「幸せの量」は、量ってはいけません

「幸せになりたい」と、念仏のようにつぶやく人たちがいます。
しかし、私は、思うのです。
「なりたい」と念じる人たちよりも
「幸せだなぁ…」と感じる人たちのほうが、
きっとほんとうの幸せには近いのではないか。その理由――
しかし、私は、思うのです。
「なりたい」と念じる人たちよりも
「幸せだなぁ…」と感じる人たちのほうが、
きっとほんとうの幸せには近いのではないか。その理由――
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前回、「愛は願いではなく、祈りである」という話をしました。
なぜながら、「願い」は「欲求」を伴うから――と申し上げました。
「欲求」である限り、獲得したい「目標」がある。
「目標」がある限り、「願い」の結果は、「ゲイン=獲得」か「ロス=喪失」でしかない。
そんな「ゲイン」と「ロス」に一喜一憂する人生なんて、まっぴらごめんだ――と、私は思っています。
それこそが「人生の価値」ではないか――などと主張する人たちの、脂ぎった顔にも、ショージキ、うんざりしてしまいます。
「幸福感」についても同じじゃないか、と私は思っています。
よく、人は、「幸福になりたい」とつぶやきます。
「私を幸せにしてください」とか「私を幸せにしてくれる?」と、口に出して願う人たちもいます。
特に、女性に多い傾向かと思うのですが、この「幸せになりたい」も、やっぱり「願い」ですから、「ゲイン」と「ロス」に支配されます。
しかも、「幸せになりたい」は、幾何級数的にふくらむ欲求です。「幸せになりたい」と口にする人たちは、常に、現状の「幸せ度」と比較してその言葉を口にします。いまの「幸せ度」が「1」だとしたら、それが「1・2」や「1・3」になることを望み続けるわけです。
「1」が「1・2」や「1・3」にならないと、「幸せになった」と実感できない。この「なった」と感じるための「0・2」分や「0・3」分の限界値のことを「閾値(いきち)」と言うのですが、この「閾値」に縛られるがゆえに、ヒトの「幸福願望」はふくらみ続けるしかなくなるわけです。
これでは、きりがありません。
つまり、いつまで経っても、「私は幸せだ」と感じることができないわけです。
なぜながら、「願い」は「欲求」を伴うから――と申し上げました。
「欲求」である限り、獲得したい「目標」がある。
「目標」がある限り、「願い」の結果は、「ゲイン=獲得」か「ロス=喪失」でしかない。
そんな「ゲイン」と「ロス」に一喜一憂する人生なんて、まっぴらごめんだ――と、私は思っています。
それこそが「人生の価値」ではないか――などと主張する人たちの、脂ぎった顔にも、ショージキ、うんざりしてしまいます。
「幸福感」についても同じじゃないか、と私は思っています。
よく、人は、「幸福になりたい」とつぶやきます。
「私を幸せにしてください」とか「私を幸せにしてくれる?」と、口に出して願う人たちもいます。
特に、女性に多い傾向かと思うのですが、この「幸せになりたい」も、やっぱり「願い」ですから、「ゲイン」と「ロス」に支配されます。
しかも、「幸せになりたい」は、幾何級数的にふくらむ欲求です。「幸せになりたい」と口にする人たちは、常に、現状の「幸せ度」と比較してその言葉を口にします。いまの「幸せ度」が「1」だとしたら、それが「1・2」や「1・3」になることを望み続けるわけです。
「1」が「1・2」や「1・3」にならないと、「幸せになった」と実感できない。この「なった」と感じるための「0・2」分や「0・3」分の限界値のことを「閾値(いきち)」と言うのですが、この「閾値」に縛られるがゆえに、ヒトの「幸福願望」はふくらみ続けるしかなくなるわけです。
これでは、きりがありません。
つまり、いつまで経っても、「私は幸せだ」と感じることができないわけです。

「幸せになりたい」は、「いま」を「幸せではない」と感じているから出る言葉だと思うのですが、ではなぜ、「いま」を「幸せではない」と感じるのか?
それは、「幸せ度」を「比較」しようとするからだと思います。
先ほど「閾値」の話をしました。この「閾値」は、「昨日」と「今日」を比較するときに、「きょうはきのうより1・2倍幸せ→だから、きょうは幸せ」というふうに、時系列的にも使われますが、他者との比較でも使われます。
「かわいそうね、あの人(たち)。それに比べたら、私なんて幸せだわ」
というふうにも使われますし、
「いいなぁ、あの人(たち)。私って、なんて不幸なんだろう」
というふうにも使われます。
どちらの場合も、「幸せ」は「定量的」に比較されています。「定量的」とは「量を量って分析する」ということです。
「閾値」が問題になるのも、量を比較しようとするから。
「幸せになりたい」も、この「量」を求める心が言わせる言葉だと思うのです。
「量」を求める心からは、ほんとうの幸せは得られない。
ただ、新たな「欲求」を生み出し続けるだけ。
これは、私の持論です。
なので私は、「幸せになりたい」とは望まないことにしています。

「幸せになりたい」と思わずに、何を望むのか?
何も望みません。
ただ、感じるだけです。
ああ、幸せだなぁ――と。
きょうも太陽が昇って来て、私の一日を照らしてくれている、幸せだなぁ。
私の体の中を血が巡って、体のすみずみまで栄養を届けてくれている、幸せだぁ。
ほうれん草や、卵や、パンや、マグカップ一杯のコーヒーが、私の体に活力を与えてくれる、ああ、幸せだなぁ。
外へ出ると、近所の住人たちと顔が合い、どちらからともなくニコリとお辞儀を交わし合う、ウン、幸せだ。
みんな元気に学校へ、職場へと出かけて行く。ガンバレよ。そういう姿を見られて、ウン、幸せだ。
友だちからメールが届く、珍しい友人から電話があった、それだけでも幸せだ。
さて、仕事にとりかかるとするか。ま、金にはならないけれど、やってみよう――という気になるだけでも、幸せだ。
そうこうしているうちに、陽は傾き、西の空を赤く染めていく。きょうも無事に終わりそうだ。これでよし。なんと、幸せな落日であることか――。
世界では、ガマンのならないような出来事が相も変わらずだし、社会がよくなっているとも思えないが、それでも、なんとかしなくちゃ……と闘ったり、ガンバったりしている人たちがいる。そういう姿を見ることができるだけでも、幸せだと感じよう。
夜の星は、変わらない光で明日があることを教えてくれ、愛しい人を想いながら眠ることを教えてくれる。その幸せを感じつつ、目を閉じよう。
私が「幸せだなぁ」と感じるのは、せいぜい、それくらいのものです。
それで十分。
それ以上を求めはしないし、これじゃ足りないとも思いません。
つまり、生きているだけで幸せ――と感じる。
まず、ここが基本。
あとの「ワァ、幸せ!」だの「チョー幸せ!」だのは、「おまけ」と思っておけばいいのだと思います。
おまけに目がくらんで、欲をかいても、いいことありませんよ、みなさん。


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