「神」を「インスタント化」した「英霊」という言葉

実際に起こった出来事を長住流に解説します。
「靖国に祀られる神(=英霊)となる」――それを信じて、かつて、
多くの前途ある若者たちが、戦場に散っていきました。
天皇のために死ぬことは美しいこと、と思い込まされて…。
「英霊」という言葉は、そのために編み出された言葉でした――。
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みなさん、あるいはご存じだろうと思いますが、「靖国神社」に祀られているのは、戦地で亡くなった軍人だけです。
「戦死した勲功」を「よくやった」と顕彰(世間に知らしめて表彰すること)するための施設ですから、まず、軍人以外は対象外。たとえ軍人でも、病死した者は、その対象にはなりません。
軍需工場で働いて過労死したとしても、顕彰の対象とはなりませんし、空襲で死亡しても、原爆で命を落としても、「靖国」に祀られることはありません。
つまり、完全に「官尊民卑」。それも、「軍人」という「官」だけが、表彰されているわけです。
ひとつだけ、例外があります。それはA級戦犯。
「戦死」してないにもかかわらず、戦後、極東裁判で処刑された戦争指導者たちが、なぜか堂々と、「靖国神社」に合祀されているのです。これには、いろいろ議論があるのですが、1978年に合祀が行われて以降、昭和天皇はこれに不快感を示し、以後、一度も靖国参拝を行っていません。
合祀問題については、後日、あらためて触れるとして、前夜、私は、「靖国は、わが国の宗教的伝統」を破壊した――と申し上げました。
まずは、その話からしてみたいと思います。
神々を殺して生み出された「国家神道」
そもそも、筆者・長住は、戦前の日本人の精神をもてあそんだ「国家神道」というものが大嫌いです。
「国家神道」とは、天皇を「神」とし、日本国は「神」である「天皇」の統治のもと、祭政一致の国づくりを目指す――とする考え方でした。
明治政府は、最初は、キリスト教を禁止しようとしたのですが、西欧列強の批判が強かったため、それをあきらめました。
次に「神仏分離政策」を進めて、神仏習合が進んだ日本の神社から仏教を追い出そうとしました。これは、民間に廃仏毀釈の運動を引き起こすなどして、宗門の反発を招いたため、1872年には、その政策を改めています。
第3に、「神の一本化」を図りました。1906年(明治39年)には、「神社合祀令」を発して、すべての神社を国家の管理下に置こうとしました。神社は、一町村一社として、その祭神はすべて歴代の天皇とせよ――という政策です。
各地に残る氏神信仰や民間信仰を禁止し、鎮守の森を焼き払い、その結果、神社数は激減しました。合祀が著しかったのは、三重県と和歌山県ですが、三重県では6500社あった神社が7分の1以下に、和歌山県では3700社あった神社が6分の1以下に整理されてしまいました。全国で4万社に上る神社が取り壊され、わずか3年間で、神社数は19万社から12万社に激減してしまったのです。
薩長が主流を占めた、時の明治政府は、日本人が先祖代々受け継いできた、神々への崇敬も、その心の拠り所も、焼き払い、打ち壊して、「ただ天皇のみを崇拝せよ」と求めたわけです。
博物学者の南方熊楠は、これを「神狩り」として、強烈に批判しました。識者の中からも批判の声が高まったため、この「神社合祀令」は、のちに廃止されるのですが、「国家神道」というのが、そういう性質を持った宗教である――ということを、けっして忘れないでいただきたいのです。
「靖国神社」は、そういう「国家神道」の頂点に位置する存在でした。
「戦死した勲功」を「よくやった」と顕彰(世間に知らしめて表彰すること)するための施設ですから、まず、軍人以外は対象外。たとえ軍人でも、病死した者は、その対象にはなりません。
軍需工場で働いて過労死したとしても、顕彰の対象とはなりませんし、空襲で死亡しても、原爆で命を落としても、「靖国」に祀られることはありません。
つまり、完全に「官尊民卑」。それも、「軍人」という「官」だけが、表彰されているわけです。
ひとつだけ、例外があります。それはA級戦犯。
「戦死」してないにもかかわらず、戦後、極東裁判で処刑された戦争指導者たちが、なぜか堂々と、「靖国神社」に合祀されているのです。これには、いろいろ議論があるのですが、1978年に合祀が行われて以降、昭和天皇はこれに不快感を示し、以後、一度も靖国参拝を行っていません。
合祀問題については、後日、あらためて触れるとして、前夜、私は、「靖国は、わが国の宗教的伝統」を破壊した――と申し上げました。
まずは、その話からしてみたいと思います。

そもそも、筆者・長住は、戦前の日本人の精神をもてあそんだ「国家神道」というものが大嫌いです。
「国家神道」とは、天皇を「神」とし、日本国は「神」である「天皇」の統治のもと、祭政一致の国づくりを目指す――とする考え方でした。
明治政府は、最初は、キリスト教を禁止しようとしたのですが、西欧列強の批判が強かったため、それをあきらめました。
次に「神仏分離政策」を進めて、神仏習合が進んだ日本の神社から仏教を追い出そうとしました。これは、民間に廃仏毀釈の運動を引き起こすなどして、宗門の反発を招いたため、1872年には、その政策を改めています。
第3に、「神の一本化」を図りました。1906年(明治39年)には、「神社合祀令」を発して、すべての神社を国家の管理下に置こうとしました。神社は、一町村一社として、その祭神はすべて歴代の天皇とせよ――という政策です。
各地に残る氏神信仰や民間信仰を禁止し、鎮守の森を焼き払い、その結果、神社数は激減しました。合祀が著しかったのは、三重県と和歌山県ですが、三重県では6500社あった神社が7分の1以下に、和歌山県では3700社あった神社が6分の1以下に整理されてしまいました。全国で4万社に上る神社が取り壊され、わずか3年間で、神社数は19万社から12万社に激減してしまったのです。
薩長が主流を占めた、時の明治政府は、日本人が先祖代々受け継いできた、神々への崇敬も、その心の拠り所も、焼き払い、打ち壊して、「ただ天皇のみを崇拝せよ」と求めたわけです。
博物学者の南方熊楠は、これを「神狩り」として、強烈に批判しました。識者の中からも批判の声が高まったため、この「神社合祀令」は、のちに廃止されるのですが、「国家神道」というのが、そういう性質を持った宗教である――ということを、けっして忘れないでいただきたいのです。
「靖国神社」は、そういう「国家神道」の頂点に位置する存在でした。

「国家神道」は国民の「信教の自由」を侵害するものではないか――という声もありました。しかし、当時の指導部は、「神道は宗教にあらず」という詭弁を弄して、批判の声を封じ込めました。
神道は、他宗教の上位に位置するものであって、他の宗教への信教を妨げるものでない――とする一方で、1889年には、勅令によってすべての学校での宗教教育を禁止し、「宗教ではない」とした「国家神道」を、宗教を超越した教育の基礎として据えました。1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示されますが、その基本となったのは、万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治し、国民はすべて天皇の赤子であるなどと教え込む「国家神道」でした。
こうして、「国家神道」は、宗教・政治・教育を一体化して「神国・日本」を作り上げていく原理として使われ、「靖国神社」はその象徴的存在として祭り上げられました。
やがて、その「靖国神社」に「英霊」という言葉が登場します。
突然のように現れた「英霊」という言葉。これこそ、「国家神道」が国民に仕掛けた最強・最大のトラップでした。
そもそも「英霊」とは何か?
この言葉を神道的に定義することはできません。もともと、日本の神道には、統一された教義のようなものは存在しないのですが、それまで伝統的に受け継がれてきたさまざまな神社の教えを見ても、その風習を眺めても、「英霊」なんていう考え方は登場してきません。まるで、降ってわいたように、突然、この言葉が使われ始めたのです。
いわば、流行語のようなものです。
なぜ、こんな言葉が、突然、登場したのか?
それには、ちゃんとしたワケがありました。

「英霊」という言葉が盛んに使われるようになったのは、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の「日露戦争」が終わった頃からでした。
この戦争では、日本は、先の日清戦争とは比較にならないくらい、多くの犠牲者を出しました。戦死・戦病死8万8千人余。日清戦争のそれのおよそ7倍の数字です。
当時の日本の常備兵力は、約20万人程度でしたが、この戦争での総動員数は30万人を超えたとされています。そのために、多くの兵隊が徴兵されました。
貴重な働き手を兵隊に取られて、失ってしまった農家などからは、相当な不満の声が上がっていました。
そこで、当時の政府が思いついたウルトラCが、「英霊」だったのです。
それまで、靖国神社・護国神社に祀られている戦没将兵は「忠魂」・「忠霊」などと呼ばれていたのですが、これでは、一方的に「忠義」のために命を落した――ということになってしまいます。それでは、不満を抑えきれない――と、当時の指導者たちは考えたのでしょう。
戦争で亡くなれば、「英霊」=「神」として靖国神社に祀られ、
「天子様(天皇)」に誉めていただける。
なんと、ありがたいことではないか。
庶民にそう信じ込ませ、「戦死して靖国に祀られる」がこの上ない栄誉である――と思い込ませること。それが、当時の指導者たちのネライでした。
戦死者たちを合祀する際には、靖国神社は「臨時大祭」を開き、息子や家族を戦地で失くした遺族を国費で東京に招いて、「誉れの遺族」として祭祀に参列させます。そこへ、白い輿に乗った「天子様」がやって来ます。その日のために、地方から招かれた年老いた父母たちは、目に涙を浮かべて感動します。


どちらも、雑誌『主婦の友』1939年6月号に掲載された「母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会」に出席した老婆たちの発言です。
失礼を承知で申し上げるなら、この老婆たちは、地方から出て来た、高等な教育も受けてない、言ってみれば、底辺に位置する庶民たちです。
こういう庶民たちに、「靖国で神になる」という幻影を見せ、「喜んで死地に赴く」気運を醸成する。そのために作り出されたのが、「英霊」という言葉であり、「靖国神社」という施設でした。そして、この仕組みを作り出した指導者たちは、そこへ天皇を担ぎ出すという形で、天皇そのものも利用した――と言っていいかと、筆者は思います。

この「英霊」という概念は、伝統的な神道の考え方からしても、理解しがたいものです。
前夜もお話しましたが、古来からの日本の神道の伝統の中では、「死」は「穢れ」というふうに考えられていました。
その穢れを取り払ってからでないと、死者の霊が「神(祖霊)」になることはできませんでした。それには、30~50年という、長い「浄め」の時間が必要になります。
しかし、そんな悠長なことをやっていたのでは、戦争で家族を失って悲嘆にくれている遺族の悲しみや憤りを鎮めることができません。
何とか、手っ取り早く「神」にする方法はないか?
おそらく、当時の戦争指導者たちは、そう考えたのではないか――と、筆者は想像しています。
宗教学者のひろさちや氏は、これを「神のインスタント化」と呼びました。
国のために戦って死んだ者には、穢れも怨念もない――という論理をひねり出して、「戦死すれば即、神になる」と国民を説得した。そのために造られたのが、「英霊」というコンセプトであり、「靖国神社」だ――という主張です。
筆者も、全面的に、その主張を支持します。
「英霊」という言葉は、何の宗教的根拠もなく、ただ、国民を喜んで死地に赴かせるためだけに造られたペテンである――と、筆者は確信しています。そして、そこには、「国民は、天皇のために喜んで命を差し出すべきである」という「国家神道」のイデオロギーが塗り込められている――と断言していいと思っています。
「英霊」という言葉は、それを口にした時点で、「自分は神国思想の持ち主である」と言明したことになる言葉でもあるわけです。
にもかかわらず、先日、「靖国参拝」を強行した安倍総理は、こう言いました。

言ったな、「英霊」と――と筆者は思いました。
つまり、この総理は、「神国思想」の持ち主であることを、自ら言明したわけです。
どんなに、誤魔化そうが、どんなに美しい言葉を連ねようが、あなたの参拝は、中国・韓国の人たちばかりでなく、いや、それ以上に、何よりも平和を希求し、二度と戦争を起こしてはならない――と考える国民の気持ちを、傷つけ、おののかせ、嫌悪させたのですよ。


2012年11月リリース
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