅を出ると、電車は長いトンネルに入った。トンネルを抜けると、山間に少し開けた盆地に出る。駅名には「塩山」とあった。
 「降りてみようか」と言い出したのは、栞菜だった。
 落合を出たのが昼過ぎ。陽はすでに西の空に傾きかかっていた。まごまごしていると、どこに泊まるにしても、晩飯にありつけなくなってしまう。
 いかに「野良ネコ流」とはいえ、そこらをブラついて宿を探すというわけにはいかないぞ――と思いながら、構内を見回すと、「観光案内所」という文字が目に飛び込んできた。
 「あそこで訊いてみよう」と、栞菜の手を引いた。
 案内所にいたのは、どこかの役所を定年退職したような初老の男性だった。
 「どこか、静かでひなびた感じの宿を探してるんですが……」
 「ひなびた感じ……ねェ。おふたりで泊まられるんですか?」
 男は、老眼鏡らしい眼鏡の縁を鼻柱の上にずらして、上目遣いにボクたちの顔を見た。まるで、ふたりの関係を探られるているようで、少し居心地がわるい。
 「あの……できれば、温泉が使えて、近くを渓流が流れているとか、そういうのがいいんですけど」
 横から栞菜が注文をつけた。野良ネコのくせに注文が細かい。
 「それなら……」と、男が帳面を繰った。
 「ここなんかいいかもしれんですなぁ。たぶん、空いてると思うんですが、この時期ですからねェ。ちょっと、訊いてみましょうか?」
 「お願いします」
 栞菜が間髪を入れずに頭を下げたのが、ちょっと意外だった。
 「ああ、こちら、駅前の案内所ですがね。ええ、いまこちらに、若いお客さんが2名見えて、お部屋を探しておられるんですが、ええ、男女です。あ、そうですか。じゃ、ご案内していいですか? あ、名前。えーと……」
 「松原です。松原英雄と栞菜です」
 ボクの返事を聞いて、栞菜がクスッ……と笑った。

        

 バスもあるけど、本数が少ない。次の便は1時間後だ――と言われて、タクシーを拾うことにした。
 「私たち、夫婦になっちゃったのね?」
 タクシー乗り場に向かいながら、栞菜がボクの腕を突いた。
 「しょうがないでしょ。旅館では宿帳に名前を書かなくちゃいけないんだから。別々の名前で泊まると、いろいろ詮索されてしまうし……あ、でも、不満だった?」
 「そんなことないわ。ちょっとドキッとしただけ」
 駅前でヒマそうに客待ちしていたタクシーに手を挙げて、「裂石温泉の××荘」と告げると、「あ、大菩薩峠の登山口にあるやつですね」と言われた。
 「ヘーッ、大菩薩峠はそんなところにあるんですか?」
 「時間があれば、登ってみたらいいですよ。いまの時期なら、富士山も一望できて、けっこう気分いいですよ」
 ちょっと意外な発見だった。大菩薩峠は、かつて時代小説『大菩薩峠』の舞台ともなり、赤軍派が軍事演習をやってニュースになった場所でもあった。その登山口近くにひっそりと建つ温泉旅館。タクシーの運転手によれば、どちらかと言えば年配の客に愛される旅館で、若いカップルがやって来ることは珍しいと言う。
 すっかり、物珍しい客とされてしまったボクたちは、山道を縫うように走る国道411号(青梅街道)を右に折れ、左に折れして、目的の宿に着いた。
 山懐に抱かれるように建った「××荘」は、ちょっと秘密めいたたたずまいの旅館だった。
 そばを流れる渓流から、サラサラという水の音が聞こえてくる。上を見上げると、大菩薩連峰のなだらかな稜線が連なって見える。駅の案内所で見つけたにしては、わるくないチョイスのように思えた。
 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 旅館の主人らしい男が玄関で迎えてくれた。
 「あの、お荷物は?」と尋ねられて、ボクは「あちゃ……」と思った。
 栞菜に「荷物なんて要らないわよ」と言われて、財布とハンカチだけの軽装で出かけて来たが、それは、旅館側からすると、警戒を要する客でもある。「無銭宿泊でもされるんじゃないか?」「まさか心中ではあるまいか?」などと、余計な警戒心を起こさせてしまうからだ。
 しょうがないので、言い訳した。
 「ブラッと出かけて来てしまったので、手ぶらなんですよ。何なら、前金置いておきましょうか?」
 主人は、それには「いや、けっこうです」と手を振って、「いいですねェ、お若い方たちは身軽で」と、意味ありげな笑みを浮かべた。

        

 食事まで1時間ほど時間があった。
 「その前に、お風呂に入っちゃおうか」と言い出したのは、栞菜だった。
 その手が浴衣を手にしているのを見て、「エッ……!?」と思った。栞菜は、社員旅行のときにも、頑として浴衣にはならなかった。「浴衣になりなよ」と周りの男たちにすすめられても、「浴衣、嫌いなの」とジーンズで通すような女だった。その栞菜が浴衣を手にして、ボクに言うのだった。
 「松原クンも、浴衣になれば? それじゃリラックスできないでしょ?」
 「いいけど、キミ、浴衣なんて……」
 「けっこう好きだよ。男と旅に出て、ふたりで浴衣着て……っていうの、一度、やってみたかったの。ちょっとセクシーじゃない、そういうシチュエーション?」
 「でも、社員旅行じゃ……」
 「いまは、社員旅行じゃないわ」
 ボクは、まだ、この野良ネコを「飼いネコ」にできてない――と思った。
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