心の抱き枕〈序〉 自分という「ペット」は飼いにくい

自分って何だろう?
そんなことを考え出すと、眠れなくなってしまいます。
考えてもわからないことは考えない。
それが、心に「抱き枕」を抱くための
第一のステップです。
そんなことを考え出すと、眠れなくなってしまいます。
考えてもわからないことは考えない。
それが、心に「抱き枕」を抱くための
第一のステップです。
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自分って何だろう?
自分って、いつもどうしてこうなんだろう?
なぜ、自分は「自分」であって、「あの人」みたいではないのだろう?
みなさんは、そんなことを考えて眠れなくなった経験、ありませんか?
ええ、こういうことを考え出すと、眠れなくなるんです。
なぜかと言うと、この「問い」には、「答え」がないからです。
「答え」がない「問い」を発して眠れなくなるなんて、バカげている。そう感じたときから、私は、そんな「問い」を発することを止めました。たぶん、15歳かそこらのときのことです。
それでも、この短くてはかない一生を生きていく限り、私たちは、否が応でも、このやっかいで、わけのわからない「自分」という「いのちの容れもの」とつき合っていかなくてはなりません。
まったく、これ以上の不条理はありません。
しかも、この「容れもの」は、「容れもの」のくせに、ときに、わけもわからず怒り出したり、すねてみせたり、悲しんだと思うと妙にはしゃいだり……と、御しがたいことこの上もありません。
「自分」とは、「自分」から見てもわけのわからない存在。
しかし、私たちは、そんな「自分」を、どこかで冷静に見てもいます。
「私って、○○な人なんだよねぇ」
「オレって、どうして○○なんだろうねェ」
などと言うときには、そんな「○○な自分」を客観的に見ている「自分」が、どこかに存在します。
こういう「自分」を「客観的な自分」としましょうか。
人は成長し、学習を積み、人間同士の社会を経験し、世界を見る目を養ううちに、そうして身につけた「客観的な目」で、自分自身を見つめる術を習得します。
しかし、まれに、そういう「客観的な目」を養わないままに、おとなになる人もいます。
そういう人の「自分」は、きわめて幼い精神状態のまま止まっているのですが、「自分」を見つめる「客観的な目」を持ってないわけですから、「自分ってどうして○○なんだろう?」などと思い悩むこともありません。
ただ、「ムカつく」「悲しい」「うれしい」などと、気分のままに生きているだけです。
残念ながら、私は、そういう人間には興味がありませんし、人間としておつき合いしようという気にもなりませんので、以下の話では、省略させていただくことにしたいと思います。
自分って、いつもどうしてこうなんだろう?
なぜ、自分は「自分」であって、「あの人」みたいではないのだろう?
みなさんは、そんなことを考えて眠れなくなった経験、ありませんか?
ええ、こういうことを考え出すと、眠れなくなるんです。
なぜかと言うと、この「問い」には、「答え」がないからです。
「答え」がない「問い」を発して眠れなくなるなんて、バカげている。そう感じたときから、私は、そんな「問い」を発することを止めました。たぶん、15歳かそこらのときのことです。
それでも、この短くてはかない一生を生きていく限り、私たちは、否が応でも、このやっかいで、わけのわからない「自分」という「いのちの容れもの」とつき合っていかなくてはなりません。
まったく、これ以上の不条理はありません。
しかも、この「容れもの」は、「容れもの」のくせに、ときに、わけもわからず怒り出したり、すねてみせたり、悲しんだと思うと妙にはしゃいだり……と、御しがたいことこの上もありません。
「自分」とは、「自分」から見てもわけのわからない存在。
しかし、私たちは、そんな「自分」を、どこかで冷静に見てもいます。
「私って、○○な人なんだよねぇ」
「オレって、どうして○○なんだろうねェ」
などと言うときには、そんな「○○な自分」を客観的に見ている「自分」が、どこかに存在します。
こういう「自分」を「客観的な自分」としましょうか。
人は成長し、学習を積み、人間同士の社会を経験し、世界を見る目を養ううちに、そうして身につけた「客観的な目」で、自分自身を見つめる術を習得します。
しかし、まれに、そういう「客観的な目」を養わないままに、おとなになる人もいます。
そういう人の「自分」は、きわめて幼い精神状態のまま止まっているのですが、「自分」を見つめる「客観的な目」を持ってないわけですから、「自分ってどうして○○なんだろう?」などと思い悩むこともありません。
ただ、「ムカつく」「悲しい」「うれしい」などと、気分のままに生きているだけです。
残念ながら、私は、そういう人間には興味がありませんし、人間としておつき合いしようという気にもなりませんので、以下の話では、省略させていただくことにしたいと思います。

少なくとも、「自分ってどうして○○なんだろう?」と思い悩む程度の「客観的な目」を備えた人にとって、「自分」ほど扱いにくい生きものはありません。
まるで、思い通りにならないペットのようなもの――でしょうか。
そうです。
人にとって「自分」とは、扱いにくいペットのようなもの。飼い方を間違えると、自分では御しきれない「やっかいもの」になってしまいます。
しかし、その飼い方さえ身につけておけば、わけもわからずムシャクシャと腹を立てて血圧を高めることも、「どうして自分だけが」とわけのわからない不幸感にとりつかれてふさぎ込んでしまうことも、原因不明の悲しみに襲われて食事ものどを通らなくなることも、たぶん、なくなります。
「自分」とは、上手につき合ってあげなくてはならない生きもの。
そう思ってケアにつとめてあげると、生きていることが少しラクになります。
少なくとも、「私って何?」なんていう愚かな問いを発して、もがき苦しむことはなくなります。
「こんな私はイヤだ」と自らを責めて、自己嫌悪に陥ることもなくなります。
「オレが」「私が」と過剰な主張を繰り広げて、だれかを傷つけることも、自らに傷を負わせることもなくなります。

よく、世間では、「自己管理」という言葉を使います。
しかし、私がここで言う「自分を飼う」「自分をケアする」ということと「自己管理」とは、まったく性質の違うものです。
「自己管理」とは、何かの目的のために「自分」を律するコントロールのことを言います。多くの場合、その目標やステップは、自分の外部に存在します。スポーツ選手なら、ある一定の記録や対戦成績を達成するために、ビジネスマンなら、企業などから示される実績を達成するために、一定の目標を提示され、それに向けて、自分の生活を律することを求められるわけです。管理するのは自分自身ですが、その目的や目標は自分の外部に存在しますから、このコントロールは「他律的」とも言えます。
しかし、「自分を飼う」「自分をケアする」には、特に目的や目標が設定されているわけではありません。
ただ、よりラクに「自分である」ために、「自分」の熱量をコントロールするだけの話です。「自分つまみ」を調節するだけの話です。このコントロールは、どこまでも「自律的」です。
呼吸や歩く速度を調節するように、「自分」を調節できたら……。
そう考えて、私は、「自分」にいくつもの「つまみ」を用意してきました。
このシリーズでは、何回かに分けて、そんな「つまみ」をご紹介していきたいと思っています。
よろしければ、ぜひ、おつき合いください。

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