荒野のバラと谷間のユリ〈19〉 彼女の元の飼い主

バラの花束情事の余韻の中、手なずけようとなぞるボクの指を、
野良ネコは、甘噛みした。


初めて結ばれた栞菜とボク。しかし、ボクは、
彼女を「所有した」という実感を得られないでいた。
彼女の胸の中には、学生時代から慕い続ける男の、
拭いきれない幻影が棲んでいた――。



 連載小説/荒野のバラと谷間のユリ ――― 第19章 
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この話は連載19回目です。最初から読みたい方は⇒こちらから、
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ここまでのあらすじ 大学を卒業して、できたばかりの出版社「済美社」に入社したボク(松原英雄)は、配属された女性雑誌『レディ友』の編集部で、同じく新卒の2人の女子編集部員、雨宮栞菜、戸村由美と出会う。感性の勝った栞菜と、理性の勝った由美は、何事につけ比較される2人だった。机を並べて仕事する由美は、気軽に昼メシを食べに行ける女だったが、栞菜は声をかけにくい相手だった。その栞菜を連れ回していたのは、年上のデスク・小野田宏だった。栞菜には、いつも行動を共にしている女がいた。右も左もわからずこの世界に飛びこんだ栞菜に、一から仕事を教え込んだ稲田敦子。そのふたりに、あるとき、「ヒマ?」と声をかけられた。ついていくと、そこは新宿の「鈴屋」。「これ、私たちから引っ越し祝い」と渡されたのは、黄色いホーローのケトルとマグカップだった。その黄色は、ボクの部屋に夢の形を作り出す。そんなある夜、小野田に飲みに誘われた栞菜が、「松原クンも行かない?」と声をかけてきた。元ヒッピーだと言うママが経営するスナックで、ボクは小野田が、かつては辺境を漂白するバガボンドだったことを知らされる。その帰り、バガボンド小野田は、「一杯飲ませろ」と、ボクの部屋にやって来た。小野田は、黄色いマグカップでバーボンを飲みながら、自分の過去を語った。漂流時代にアマゾンを探検中、後輩を水難事故で死なせてしまったというのだった。やがて、年末闘争の季節がやって来た。組合の委員長・小野田は、「スト」を主張。書記のボクと副委員長の相川は、それをセーブにかかった。しかし、会社の回答は、ボクたちの予想をはるかに下回った。その回答を拒否することが決まった翌日、栞菜は部長たちと夜の銀座へ出かけ、由美はボクを夜食に誘って、「ストはやらないんでしょ?」とささやいた。女たちは、ほんとは、「スト」なんか望んではいないのだ。そんな中で開かれた第二次団交は、何とか妥結にいたり、栞菜の発案で、彼女と由美、ボクと河合の若者4人組で、祝杯を挙げることになった。その夜、珍しく酔った栞菜の体がボクの肩の上に落ちた。飲み会がお開きになると、稲田敦子と栞菜がボクの部屋を「見たい」とやって来た。「眠くなった」と稲田が奥の部屋に消えたあと、「飼いネコになりなよ」と発したボクの言葉に、栞菜は頭をすりつけ、唇と唇が、磁石のように吸い寄せられた。その翌々週、ボクたちは忘年会シーズンに突入した。珍しく酔った由美を送っていくことになったボクに、由美は、「介抱してくれないの?」とからんできた。一瞬、心が揺らいだが、酔った由美を籠絡する気にはなれなかった。その翌日、編集部に顔を出すと、小野田がひとりで荷物をまとめていた。「もう、この会社は辞める」と言うのだった。「荷物運ぶの手伝ってくれ」と言われて、蘭子ママの店に寄ると、小野田が言い出した。「おまえ、何で由美をやっちまわなかった?」。ママによれば、小野田にもホレた女がいたらしい。しかし、小野田は「タイプじゃない」と言われてしまったと言う。その女とは? 小野田が消えた編集部で、栞菜がボクに声をかけてきた。「ワインとパンがあるの。ふたりでクリスマスしない?」。ボクは栞菜を部屋に誘った。自分からセーターを脱ぎ、パンツを下ろした栞菜の肌は、磁気のように白く、マシュマロのように柔らかかった。ボクは、その体に重なった――




 手に入るとは思わなかったものが、手の中にスルリ……と滑り落ちてきた。
 しかし、自分は、ほんとうにそれを手にしたのか?
 くったりと横たわって、目を瞬かせている栞菜の白い肌は、いま、そこで起こったことが、まるで現実ではなかったかのように、透明に輝いている。
 ボクたちは、ボクたちのもっとも秘めやかな筋肉と筋肉をこすり合わせ、おたがいの体があふれさせる蜜とクリームをブレンドさせた。
 それは、平凡な言い方をすると、「体がひとつになった」ということだ。
 しかし、ボクには、どうしても「ひとつになった」という実感がない。
 ひとつになった結果、栞菜の何かを「所有した」という、確かな実感を得られない。
 実感を得たくて、ボクは、指で栞菜の輪郭をたどった。
 額にかかった髪を撫で上げて、耳輪の後ろに掻き上げ、額から眉間へ、眉間から鼻柱へ、鼻柱から上唇へ――と、人差し指を這わせると、栞菜はくすぐったそうに、ボクの指に顔をこすりつけてきた。
 「少しは飼い猫の気分になった?」
 「ウン……」というふうに、栞菜は頭をタテに動かし、それから唇に当てたボクの指を甘噛みした。
 やっぱり、ネコ科だ――。
 ボクは、噛まれた指を彼女の口から逃して、それを彼女の目の前でヒラヒラさせた。その指を捕えようと、栞菜の口が空中を泳ぐ。
 どこかで「申し訳ない」と思いながら、他愛のない遊戯に耽るその時間を、ボクは幸せだ――と感じた。

        

 「聞いてもいいかな?」
 ネコじゃらしに飽きたらしい栞菜のあごに手を添え、その顔を上向きにして、丸く見開かれている目に問いかけた。
 「何……?」
 「キミの前の飼い主のこと」
 「いないよ」
 稲田敦子から「彼女には、学生時代から追いかけている男がいる」と聞いていたので、その返事は、ちょっと意外だった。
 「でも、キミには……」
 「ああ……シュンくんのこと?」
 「ヘェ、シュンくんって言うんだ?」
 「飼い主じゃないよ。飼い主にはなってくれなかったわ」
 「ほんとは飼ってほしかったんだね?」
 黙って、一回、まぶたを閉じた。
 肯定するけど、それについては、詳しくは話したくない。
 栞菜の目がそう言っているように見えた。しかし、栞菜は自分から口を開いた。
 「私には、女としての思想を感じないんだって」
 「彼にそう言われたの?」
 うなずく顔が、少し、悲しそうに曇った。
 栞菜が追いかけた男は、同じK大の仏文科に籍を置く文学青年。涼やかな顔で熱く思想を説くような男だったという。
 栞菜は、彼が説く深い言葉に心をえぐられ、いつしか彼に女として認められたい――と思うようになった。
 女としては認められた。デートも重ねる関係になり、恋人同士がするようなことは、たいてい、するような関係にはなった。しかし、男は、彼女を生涯を共にする関係としては選ばなかった。
 男は、卒業すると、大手新聞社に就職して、記者として仕事をする道を選んだ。卒業後も、「男と女」としての関係は続けていた。できることなら、「結婚したい」と願っていた栞菜だったが、あるとき、男から決定的な言葉を告げられる。
 「いい女だとは思うけれど、キミとは、人生を共にする思想が共有できない」
 諦めきれないまま、栞菜は「済美社」の就職試験を受け、雑誌編集者の道を選んだ。
 いまも、栞菜の胸には、男への思慕がくすぶったままひそんでいる。稲田敦子がボクに「待ってあげられるか?」と訊いたのは、その思慕が灰になってしまうのを待てるか、という意味だったのに違いない。

        

 栞菜の家は、多摩川のほとりで土建業を営んでいた。最盛期には、従業員10人近くを抱える、ちょっとした実業一家だった。
 栞菜は、そんな家に長女として生まれた。きょうだいは、上に兄がひとり。周りじゅうおとなの男ばかりというのが、栞菜が少女期を過ごした環境だった。
 「カンナちゃんのおしめは、オレが取り替えたんだゾ」というおとなが、周りにゴロゴロいた。中には、「変な男が近づいてきたら、オレがブッ飛ばしてやる」などと息巻く男もいる。
 そんな世界で幼少期を過ごした栞菜の中では、2つの相反する性向が形成されていった。
 一方では、年上のたくましい男に惹かれてしまうという野生性。その一方では、そうしたたくましさや粗野さをうとましいと感じてしまう性質。雨宮栞菜という女は、その2つの相矛盾する性質の間で、振り子のように揺れていた。
 「そのシュンくんを、お父さんやお兄さんに会わせたこと、あるの?」
 「一度だけ……」
 「どうだった?」
 「二度と会おうとはしなかったわ」
 「どっちが?」
 「どっちも……」
 一方は、「なんだ、この粗野な人たちは」と思い、他方は「なんだ、この青白い野郎は」と思って、決して交わることがなかっただろう会合。その光景が、目に浮かぶようでもあった。
 「それは……残念だったね」
 ボクには、そうとしか言えなかった。
 そう言いながら、ボクの胸の中には、ひとつの不安もあった。
 もし、自分がそういう場面に立つことになったら――という不安だった。
 「そうなったらどうしよう?」と思っていると、栞菜がボクの顔をのぞき込むようにして言った。
 「ダイジョーブよ。いますぐ、お父さんに会って――なんて言わないから」
 「でも……」と、その後で栞菜は続けた。
 「松原さんだったら、いいお父さんになりそうだね?」
 その瞬間だった。
 ボクの背中を、言いようのない恐怖心が這い上がってきた。
 その恐怖心の正体はわからなかった。
 しかし、ボクは必死で、その恐怖心を栞菜から隠した。
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