チュンリーの恋〈18〉 搭乗ゲートへ消えたひと

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カメラマン・荒川から自由になるために、いったん中国へ帰る
という春麗を、彰男は成田まで送っていった。その姿が、
搭乗口から消えてしまうまで、愛の力を信じて―― 


 マリアたちへ   第19話 
チュンリーの恋〈18〉

 前回までのあらすじ  粟野隆一のオフィス開設祝いに出席した末吉彰男は、粟野から「末吉さんの後輩ですよ」と、ひとりの女性を紹介された。名前を劉春麗。彰男の母校・Y大を留学生として卒業し、いまは、マスコミで仕事する機会を探しているという。「いろいろ教えてやってください」と粟野に頼まれて、「私でよければ」と名刺を渡すと、すぐに電話がかかってきた。春麗は、日本の雑誌や新聞で、日中の架け橋になるような仕事がしたいと言う。そのためには、完全な日本語表記能力が求められる。その話をすると、「ラブレターでも書いてみましょうか?」と春麗は言った。そのラブレターは、すぐ届いた、完璧な日本語で。これならいける。彰男は春麗を、月刊経済誌の編集をしている原田に紹介することにした。原田は、春麗の顔を見ると、「恋人はいるんですか?」と、いきなりセクハラな質問を浴びせた。「日本では、仕事をするのに、ああいうことを訊くんですか?」と、怒っている様子の春麗だったが、「験しに記事を一本、書いてみて」という原田の要求に、応えるつもりらしかった。その原稿の出来栄えに、原田は「いいね、彼女」と相好を崩した。その「いいね」には、別の「いいね」も含まれていた。「彼女、男をそそるんだよね」と言うのだ。その夜、春麗に電話をかけた彰男は、春麗の様子がおかしいことに気づいた。彼女のそばには、男がいる。彰男は確信したが、その男がどんな男なのか、想像がつかない。翌日、春麗から電話が入った。「きのうはごめんなさい。きょうは私にごちそうさせてほしい」と言うのだった。春麗が案内したのは、遠い親類がやっているという北京ダックの店だった。春麗の遠縁にあたるという店のオーナー・劉学慶に、「チュンリーをよろしく」と頭を下げられて店を出た彰男に、春麗は腕を絡めてきた。その腕を引っ張って、通りを右へ左へと急ぐ春麗。その口から意外な言葉が飛び出した。「私、見張られている」。翌週、粟野がひとりの男を連れて編集部に売り込みに来た。カメラマンの荒川タケル。初めて春麗をモデルとしてデビューさせた男だと言う。その写真は、男性誌のグラビア用の水着写真だった。数日後、春麗の初記事が『東亜タイムス』に掲載された。原田と彰男は春麗を誘って祝宴を挙げた。その席で、ふたりに料理を取り分けてくれる春麗の姿が、彰男と原田には新鮮に感じられた。「とても、あんな水着写真を撮らせていた女の子には見えない」。原田のひと言に、春麗の顔が固まった。その水着写真をどこで見た? 彰男が詰め寄ると、原田は「何だ、知らなかったの?」という顔でノートPCを立ち上げた。開いたのは、カメラマン・荒川の個人サイト。その作品集の中に、スケスケの水着を着た春麗の写真があった。あわててPCのフタを閉じる春麗。「もし無断で載せてるのなら、削除を要求できるよ」と言う原田に、春麗は力なく首を振った。2週間後、突然、春麗から「時間ありますか?」と電話が入った。待ち合わせに指定してきた場所は、日暮里のスカイライナーの改札。まさか…と顔を曇らせる彰男に、春麗は「最後の晩餐でも」と言う。「あそこにしませんか?」と指差したのはホテルだった。春麗の希望で、晩餐はルームサービスになった。片手で食事しながら、もう一方の手でおたがいを求め合うふたり。その春麗の体に、彰男は幾筋も残る赤い内出血の跡を見つけた。それは、だれかに鞭打たれた跡のように見えた。「忘れさせて」と言う春麗の体をベッドに寝かせ、手をその下半身に伸ばすと、彼女の体はウサギのように震え出し、彰男のペニスを迎え入れると、今度は、ネコのようにツメを立て、体をしならせた。「自由になりたい」――歓喜に体を震わせた春麗が言う。その春麗が告白した。「部屋の鍵を持っている男がいる」と。その男は、まだ学生だった春麗に「モデルになってくれないか」と近づいてきたカメラマン・荒川だった。男性誌のグラビアで「キャンパスの美女」を紹介する写真を撮っていた荒川は、言葉巧みに春麗を誘い、無料で住んでいいからと部屋を与え、モデルの世界に誘い込んだ。それがワナとも知らず、春麗はその誘いに乗った。最初は、ブラウスのボタンを2つ、3つ外す程度の写真だったが、それが水着になり、下着になり、そして、ついには、裸になった。裸の春麗を撮りながら、荒川は春麗の体に手を伸ばし、最後には、SEXまで求めるようになった。「別れたい」と言うと、荒川は、「おまえの恥ずかしい写真をバラ撒くゾ」と、春麗を脅す。もう逃げるしかな。決意した春麗は弁護士に事情を話し、その指示に従って、脅す荒川の言葉をICレコーダーに録音した。後日、弁護士がその録音を突きつけると、荒川の顔が青ざめた。春麗は、やっと荒川の手から自由になった――

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このシリーズは、筆者がこれまでに出会ってきた思い出の女性たちに捧げる「ありがとう」の短編集です。いま思えば、それぞれにマリアであった彼女たちに、心からの感謝を込めて――。


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この話は、連載18回目です。この小説を最初から読みたい方は、こちらから、
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 首筋に、規則正しく当たる風を感じた。
 その規則正しいリズムは、風を送り出す臓器が、何の乱れもなく作動していることを示していた。
 口にかかった寝乱れた髪が、その息にフワリと吹き上がっては吸い寄せられ……を繰り返している。
 彰男は、その髪を指でつまんで、そっと耳の後ろに掻き上げると、ベッドから体を起こした。
 10時45分発、北京行き。
 その便に乗るためには、そろそろ起きて支度をしなくてはならないだろう。
 シャワーを浴び、歯を磨き、顔を洗って、ベッドルームに戻ると、春麗は枕を抱えてまだ寝息を立てていた。

 「10時45分発、北京行きにご搭乗のお客様、ご搭乗口へお急ぎください」
 耳元に口を寄せて空港アナウンスを真似た口調でささやきかけると、春麗は、いきなり、ガバッと体を起こした。
 状況が呑み込めないのか、「エッ、ここはどこ……?」というふうに、あたりをキョロキョロと見回している。
 「出発ロビーですよ、お客様」
 「エッ……?」
 振り向いた春麗は、彰男の顔を見ると、「なんだ……」という顔をして、シーツを体に巻きつけ、再び、ベッドに倒れ込む。
 プクリと盛り上がった尻をまる出しにしたまま突っ伏して、また眠りに入ろうとする。その姿は、どこかあばずれっぽくもあり、かわいくもあったが、そういうことをしている場合ではない。彰男は、その尻をピシャリと打って、今度は、「ヘイ! ゲラップ・ベイビー!」と、鬼軍曹のような声を挙げた。
 それで、春麗は渋々起き上がって、目をこすりながら、「アイアイサー」と敬礼のマネをした。
 裸のまま、尻を振り振り、シャワールームへと向かう春麗を見ながら、彰男は思った。
 この女と暮らすと、毎朝がこうなるのか?
 やれやれ……とため息をつきながら、それもわるくないな――と思った。

       

 スカイライナーの改札まで来ると、春麗は、「じゃ、ちょっとの間、お別れね」と、キャリーバッグの引き手に手をかけた。
 そのとき、彰男の頭の中で、不意に、だれかの声がした。
 このまま行かせていいのか――という声だった。
 「ちょっと待って」と声をかけて、彰男は切符売り場に走った。
 成田までの特急券を買うと、怪訝な顔をしている春麗の元へ走り寄って、「さ、行こうか」と、キャリーバッグの引き手を春麗の手から奪った。
 「エッ、どうしたの? ちょ……ちょっと待って」
 春麗は、慌ててその後を追いかけてくる。
 「ボクも成田まで行く」
 「そんな……いいよ。私、すぐ戻ってくるから」
 「すぐ……って、どれくらい?」
 「2カ月か3カ月。長くても半年……」
 「そんなに長く……」
 「長い?」
 「長いよ。だから、少しでも長く、キミと一緒にいることにした」
 「末吉さん、いつから、そんな寂しがりになったのですか?」
 「きのうから……」
 そう言って顔を見ると、春麗はクスッと笑って、手を伸ばしてきた。キャリーバッグの引き手に置いた彰男の手に、そっと自分の手を重ねる。その指が一本、一本、対になる彰男の指を探す。彰男の5本の指と春麗の5本の指は、それぞれのパートナーを探し当てて、ゆっくりと、そして力強く、閉じられた。
 握り合わされたふたつの手を乗せて、スカイライナーは街を抜け、川を渡り、山をくぐって、成田へとひた走る。
 その間、ふたりは言葉も交わさず、窓外に映る風景をぼんやりと眺めながら、握り合った手の確かさだけを確かめ合った。

       

 出国審査を終え、手荷物を預けた春麗が、どんなふうにエスカレーターに乗り、搭乗ゲートへと消えていったか、彰男はいまでも、鮮やかに思い浮かべることができる。
 ちょっと行ってくるね。
 彼女はそんな感じで、尻を振り振り、エスカレーターへと向かい、その踏板に足をかけると、後は、一度も振り返ることなく、頭の上で手を振って、上階のフロアへと消えていった。
 最初に足が消え、腰から下が消え、肩が隠れ、頭も隠れ、最後に、まっすぐ上に伸ばした手先が隠れてしまうその瞬間まで、春麗の手は、左右に振られていた。
 その手は指先まで、しっかりと春麗の意思を伝えている。
 彰男には、そう感じられた。
 春麗の姿が完全に見えなくなっても、彰男はしばらく、その場に立ち尽くした。
 「やっぱり、止めた!」
 そう言って、春麗が戻って来る姿を、心のどこかで期待していたのかもしれない。
 しかし、それはあり得ない夢想だった。
 ないよな、それは――と、自分に言い聞かせると、不意に虚脱感に襲われた。
 ターミナルを出て、頭上で銀色の翼をきらめかせながら、次々と飛び立っていく飛行機。その姿を、二、三機見送った後で、彰男は、重い足に因果を含めて、スカイライナーの地下駅へと下りた。
 いつもの、退屈な仕事に戻るために――。
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