ローズマリーの詩〈29〉 午後3時の乾杯

コーヒーと女ふたりの間に流れる温かい時間。
午後3時の乾杯は、束の間、幸せの香りがした。


40年ぶりに再会したかつての恋人同士。
「どうして結婚しなかったの?」――千里さんとおじは、
同時に同じ質問を発した。「うまいガーリック・トーストに
出会わなかったから」とおじは答え、千里さんは……。



 小説/ローズマリーの詩 ――― 第29章 
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この話は連載29回目です。最初から読みたい方は⇒こちらから、
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ここまでのあらすじ 離れのおじの部屋から聞こえてくる『スカボロー・フェア』という曲。その歌には、パセリとセージとローズマリーとタイム、4種のハーブが登場する。おじは、その歌を歌いながら、かつての恋人に想いを馳せているように見えた。私にもかつて、尊敬し、愛した男がいた。鳴尾聡史。アフリカで、飢えた子どもたちを救うボランティア活動に従事する男。しかし、私は、「一緒にアフリカに行かないか?」という彼の誘いに首を振った。勇気がなかったからだ。私は就職して、そこで巡り合った男がささやく「ふつうの幸せ」という言葉に揺らいだ。結婚の約束までしたが、その結婚をドタキャンした。そんな私とおじは、母には「我が家の厄介者」だった。その厄介者のおじを、ある日、尾崎さんという古い友人が訪ねてきて、「こないだ、彼女に会ったゾ」と口にした。おじのかつての彼女は、草野駅の前でハーブ・パンを焼いて売っているという。その人・真坂千里さんの店を、私はのぞきに行った。店名は「千の丘」。『七つの水仙』という曲からとったという。その歌をかつて彼女に歌って聞かせたのは、どうやら、おじらしかった。そんなある日、一通のエアメールが届いた。鳴尾聡史が内乱に巻き込まれて負傷し、帰国するという。会うべきか、会わざるべきか? 迷っている私に、おじは「命短し、恋せよ乙女。後悔するなよ、沙世ちゃん」と言い、千里さんは、「会って後悔するかもしれない。会わないと、もっと後悔するかもしれない。私だったら、会って後悔するほうを選ぶ」と言った。私は聡史との再会を決意した。5年ぶりに会った聡史は、精悍さを失ったように見えた。銃撃にすくんだ自分は、「もう、アフリカには戻れないかもしれない」と言う。沈み込む聡史に、私は「お帰りなさい」のキスをした。「もし、千里さんが会いたいって言ったら、おじさんも会う?」。私の質問に、おじは「エッ、どうしてキミが…?」という顔をする。私は、おじに食べさせたパンが千里さんが焼いたパンであることを告白し、千里さんがいまもひとりでいることを伝えた。千里さんにも告白した。「私は、牧原哲司の姪なんです」。私の告白に目を丸くした千里さんだったが、おじが後悔していることを告げると、「残念ながら、彼と別れた理由は、あなたのおじさんが想像しているようなものじゃない」と言った。そんなある日、私は千里さんから「家に来ない?」とお誘いを受けた。「いい肉をもらったから一緒に食べよう」と言うのだった。男の匂いのしない千里さんの部屋。なぜ、ふたりは別れてしまったのか? 理由を問う私に、千里さんの重い口が開かれた。「あの人、子どもは嫌いだ――って言ったのよ」。そんな私の目に一体のオブジェが留まった。幼子イエスを抱く聖母子のオブジェ。そこに秘められた千里さんの想いを想像していると、聡史から電話が入った。「大事な話がある」と言うのだった。聡史は、通信社への就職が決まり、アフリカに派遣されると言う。「ついて来てほしい」とは言われなかった。その代わり、「待っていてほしい」と言われた。それって、プロポーズ? おじにその話をすると、「バカか、キミは」と言われた。「待っていてほしい」がプロポーズでなかったら、この世から恋はなくなる。お返しに、私もおじに、千里さんが明かした「別れの理由」を暴露した。「子どもは嫌いって言ったでしょ?」。「エッ、それだけで?」とおじは言う。この人、わかってない。私は、その背中を蹴りたくなった。年が明けて2度目の日曜日、私はおじをちょっと遠い散歩に誘った。行先が千里さんの「千の丘」と知って、おじの足は止まったが、私はその背中を押した。40年ぶりに再会したふたりは――。




 たぶん、こんなもんだろうな――と思った。
 40年ぶりの再会ったって、別に離散家族が国境を越えて会う――なんていうわけじゃない。
 おじと千里さんは、口数少なく、淡々と、おたがいの近況を語り合った。
 「それで、いまは何をしてるの?」
 「居候……」
 「沙世さんの家に? 仕事は?」
 「昔の仲間から回されてくる仕事を、細々と続けてる。あとは、年金が少々」
 「年金、もうもらってるんだ?」
 「早期受給っていうんだっけ? 会社をつぶしたとき、手続きをとった。受給開始年齢は、60歳まで引き上げることができるんだよね。そのぶん、受給額は減らされるけど……」
 「たいへんね……」
 かつての恋人の、けっしてラクではないと思われる現況に、千里さんは、胸を痛めているように見えた。
 「キミのお店のほうはどうなの?」
 今度は、おじが千里さんを気遣った。
 「なんとか、ガンバってるわよ。つっても、パンを焼いてるだけだけど……」
 「あの頃から、パンが好きだったもんなぁ。いつも、ドンクでバゲット買って、食べさせてくれた」
 「あれはね……バゲットじゃなくて、パリジャンっていうのよ」
 「そうか。パリジャンだったか……」
 おじは、そう言って何かを思い出しているように見えた。
 おじと千里さんが共有した時間が、ふたりの間で濃密な空気を作り出している。
 ちょっと、私が入っていける感じじゃないな――と、私は、目の前のブルスケッタとカフェオレを片づけることに集中した。

        

 「どうして……」
 おじと千里さんは、ふたり一緒に口を開いた。
 「ど……」と言いかけていたおじは、「どうぞ」と目で譲った。
 「平凡だけど……どうして……いままで結婚しなかったの?」
 おじは、「ウーン」とうなったきり、口をつぐんだ。その顔は、苦渋に満ちているというふうでもない。どっちかと言うと、気の利いた返事を探している、という様子だった。
 「ボクを感動させるようなガーリック・トーストに出会わなかったから……かな」
 ウン、わるくない返事ね――と、私は、胸の中で小さな拍手を送った。
 千里さんは、おじの返事を聞いて、ちょっとだけ、目の縁をほころばせた。
 「そういうキミこそ、どうして?」
 今度は、おじが同じ質問を返した。
 それは、私も知りたいことだった。
 「それはね……」と、千里さんが、慎重に口を開いた。
 「幻想を抱けなくなったからよ」
 おじが「エッ」というふうに目を開いて、千里さんを見つめ返した。
 「思想が組み立てられなくなった――って言ったほうが、いいかもしれない」
 「もしかして……結婚する思想?」
 コクリ……と、千里さんがうなずいた。
 「この世界の矛盾を再生産しなくてもすむ結婚のかたち? それが見つからなくてね」
 エッ……と、私は、千里さんの顔を見た。こんな最大級の皮肉を、いま、ここで口にするか――と、ちょっとびっくりした。
 おじは、黙って頭を下げた。
 その顔が、「面目ない」と言っているように見えた。
 おじのそんな姿を見て、千里さんは、クスリと笑ったように見えた。そして、次の瞬間、その顔がパッとほどけた。
 「な~んてね。ちょっと言ってみたかっただけ」
 おじが、ホッと肩を下ろしたように見えた。
 「いなかったのよね。そんな思想を広げて見せてくれる相手が……。なにしろ、最初の男が、大風呂敷を広げて見せてくれたものだから」
 「あのね、千里さん」と、私は抑えきれなくなって声を出した。
 おじと千里さんが、「エッ、何?」という目で私の顔をのぞき込んだ。

        

 「おじさん、後悔してるんだって」
 「何を?」と千里さんが訊き返した。
 「大風呂敷を広げたことを。そうでしょ、おじさん?」
 「そうなの?」
 千里さんは、今度は、おじの顔をのぞき込む。
 おじは、すまなそうに頭を掻いて言った。
 「あの頃は、ボクも、必死だったからね。自分が構築した世界観を守ろうとして」
 「ほんとはね……」と、私は、またも余計な口を開いた。
 「子どもだって、けっして嫌いってわけじゃなかったようですよ。自分の子どもだったら、溺愛したかもしれないって……」
 おじが、「オイ、それはないだろう」という目で私をニラんだ。
 いけない、言いすぎた――と思ったけど、それを聞いても、千里さんの表情は変わらなかった。
 千里さんは、つと席を立ちながら、ひと言だけ発した。
 「遅いわね。それは……」

 そのまま、千里さんは、厨房に立ってしまった。
 怒ったんだろうか?
 おまえが余計なことを言うから――と、おじは私の腕をひじで突いた。
 やれやれ、この再会劇は失敗だったか――と思っていると、しばらく経って千里さんがトレーに何かを載せて戻って来た。
 ワイングラスが3客に、ボルドーの赤ワイン。バスケットに盛られているのは、もしかしたらガーリック・トースト……?
 「懐かしいでしょ、これ?」
 テーブルの中央にバスケットを置くと、銘々の前にワイングラスを並べ、それから赤ワインのボトルとオープナーをおじに手渡して、「開けて」と言う。
 私に渡さなかったのは、きっと、この前、失敗したからだ。
 おじは、渡されたボトルのラベルを見て封を切り、器用に、オープナーをコルクの中にねじ込んで、スボンと栓を抜いた。
 「久しぶりの再会だから、乾杯しようと思って」
 千里さんが、ちょっとうれしそうに言う。
 まず、おじと千里さんが、それから千里さんと私が、最後に私とおじが、それぞれのグラスをカチンと合わせて、赤いボルドーを口に含んで味わい、のどに流し込んだ。
 少しだけ幸せな時間が、だれもいない日曜日の午後のカフェの中を流れた。
 壁にかかったオルゴール付きの柱時計が、午後3時を知らせていた。
 ⇒続きを読む

 参考  この小説に出てくる楽曲と映画は、こちらから

本作品中に登場する曲「スカボロー・フェア」は、サイモンとガーファンクルの『パセリ・セージ・ローズマリー&タイム』に、「七つの水仙」はザ・ブラザーズ・フォーの『グレイティスト・ヒット』に収録。登場する映画『卒業』は、DVD版とBlue Ray版が販売されていて、いずれも、アマゾンより購入できます。興味のある方は、ぜひ、ご覧になってみてください。

      




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