第3章-京都に吹く風〈3〉 思想の腕は彼女の胸に沈む

後姿 父と母が愛し合った時代へ。感謝をこめて

K大の寮で酒に酔いつぶれた敏を、朝になって、
昌子がたたき起こした。約束の京都見物。
「思索の道」を歩きながら、昌子が訊いた。
「愛に思想は必要だと思うか?」
答えを探す敏の腕は、昌子の胸に沈んでいた。


 愛を駆ける急行   第3章 京都に吹く風 
〈3〉 思想の腕は彼女の胸に沈む

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この話は、「急行霧島」として執筆した作品のリメイク版、連載13回目です。最初から読みたい方は⇒こちらから、
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ここまでのあらすじ 父・秋吉敏が、母・昌子と出会ったのは、九州への急行「霧島」の車内だった。その年の暮れ、「霧島」は帰省客でごった返していた。やっと、ひとつ席を見つけた敏は、頭に赤鉢巻を巻いた季節労働者風の男と道連れになった。昌子が乗り込んできたのは、京都からだった。京都のミッション系の女子大に通う女子大生で、鹿児島まで帰省すると言う。博多までの道連れができたと喜ぶ敏。赤鉢巻は、四国に渡るために、岡山で列車を降りた。岡山を過ぎると、「霧島」は、漆黒の闇の中を走る。睡魔に落ちる昌子。その頭がいつの間にか、敏の肩の上で寝息を立てていた。やがて、「霧島」は関門海峡を渡る。昌子と敏は、春休みにまた「霧島」で会おうと約束して、握手を交わした。父によれば、その頃の若者は、「政治的」か「非政治的(ノンポリ)」かのどちらかだったと言う。父と母は、その中間にいて「良心的な声」を挙げようとするグループに属していた。共通するものは、聖書とコーラス。しかし、そんなふたりに、時代は次々と課題を投げかけてきた。次の年の春休み、一緒に帰ろうと「霧島」での再会を約束した敏と昌子。おたがいの髪は、少し伸びていた。リベラル派の教会の牧師とともに、大阪のドヤ街で奉仕活動を続ける昌子には、そんな活動は自己満足にすぎないと、政治思想を吹き込む男がいた。その年の夏休み、敏のY大グリークラブは、演奏旅行の最終日、京都で、昌子が所属するK女子大フローラル・コールとジョイントすることになった。京都で現地解散となる敏に、昌子は「京都で一泊しようよ」と提案した。コンサートの後、約束の三条大橋で待ち合わせた昌子が、「きょうの民宿のおじさん」と敏に紹介したのは、K大の学生寮に住む高城という男だった。敏を寮に案内した男は、「こんなの見たことあるか?」と、一冊の冊子を持ってきた。そこに書かれていた「火炎瓶の作り方」をめぐって、敏と高城は論争した。人民を解放するためには武装闘争も必要だと言う高城は、火炎瓶もその手段のひとつになると主張。敏は、手段を誤った闘争からは、真の解放は得られないと反論した。その反論は、昌子のためでもあった――。




 「ウワッ! お酒臭ッ! もう、どんだけ飲まはったん?」
 言うなり、昌子は部屋の窓を開け放ち、敏が寝ていたベッドの夜具の位置を直して、パンパンとホコリを払った。
 開放された窓からサワサワと風が吹き込んで、敏の皮膚の表面に張り付いていた生ぬるい空気を吹き飛ばし、一瞬、皮膚が生き返ったような気がした。
 しかし、吹き込んでくる空気もまた、外の暑熱をたっぷり含んでいて、たちまち毛穴の周りに不快な空気のよどみを作ってしまう。
 「フーッ、暑ッ!」
 酒ビンとコップと灰皿を共同の炊事場へ片づけ、ちゃぶ台の上を雑巾で拭いて、ひと通り、室内を片づけ終えると、昌子は、窓辺に立って両手を思いきり上に伸ばした。
 少しゆったりした水色のTシャツ。その下には、白い綿パン。
 窓の外でギラギラと煮えたぎっている夏の光が、彼女の薄いTシャツを貫いて、体のラインをハレーションの中に浮かび上がらせている。腕の付け根から、Yのラインを描きながら引き締まった腰へと連なる、美しい体の線。目を細めて見とれていると、振り向いた昌子と目が合った。
 「その様子じゃ、京都見物なんかできひんなぁ……」
 両手を腰に当てて、ちょっと頬をふくらませている。
 「ごめん。つい、ムキになって飲んでしまって」
 「ムキ……て、何に?」
 「あ、いや。日本の革命のこととか……いろいろ」
 「うちのデートは、日本の革命に負けてしもたん? もう、高城さん、あれほどゆうといたのに……」
 「あれほど……って?」
 「秋吉さんに、政治の話とかふっかけんといてや……って。エ!? 何がおかしいん?」
 「キミもすっかり京都の人なんだなぁ……って思って」
 「あ、あかん……」
 昌子は、いま気がついた――というふうに、口を手で押さえた。
 「ここへ来ると、つい、京都弁になってしまうの。ハイ、リセット!」
 京都弁が染み付いてしまうほど、昌子はこの寮に出入りしてたんだ――と知って、敏はまた、前夜の高城の顔が目に浮かんだ。
 「それで? どう? 外には出られそう?」
 「キミがエスコートしてくれれば、なんとか……」
 「じゃ、行こう!」
 昌子は敏の手を引いて立ち上がらせ、敏の旅行用バッグを持ち上げたが、すぐに床に下ろした。敏のバッグは、昌子がヒョイと持ち上げられるほど軽くはなかった。

        

 三千院に行こう、嵐山も見に行こう――と、昌子が決めていた計画は、二日酔いにムカつく敏のために、取り止めになった。
 「しょうがない。きょうは、秋吉クンにピッタリの散策コースに切り替える」
 「どこ?」
 「西田幾多郎が歩いたコースよ。私たちは《思索の道》と言ってるんだけど、最近は《哲学の道》とか呼ぶ人もいるみたい。ここから近いんだけど、歩くのは平気?」
 「大丈夫だけど、思索は、あんまりできないかもしれないよ」
 「思索なんかしなくていいわ。その代わり……」
 「何……?」
 「こうして歩こう」
 言うなり、昌子は手を敏の腕の中にもぐらせてきた。
 汗に濡れた腕と腕が絡まった。
 その腕を、昌子は、グイと自分の体に引き寄せる。肘の先端に、昌子のやわらかい肉のふくらみが触れた。
 あっ……と思ったが、昌子は敏の小さな動揺を面白がるかのように、自分の胸を敏の腕にすり寄せてきた。

        

 散歩道は、琵琶湖から引かれた疏水に沿って、銀閣寺から南禅寺の近くまで続いている。
 冷たそうな水のせせらぎと、川面をわたる風が、ガンガンと鳴る二日酔いの頭に心地いい。
 しばらく歩き、汗を流しているうちに、頭痛はやわらいできた。
 「ねェ、秋吉クンはどう思う?」
 「何を?」
 「恋愛には、思想が必要やと思う?」
 「高城さんがそう言ったの?」
 「高城さんだけじゃなくて、あの寮にいる人たちは、みんな、そんな言い方するの」
 「愛は、それ自体が、ものすごく尊い思想だと思うよ」
 「愛も思想かぁ……」
 「思想のない愛は、ただの所有欲かもしれない。少なくとも、聖書の思想は、そう教えてる」
 「秋吉クンにとっては、聖書も思想?」
 「少なくともボクは、聖書に書いてあるような天地創造とかは、信じてないからね」
 「私も、そうかな……」
 「保守的な人たちから見れば、それは信仰じゃないってことになるんだけどね。ボクは、信仰じゃなくてもいいと思ってるんだ」
 「私は、そこまでは言えない……」
 「ビミョーだよね。どこからが信仰で、どこまでが思想なのか、自分でもうまく線引きできないんだ。ただ、ひとつだけ言えることは、ボクにとっていちばん大事で、何にもまして優先される思想は、聖書の思想なんだよね。でも、高城さんたちが言ってる思想は、そのレベルの思想じゃない。たぶん、社会思想のことを言ってるんだと思うよ。きのうも、ちょっとそんな話をしてたんだけど……」
 「やっぱり、そんな話、したんや?」
 昌子は、また、京都モードに戻った。

        

 この道を、そんなことを考えながら歩いた人たちが、これまで何人ぐらいいたんだろう――と、ふと敏は思った。
 いろんな人が、いろんな思索に耽りながら、この道のほとりを歩いたのだろう。しかし、その脇を流れる疏水の水は、ずっと昔から、少しも変わらず、水であり続けたはずだ。
 敏にとって、聖書の説く思想は、その水のようなものだった。
 「その時代をどう生きるかとか、社会に対して何を主張するかとかは、そのときそのときで変わる社会思想だよね。ボクたちが身にまとう衣服のようなものだと思うんだ。でも、愛は、その根底にあるすっ裸の人間が、人間としてどうあればいいかを教える思想だと思う。だから、ボクは、そっちをまず優先する」
 「じゃ、秋吉クンの言う、愛の思想と社会思想がぶつかったら?」
 「ぶつからないよ。ぶつかるような思想は選ばないし……」
 「ほんと……?」
 「どんな社会思想でも、その根底に愛の思想がないものは、ボクは選ばない。思想のために愛を捨てよ、なんて言うやつがいたら、そんな思想はクソ食らえだ、と言ってやる」
 「だよね」と言いながら、昌子は、ボクの腕を引き寄せ、そこに頭をすり寄せてきた。
 昌子のやわらかなふくらみの中に、敏のひじが沈み込んだ。社会思想が愛の思想にくるまれるように、そのクッションが敏の尖ったひじを癒した。
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