日本人から「色欲」を取り上げた刑法175条

いたずらに性欲を刺激するもの。「わいせつ物」を
法廷はこう定義します。「色欲」は法的には「悪」…?
性とエッチの《雑学》file.139 R15
このシリーズは真面目に「性」を取り上げるシリーズです。15歳未満の方はご退出ください。
【今回のキーワード】 刑法175条 ヘア・ヌード

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言うまでもないことですが、私たちの国では、「表現の自由」は保障されていることになっています。
人が何をどんなふうに表現するかは、「基本的人権」に属するきわめて重要な要素のひとつ。それを尊重することは、民主主義を維持していく条件のひとつと言っていいかと思います。
しかし、そこに立ちはだかっているのが、《刑法175条》という壁です。
前回もご紹介しましたが、もう一度、その条文を掲げておきましょう。
刑法第175条 わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。
これが、憲法21条で保障された「表現の自由」を侵害しているのではないか――と、これまでもたびたび、論争の的となってきました。
ちなみに「憲法第21条」には、こう記されています。
憲法第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
憲法第21条で「してはならない」と謳われている「検閲」を、しかし、日本の取り締まり当局は、いまもしっかりと行っています。特に「わいせつ」に関しては、お上は、常に目を光らせてきました。
かつて、女性雑誌の編集部に身を置いていた筆者・長住も、常にその「監視の目」と闘う立場に置かれていました。
人が何をどんなふうに表現するかは、「基本的人権」に属するきわめて重要な要素のひとつ。それを尊重することは、民主主義を維持していく条件のひとつと言っていいかと思います。
しかし、そこに立ちはだかっているのが、《刑法175条》という壁です。
前回もご紹介しましたが、もう一度、その条文を掲げておきましょう。

これが、憲法21条で保障された「表現の自由」を侵害しているのではないか――と、これまでもたびたび、論争の的となってきました。
ちなみに「憲法第21条」には、こう記されています。

憲法第21条で「してはならない」と謳われている「検閲」を、しかし、日本の取り締まり当局は、いまもしっかりと行っています。特に「わいせつ」に関しては、お上は、常に目を光らせてきました。
かつて、女性雑誌の編集部に身を置いていた筆者・長住も、常にその「監視の目」と闘う立場に置かれていました。

いまからは考えられないことですが、1970年代までの日本の「わいせつ」の基準は、相当に厳しいものでした。
たとえば、記事の中で、上半身裸の女性が後ろから男性に抱かれている写真を載せただけで、担当者が桜田門(警視庁のことです)から呼び出しを受けたりしました。
別に、性器を写し出しているわけでもないし、陰毛が写っているわけでもありません。しかし、後ろから抱いた男性の手が、女性の下半身を覆い、その手が女性の陰部を触っているように、読者に「想像」させる。それが「けしからん!」というわけです。
想像させてもいかん――というんじゃ、官能文学なんて成立しません。官能文学どころか、男女が登場する文学も、映画も、成立しません。
どこが「表現の自由だ!」と声を挙げたくなる私でしたが、ヘタすると、雑誌が「発行禁止」処分を受けてしまいますから、「これから気をつけます」と頭を下げるしかありませんでした。
当時の桜田門の感覚はそんなものでした。
頭の硬い霞が関の役人たちは、自分たちが夜の歓楽街などでどれほど色欲に走ろうとも、国民に「色情」を起こさせることは「悪」である――と考えているようでした。
戦後、たびたび法廷で争われることになった「わいせつ裁判」での判断基準として参照されたのは、昭和32年のチャタレー事件で示された最高裁の判断=「わいせつの三要素」です。
「チャタレー事件」とは、イギリスの作家、D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』を翻訳・出版した出版社社長と翻訳した作家・伊藤整が、刑法175条違反で起訴された事件。第二審で有罪判決を受けた両者は、判決を不服として上告しましたが、最高裁は、その上告を棄却。そのときに示されたのが、「わいせつの三要素」でした。
ちなみに、その「三要素」とは、
1・徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
2・且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し
3・善良な性的道義観念に反するものをいう
でした。
なんじゃ、これ!――と思われる方も多いだろうと思われます。



お上がこんな感覚でいるから、日本人は性欲をなくして、「少子化」しちまったじゃないか――とさえ、長住は思っています。

チャタレー事件で示された「わいせつ」のガイドラインは、以後、昭和44年の「悪徳の栄え事件」(マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳した澁澤龍雄と出版した現代思潮社の石井恭二社長が刑法175条違反に問われた事件)でも、昭和55年の「四畳半襖の下張事件」(作家・野坂昭如が永井荷風の戯作『四畳半襖の下張』を自身が編集長を務める雑誌『面白半分』に掲載して同法違反に問われた事件)でも、適用されました。
「四畳半襖の下張事件」で被告人たちの上告を退けた最高裁の栗本一夫裁判長は、棄却の理由を次のように、述べています。

ここでも、「好色的興味」は「悪」として断じられています。
「好色」は、日本文化に根付くおおらかな伝統であるにもかかわらず、日本の法曹家たちは、それを嫌悪しているとしか考えられない判断を示しているわけです。
うがった見方をすると、日本の権力者たちは、庶民から「性」を取り上げようとしている――とも見えます。
取り上げた結果、「性」を「庶民をコントロールする道具」として使おうとしているのではないか――とも、筆者には思えるのです。
もちろん、法曹界には、こうした判断に異論を唱える意見もありました。
前出の「悪徳の栄え事件」上告棄却の際に、補足意見として添えられた裁判官・色川幸太郎の反対意見は、次のように、「知る権利」を主張して注目されました。

筆者には、こちらのほうが、正論と思われます。


刑法175条では、もっぱら「局部が写っているかどうか?」が、「わいせつ物」に当たるかどうか――の判断基準とされてきました。
筆者が雑誌編集者であった時代までは、「陰毛」も局部の一部とされ、チラとでもヘアが写っていると、たちまち、桜田門から呼び出しを受けました。
当時のカメラマンや編集者は、見えそうなヘアを小道具で隠したり、出来上がった写真に修正を施すなどして、巧みに「見えない工夫」を凝らしました。
1980年代になると、薄いパンティを水で濡らして、ヘアを透かして見せるビニ本などがブームになったりもしました。
しかし、そのうち、自然に見えているヘアについては「おとがめなし」という既成事実が積み重なって、現在では、事実上、「ヘアは解禁された」と解釈されています。(⇒右のようなヘア写真は、いまでは解禁状態)
そのきっかけとなったのが、1991年に刊行された篠山紀信撮影の樋口可南子写真集『ウォーターフルーツ』。そのうちの数枚の写真にヘアが写っていたにもかかわらず、警察が摘発を行わなかったことから、「ヘアはOK」という判断がひろがり、以後、次々に、いわゆる「ヘア・ヌード」写真集が出版されるようになりました。
現在、AVなどでも、ヘアは、事実上の解禁状態。局部に関しても、モザイクがかかっていればOKとされているようです。
全体的に、日本の「わいせつ」判断は、「わいせつ」を目的として販売されるものに関しては緩く、背徳や反社会をテーマにした「芸術性」の高いものに関しては厳しい――と言っていいような気がします。
ただのエロはいいけど、思想を漂わせる「性」は厳しく取り締まるぞ!
筆者には、当局のそんな思惑が垣間見えるのですが……。
管理人の本、Kindle で販売を開始しました。よろしければ、ぜひ!

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『チャボのラブレター』
2014年10月リリース
Kidle専用端末の他、アプリをダウンロードすれば、スマホでもPCでも、ご覧いただけます。
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