なぜ日本人は、戦争指導者の責任を問わなかったのか?

実際に起こった出来事を「愛」の切り口で長住流に解説します。
先の大戦で300万の同胞を死に追いやり、若者たちを
「十死零生」の檄とともに死地に赴かせながら、
自らは延命を図ろうとした戦争指導者たち。日本人はなぜ、
その責任を追及しようとしなかったのでしょうか?
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きょう8月15日は、「終戦記念日」。実際の終戦は、9月3日であるとする説もありますが、天皇がいわゆる「玉音放送」で、ポツダム宣言受諾を全国民に表明したこの日を「終戦の日」とするのが一般的なようです。
軍民合わせて300万の国民を死に至らしめた「太平洋戦争」。
筆者は、この日がくるたびに、感じることがあります。
戦争の結末を十分に予測し得るだけの知力を持ち、当時の軍部指導者たちの戦争指揮を「愚かである」と看破しながら、それでも、自らの命を差し出して散っていった若者たちの「無念」の想い。
そういう若者たちを「十死零生」の掛け声で煽り続けた指揮官たちが、「私も必ずあとから行く」と送り出しておきながら、その後、「死ぬばかりが責任のとり方ではない」などと身を翻して、保身に回った醜い姿。
私には、どうしてもひとつだけ、解せない疑問が残るのです。
なぜ、日本人は、こうした指導者たちの責任を問わなかったのか――という疑問です。
連合国による「極東裁判」なんかの前に、なぜ、自ら東条英機ら当時の指導者たちの首に縄をかけ、吊るしてしまわなかったのか?
それくらいひどいことを、当時の戦争指導者たちはやったのに――と思うのです。
軍民合わせて300万の国民を死に至らしめた「太平洋戦争」。
筆者は、この日がくるたびに、感じることがあります。
戦争の結末を十分に予測し得るだけの知力を持ち、当時の軍部指導者たちの戦争指揮を「愚かである」と看破しながら、それでも、自らの命を差し出して散っていった若者たちの「無念」の想い。
そういう若者たちを「十死零生」の掛け声で煽り続けた指揮官たちが、「私も必ずあとから行く」と送り出しておきながら、その後、「死ぬばかりが責任のとり方ではない」などと身を翻して、保身に回った醜い姿。
私には、どうしてもひとつだけ、解せない疑問が残るのです。
なぜ、日本人は、こうした指導者たちの責任を問わなかったのか――という疑問です。
連合国による「極東裁判」なんかの前に、なぜ、自ら東条英機ら当時の指導者たちの首に縄をかけ、吊るしてしまわなかったのか?
それくらいひどいことを、当時の戦争指導者たちはやったのに――と思うのです。

戦争末期、多くの学生たちが学徒動員の名のもとに徴集されましたが、その中の多くが「特攻作戦」に組み入れられました。表向きは「志願」を募った、ということになっています。しかし、「志願であった」というのは、指揮官たちの責任逃れであろう――と、筆者は推測しています。いや、仮に「志願」であったとしても、そのような作戦はとるべきではない、と諭すのが、指揮官たる者の務めではないかと思うのですが、記録に残っている限りでは、当時の軍部で、正面きって、この「特攻作戦」に異を唱えたのは、わずか1名でした。
昭和20年2月のことです。
木更津にあった海軍航空基地で、連合艦隊司令部による作戦会議が開かれました。その中で、主席参謀が、「沖縄作戦は全員特攻作戦を行う」と説明しました。100人ほどが列席していた航空部隊指揮官は、黙ってその指示に従うしかない、という空気だったのですが、そこで、ひとり手を挙げたのが、芙蓉部隊の指揮官だった美濃部少佐でした。
「特攻のかけ声ばかりでは勝ち得ません」と異議を唱える美濃部に、主席参謀は色をなして言います。
「必死尽忠の士が進撃するとき、何者がこれを遮るのか? 第一線の指揮官の言とは思えない」
これに対して美濃部は、
「死を恐れる者など、だれもいない。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義があり、しかも死して意義のある勲を立てたい。単なる精神力の空念仏では、心から喜び勇んで立てない。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい」
と主張し、「自分は、そのような作戦を部下に命令することはできない」と、一歩も譲りませんでした。
このとき、美濃部少佐が口にした「精神力の空念仏」とは、当時、首相であり、陸相であり、参謀総長までも兼務していた東条英機の口ぐせでした。

東条は、その頃、しきりにこう言っています。
「戦争とは意志と意志の戦いである」
航空機が飛び交う近代戦で、勝敗を分けるのは「精神力」だと言うのです。
昭和19年の初め、高射砲の技術を教える学校に視察に赴いた東条は、学生たちを前に、こんな質問を投げかけます。
「敵機が飛んできたら、君たちは何でその敵機を撃ち落とすつもりか?」
学生たちは口々に「高射砲です」と答え、「何インチの砲だと撃ち落とせます」などと答えるのですが、東条はそれらを「いや、違う」とことごとく否定して、言いました。
「敵機を撃ち落とすのは、一にも二にも精神力だ」
さすがにこれには、学生たちも戸惑いを隠せなかった、と言います。
これではまるでカルトの教祖じゃないか――と、筆者は思うのです。
「修行すれば、空中浮遊できる」などと言って、信者を追い込んでいった麻原彰晃と、どこが違うのか?
東条は国民に向かっても、こういう演説を繰り返します。
「国民が負けたと思ったときが負け。負けないと思ったときは負けない」
国民の最後のひとりが死のうとも、「負けた」と言わなければ「負けない」。東条は、さかんにこういう精神論を唱えて、国民を破滅の縁まで追い込んでいったわけです。
もはや、正常な神経状態とは思えません。
その罪は、万死に値する。
なぜ、国民は、その罪を裁こうとしなかったのか?

もし、いま、戦争の責任者たちを裁く裁判を開くとしたら、その被告席に座るべきは、まず第一に、東条英機を中心とする軍首脳。そして、「私も必ずあとから行く」と若者たちを死地に赴かせた指揮官たちだろう、と思います。
そして、もう一団は、当時の新聞です。
東条らの振り回す精神論に乗っかり、「神鷲」だの「神州」だの「神兵」だのと、美辞麗句を連ねて国民をミスリードした罪は、決して小さくないと筆者は思っています。その先頭に立って騒ぎ立てたのが、当時の『朝日新聞』でした。
私が、新聞・TVなどの大マスコミを信用しないのは、そういう理由からでもあるのですが、沖縄戦で特攻隊員として散ったある海軍少尉候補生(23)も、そのころの新聞記事などのあり方を、日記の中でこう皮肉っています。
《俺の回りには十数人がゴロゴロ、ゴロゴロ寝ている。之が皆、生神様と新聞で言われている連中だ。俺もその一人だそうだ。新聞なんて、馬鹿なことを言うもんだ。(中略)新聞紙上を賑わすような死に方は俺は真平御免だ。遊び半分で死ぬんぢゃないんだからね。
俺は昔は新聞紙上で勇壮な記事を見て感激したが、今静思するにあれは驚くべき錯誤だね。黙ってニッコリ笑って自己の本領を発揮して新聞記事に載らない人間が如何に多く、そしてそのような人等こそ本当の偉人だということを俺は知っている。俺は新聞なんかに載せられて茶化されんのは厭だね。
はっきり言うが、俺は好きで死ぬんぢゃない。何の心に残る所もなく死ぬんぢゃない。国の前途が心配でたまらない。俺の抱いている爆弾は君等を守る爆弾だ。それを俺が実行しなくて誰がする》
俺は昔は新聞紙上で勇壮な記事を見て感激したが、今静思するにあれは驚くべき錯誤だね。黙ってニッコリ笑って自己の本領を発揮して新聞記事に載らない人間が如何に多く、そしてそのような人等こそ本当の偉人だということを俺は知っている。俺は新聞なんかに載せられて茶化されんのは厭だね。
はっきり言うが、俺は好きで死ぬんぢゃない。何の心に残る所もなく死ぬんぢゃない。国の前途が心配でたまらない。俺の抱いている爆弾は君等を守る爆弾だ。それを俺が実行しなくて誰がする》
この若き海軍少尉候補生が「新聞なんかに載せられて茶化される」と評したのは、「陸海の神鷲 相次ぐ必殺の体当たり」などと、ハデハデしく書き立てた当時の新聞記事のありようでした。「好きで死ぬんじゃない」という特攻隊員たちの複雑な精神のありようを、「必殺の」などと書きたてては喜んでいるように見えるジャーナリズムのあり方に、怒っているようにさえ、筆者には感じられます。

何よりも、筆者が許せないと感じるのは、こうして若者たちを「人間爆弾」に仕立て、国民にも「1億火の玉」などと犠牲を求め、「死んでも虜囚の辱めを受けることなかれ」と戒めておきながら、戦争が終結すると同時に、「死ぬばかりが責任の取り方ではない」などと身を翻した戦争指導者たちです。
「私も必ず後から行く」と言って、少年兵たちに爆弾を抱かせて飛び立たせた特攻基地司令官の中で、ほんとうに自決したのはわずか2名。残りは、「慰霊のために」などと称しては、延命を図りました。
終始、「精神力」を説き続けた東条英機にいたっては、ピストル自殺を図りますが、自分の頭を撃ち抜く「精神力」さえ持てずに未遂に終わり、「虜囚の辱め」を受けた挙句に、処刑されました。何と言う無様。
しかも、あろうことか、こういう連中が、「英霊」として、靖国神社に祭られていたりするのです。
それら愚かで醜い指導者の過ちを知りながら、「捨石」となることを覚悟して、海に、山に散っていった命の、なんと尊いことか。それを思うと、筆者の胸は、ただただ痛むばかりです。
あれから67年。
いまの私たちの社会は、彼らが「そのための捨石になろう」と願った社会にふさわしい社会になっているだろうか?――と、私は、この頃、よく考えます。
確かに、国土は豊かに蘇ったかもしれない。
しかし……と思うのです。
この社会を襲うさまざまな問題に対して、相変わらず、この国の統治機構は、「言い逃れ」「責任逃れ」ばかりを繰り返しているような気がします。
国民に「死ね」と命じておきながら自らの保身を図ったような、あの時代の統治者たちの体質は、いまも、少しも変わることなく続いているのではないか……?
この稿の最後に、特攻隊員として散っていった兄の姿を見送った妹が語った次の言葉をご紹介しておきましょう。

われわれもすぐに君たちの後を継いで飛び立つと言って激励したそうです。
でも、誰も、その後飛び立たなかったと聞いています。
その言葉を信じた兄たちは、その事実がわかったとしたら、どんな気持ちになるでしょう。

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