「自分」とは、「他人」の「容れもの」にすぎません

「自分」とは、過去に出会った「他人」が残した
さまざまな書き込みの蓄積にすぎません。
これから新たな書き込みが加えられるかもしれません。
「自分」とは、そんな「他人」の「容れもの」。
大事なのは、その「容れもの」の大きさです。
さまざまな書き込みの蓄積にすぎません。
これから新たな書き込みが加えられるかもしれません。
「自分」とは、そんな「他人」の「容れもの」。
大事なのは、その「容れもの」の大きさです。
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「自分らしさ」にこだわる生き方なんてつまらない。
前回は、そんな話をしました。
私たちが「これが自分」と感じているものは、いろんな他人や社会から影響を受けて、その都度、変化していくもの。それを「これが自分」などと固定してしまうのは、実にもったいないことだ――と、お話しました。
そして、ここが肝心なところなんですが、そんなアテにならない「自分らしさ」なんていうものにこだわっていると、生きていることが窮屈になってしまいます。そして、苦しくなってきます。「自分らしさ」にこだわろうとして、周囲の人間たちとぶつかったり、周囲が自分を見る目とのギャップに苦しんでしまったりすることも、実にバカバカしいことだと思うのです。
「自分」なんていうものは、周囲からのいろんな働きかけを受けるために作られた「容れもの」だと思えばいい。
前回は、そこまでお話しました。
前回は、そんな話をしました。
私たちが「これが自分」と感じているものは、いろんな他人や社会から影響を受けて、その都度、変化していくもの。それを「これが自分」などと固定してしまうのは、実にもったいないことだ――と、お話しました。
そして、ここが肝心なところなんですが、そんなアテにならない「自分らしさ」なんていうものにこだわっていると、生きていることが窮屈になってしまいます。そして、苦しくなってきます。「自分らしさ」にこだわろうとして、周囲の人間たちとぶつかったり、周囲が自分を見る目とのギャップに苦しんでしまったりすることも、実にバカバカしいことだと思うのです。
「自分」なんていうものは、周囲からのいろんな働きかけを受けるために作られた「容れもの」だと思えばいい。
前回は、そこまでお話しました。

私は、こう言っていいかと思います。
「自分」という「容れもの」の中には、いろんな「他人」が棲んでいる。
そして、絶えず、いろんな「他人」が出たり入ったりしている。
この「他人」は、私たちが生まれる以前から、私たちの遺伝子の中に入り込んできます。
私たちは、母親の胎内にいる間から、魚になったり、両棲類になったり、爬虫類になったり、哺乳類になったり、サルになったり……と、「他人の生」を経験しながら、「ヒト」として生まれてきます。
生まれてからは、「父親」や「母親」という「他人」が、育児やしつけを通して、「自分」という「容れもの」を満たしていきます。
学校に通うようになると、友だちや先生が、この「容れもの」の中に入ってきて、いろんな書き込みを残していきます。
学年が進むと、本で読んだり、TVや映画などで見たりしたヒーローやヒロインが、重要な「他人」として登場します。男の子であれば、織田信長やナポレオンなどのヒーローが、女の子であれば、シンデレラやマリア・テレサのようなヒロインが、「あんな自分でいたい」と感じる「ひな型」として刷り込まれたりもします。
成長して、もっと大きな社会を経験すると、そこで出会った「尊敬できる先輩」や「あこがれの異性」が、あるいは、あなたが心から信頼できる「集団のリーダー」などが、「あんな人に自分もなりたい」と感じる「理想型」として意識されるようになるかもしれません。
そんなふうに、生まれてから現在まで、いろんな「他人」が通り過ぎたり、棲み着いたりした結果が、いま、あなたが感じている「自分らしさ」の成分なのだ――そう考えると、「自分らしさ」というものについてのこだわり方が、ちょっと違ってきます。
「自分らしさ」にこだわる、ということは、
「蓄積された過去の他人」にこだわるということです。
「自分を変える」とは、
そうして蓄積された「過去の他人」を消去する、ということです。
どちらもバカげている、と私は思います。
「自分らしさ」にこだわる必要も、それをムリに変える必要もまったくない。
ただ、あるがままに、いまある自分を受け入れ、そして、新しく加わってきて「自分らしさ」の要素になるかもしれない「新しい他人」を、シャットアウトしたりせず、いったんは、素直に受け入れる。
こういうスタンスで生きていると、生きていることが少しも苦痛ではなくなります。むしろ、楽しくて仕方のないものになります。
きょうは、どんな「他人」が自分の前に現れて、どんな影響を与え、どんなことを「自分」という「容れもの」の中に書き込んでくれるだろう? それを想像すると、ゾクゾクしたりします。

最初の質問に戻りましょう。
「自分らしさ」は大事ではないのか?――という質問です。
私の答えはこうです。

「自分」という「いのちの容れもの」に蓄積された
「他人」の蓄積としての「自分らしさ」ではなく、
これまでも、そしてこれからも、
数え切れないほどの「他人」を受け止め、吸収していくことのできる
「いのちの容れもの」としての「自分」の
大きさと柔軟性である。
「自分らしさ」なんかにこだわっていると、ほんとに大事なものを見逃してしまいますよ。
本日は、そんな話をさせていただきました。

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