赤い鉢巻と黒いスカート〈3〉 肩で眠る天使

後姿 父と母が愛し合った時代へ。感謝をこめて

岡山を過ぎると、急行の車内は静かになった。
昌子は教会に通い、牧師たちと一緒に
ドヤ街で奉仕活動をしたりしている、と言う。
そんな話をしているうちに、彼女は眠りに落ちた。
その頭がいつの間にか、敏の肩に乗っていた…。


 愛を駆ける急行   第1章 赤い鉢巻と黒いスカート 
〈3〉肩で眠る天使

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この話は、「急行霧島」として執筆した作品のリメイク版、連載4回目です。最初から読みたい方は⇒こちらから、
   前回から読みたい方は、⇒こちらからどうぞ。

ここまでのあらすじ 父・秋吉敏が、母・昌子と出会ったのは、九州への急行「霧島」の車内だった。その年の暮れ、「霧島」は帰省客でごった返していた。やっと、ひとつ席を見つけた敏は、頭に赤鉢巻を巻いた季節労働者風の男と道連れになった。昌子が乗り込んできたのは、京都からだった。京都のミッション系の女子大に通う女子大生で、鹿児島まで帰省すると言う。博多までの道連れができたと喜ぶ敏。赤鉢巻は、四国に渡るために、岡山で列車を降りた――。




 岡山を過ぎると、広島までの間で日付が変わる。
 到着が深夜になることもあって、そこから先の乗り降りは、極端に少なくなる。
 車内は、少し空いてくるが、残っている客はほとんどが、九州まで行く客だ。
 「やっと、静かになりましたね」
 上園昌子は、ほっと息をつき、手にしたみかんの皮をていねいにむいて、そのひと房を口にふくんだ。
 静かになった――は、たぶん、赤鉢巻がいなくなったことを指しているのだろうと思ったが、いなくなったらなったで、それまで男が座っていた席が、少し空虚になったような気がした。
 赤鉢巻が岡山で下車してからは、ボックス席の向かいは、空席のままだった。
 ふたりは並んで腰掛けたまま、足を向かいのシートに伸ばした。
 「いまごろ、みかん食べてるかしら? 船の上で……」
 「ウン。ボロボロ涙流しながら、食べてるかもしれない」
 「あの、私ね……」
 手にしたみかんを見つめていた目を、フッ……と窓の外に向けて、上園昌子はゆっくり言葉を選んだ。
 「ちょっと、胸が痛むんです、ああいう人たちを見ると……」
 水蒸気に曇った窓の外は、カラス色の闇で、その中にポツリポツリと浮かぶ電球のオレンジがかった光や誘蛾灯の青白い光が、空中を揺れながら浮遊する蛍の光のように、ゆっくり後方へ流れていった。
 「『蟻の街のマリア』っていうお芝居、見たことあります?」
 「ドヤ街で暮らす人たちのために生涯を捧げた修道女の話でしょ? その芝居、高校生の頃に、うちの学校に来たよ」
 「あ、それ! 私もそれで観たの。感動したんです、私。それでね、大学に入ってから、ちょっとだけボランティアで行ったことがあるんですよ。大阪にね、西成っていう場所があるんだけど……」
 「知ってる。東京で言うと、山谷ですよね。労務者の街」
 「山谷の話も聞いたことあります。実はね、私、教会に通ってるんです。そこの牧師さんが、そういう街で奉仕活動をされてて、ときどき私たちもお手伝いしてるんですけど」
 「ボクもね、実は……」
 「奉仕活動ですか?」
 「じゃなくて、バイトに行ってます。そういう場所に」
 「エーッ、バイトで……?」
 「いま、人手が足りないんです。ドヤ街に行って立ちんぼしてると、人集めに来るんですよ。仕事あるぞ、やんないか……ってね。横浜の場合は、たいてい船の荷物の積み下ろしだったりするんだけど。ひと晩やると、だいたい三日間くらい食べられる。けっこう、いいバイトになるんでね」
 上園昌子は、ちょっと複雑な顔をした。
 そこで奉仕活動をする女子学生と、そこへ金を稼ぎに行く学生。ふたりの立場の違いをどう埋めようか――と思案している顔に見えた。
 「じゃ……さっきの赤鉢巻さんも、労働者仲間じゃないですか?」
 「飲め、飲めってうるさかったですけどね。でもね、ボクはしょせんバイトだし、あちらはたぶん本業。どうするんだろ……って思うんですよ。もしこのまま、歳をとってしまって、体が言うことをきかなくなったら……って」
 「西成にも、そういう人たちがいるんです。だから、私たちの奉仕活動も、そういう高齢者とか、体を壊して仕事ができない人たちを対象に、食事の炊き出しをしたりしてるんですけどね」
 「ときどき、思うんだなぁ。ボクたちみたいな若いもんが、バイト感覚でそういうところへ仕事を探しに行く。それって、そこでしか働けない人たちの仕事を奪ってることになるんじゃないだろうか……って」
 「ヘェ~、そういうことまで考えるんですか?」
 「考えます。だって、世の中を牛耳ってるほうからすれば、労働コストは低く抑えたいわけだから。同じ賃金を払うなら、若くて元気のある者のほうが、効率いいじゃないですか。ボクは、そういう世の中の仕組みを変えない限り、問題の根本的解決にはならないと思うんだけど、そう思いながら、自分がやってる行動は、その仕組みに手を貸すようなことになってしまってる。その矛盾に、ちょっと悩んじゃったりするんですよね」
 「フーン……」
 深く息をもらしながら、上園昌子は、再び、目を窓の外に向けた。
 「私、そんなことまで考えなかったなぁ」
 ポツリとつぶやいた言葉の続きを期待したのだが、彼女の言葉はそこで途切れた。
 「でも、あなたの……その奉仕活動は……」
 言いながら顔をのぞき込むと、上園昌子のまぶたはすでに閉じられていた。
 その鼻からは、かすかに息を吐く音がもれていた。
 窓の外をゆっくり流れる遠景の灯り。
 コトコト、コトン……と、車輪がレールの継ぎ目を打ち付ける規則的な響き。
 秋吉敏も、いつの間にか、睡魔に襲われていった。

        

 それから、どれくらい時間が経っただろうか。
 車両がガクンと揺れて、一瞬、目を開けると、列車は大きな操車場を通過しているところだった。
 顔の左側に、何かが触れていた。
 上園昌子の髪だった。彼女の頭は、いつの間にか敏の肩の上に乗せられていて、頭頂部の髪が敏の頬をくすぐっていた。
 シャンプーの香りに混じって、微かに汗をかいた頭皮の香りがした。
 周りの席の乗客たちは、長い夜汽車の旅に疲れて寝静まっていた。その静寂の中で、ひとつだけ増幅されていく音があった。
 敏の心臓の音だった。
 「ウーン……」
 京都から乗り込んできたその天使は、微かに声をもらして下向きに傾けていた首を起こした。
 頭を反らす形になったので、敏の左頬には、今度は、彼女のおでこが触れる形になった。
 心臓の音が大きくなった。
 敏は、頭を少し左に回転させて、彼女の寝顔を見た。やや仰向けに敏の肩に載った彼女の小さな顔。右耳にかかっていた彼女のボブの毛先は、パラリとほどけて彼女の頬にかかっていた。
 その鼻から吐き出される、ちょっとみかんの香りのする、安らかな寝息。
 サラサラの髪の下でうっすらと汗ばんだ、聡明な光をたたえたおでこ。
 「この人、かわいい」と思う気持ちが秋吉敏の中に芽生え、その思いは、少しずつふくらんでいった。

 「霧島」は、敏の肩に天使の頭を乗せたまま、山陽路の闇の中を走った。
 三原を過ぎると、山陽本線は海沿いのルートを外れ、中国山地の山間部を突き抜けるコースをとる。それまで、時折、見えていた港や街の灯りが車窓から消え、窓の外は、ただの闇と化す。
 何も見えない、どこを走っているかもわからない闇の中。乗客たちは、ただ目的地に向かって走っているという速度だけを頼りに、深い眠りに沈んでいた。
 敏にとって、確かにそこにある――と確信できるものは、自分の肩でスースーと寝息を立てている上園昌子の小さな頭と、眠りこけるほどに敏のそれに密着してくる彼女の太ももの温度だけだった。
 いくつかの小さな駅を通過したあと、「霧島」は大きな音を立ててポイントを通過し、トラックが何本もに分かれていく広大な駅の構内に滑り込んでいった。
 午前一時十五分。「広島駅」だった。

        

 ポイント通過のガチャンという衝撃と、車内に鳴り渡る『汽笛一声……』のメロディで、肩の上の天使は目を覚ました。
 「あ、ごめんなさい。私、寝てしまって……」
 あわてて頭を起こした昌子は、到着したホームをキョロキョロと見回した。
 「まだ、広島ですよ」
 「じゃなくて、私、おなか空いて……。広島に着いたら、カキ弁当買おうって思ってたんだけど……」
 そう言えば――と敏は、赤鉢巻とうなぎ弁当を食べて以来、冷凍みかんを1個食べただけだったのを思い出した。
 しかし、もう夜中の一時を回っている。この時間に弁当を売っているかどうか……。
 ホームを見回すと、ひとりだけ、弁当売りがいた。
 「カキ弁でいいですか? ボク、走って買ってきます」
 「エ? でも、汽車、もう出ちゃいますよ……」
 「大丈夫です。飛び乗りますから」
 デッキから飛び降り、3両後ろの車両の前にいる弁当売りのところまでダッシュした。すでに構内アナウンスが「西鹿児島行き、急行・霧島号、発車いたします」と告げていた。
 「カキ弁2つとお茶2つ」
 あわてて精算をすませ、おツリを受け取る頃には、車両の連結器が、先頭から順に、ガチャン、ガチャン……と、発車の衝撃音を伝えていた。
 弁当とお茶を左手に持って、動き始めた車両を走って追い、デッキ入り口のバーを右手でつかんで、乗降口に飛び乗った。
 けっこう、危ないタイミングだった。
 「ああ、よかった……」
 車両の中を移動して、席に戻ると、上園昌子は両手を胸に合わせ、まるで帰還兵士を迎えるような顔で敏を迎えてくれた。
 「汽車が動き始めたときは、もう……どうしようかと思って。あなたの荷物を持って、私も降りようか、とか考えたんですよ」
 もしそうなってたら、自分たちは、どうやってこの夜を過ごすことになっただろう――と、ちょっとだけ、想像をふくらませた。
 「うまいね」「ウン、うまい」とカキ弁をたいらげると、再び睡魔が襲ってきた。
 上園昌子がうつらうつらし始めるのに合わせて、敏もいつの間にか、眠りに落ちていた。
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