総理が「原爆の日」に顔を上げられなかった理由

実際に起こった出来事を「愛」の切り口で長住流に解説します。
8月6日は広島に、9日は長崎に、原爆が投下された日です。
広島での「平和記念式典」に出席した野田総理は、
顔も上げずに、用意された原稿を棒読みしただけでした。
その原稿には、「原発維持」の姿勢さえ垣間見えて……。
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昨日、8月6日は、広島に原爆が投下された「原爆の日」。
そして、8月9日は、長崎。
ほんとうは、2発目は、現・北九州市にあった八幡製鉄所などの重工業施設をネラって投下するはずだった――と言われています。
当初の計画どおり投下されていれば、あるいは筆者は生まれていなかったのかもしれませんが、当日の気象条件がわるくて、目標が長崎に変更された、と言われています。
あれから、67年。
被爆を「体験」として語れる世代も高齢化し、このままでは、世界で唯一の「被爆」という貴重な体験が風化してしまうのではないか――とも懸念されています。
筆者が小学生の頃、当時の学級担任が黒板に歌詞を書いて歌って見せたのが、『原爆許すまじ』という曲でした。その頃は、一番の歌詞しか知らなかったのですが、この曲の歌詞は、全部で四番まであります。
福島の事故が起こったいま、あらためてこの歌詞を読んでみると、現在の状況が歌詞と重なって目に浮かびます。
少し長くなりますが、全文をご紹介しておきましょう。
筆者が懸念するのは、こういう「忘れてはいけない記憶」が、私たち日本人の脳裏から消え去ってしまうことです。67年前の被爆体験どころか、わずか1年前の「福島の記憶」さえ消し去って、原発再稼動に突っ走ろうとする人々が、この日本の社会にはいる――ということに、筆者は、言い知れぬ怒りを覚えてしまうのです。
そして、8月9日は、長崎。
ほんとうは、2発目は、現・北九州市にあった八幡製鉄所などの重工業施設をネラって投下するはずだった――と言われています。
当初の計画どおり投下されていれば、あるいは筆者は生まれていなかったのかもしれませんが、当日の気象条件がわるくて、目標が長崎に変更された、と言われています。
あれから、67年。
被爆を「体験」として語れる世代も高齢化し、このままでは、世界で唯一の「被爆」という貴重な体験が風化してしまうのではないか――とも懸念されています。
筆者が小学生の頃、当時の学級担任が黒板に歌詞を書いて歌って見せたのが、『原爆許すまじ』という曲でした。その頃は、一番の歌詞しか知らなかったのですが、この曲の歌詞は、全部で四番まであります。
福島の事故が起こったいま、あらためてこの歌詞を読んでみると、現在の状況が歌詞と重なって目に浮かびます。
少し長くなりますが、全文をご紹介しておきましょう。
一、ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらが街に
二、ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海に
三、ふるさとの空重く
黒き雲大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空に
四、はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
世界の上に
身よりの骨うめし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらが街に
二、ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海に
三、ふるさとの空重く
黒き雲大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空に
四、はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
世界の上に
筆者が懸念するのは、こういう「忘れてはいけない記憶」が、私たち日本人の脳裏から消え去ってしまうことです。67年前の被爆体験どころか、わずか1年前の「福島の記憶」さえ消し去って、原発再稼動に突っ走ろうとする人々が、この日本の社会にはいる――ということに、筆者は、言い知れぬ怒りを覚えてしまうのです。

6日に行われた広島の「平和記念式典」では、広島市の松井市長がこうあいさつしました。

これに対して、列席した野田総理は、福島原発事故に触れた上で、こう述べています。

基本方針は、「脱原発」ではなく、「脱原発依存」だと言うのです。
わかりやすく翻訳するとこうなります。
《原発は止めないけれど、原発に依存するエネルギー体制からは脱却する》
さらに、「中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立」とは、
《(原発も含めて)より安全なエネルギー構成の比率を確立する》
ということです。
つまり、「平和記念式典」に臨みながら、われらが野田総理は、「原発維持」を宣言されたも同然なわけです。
なんとも、お見事な作文というほか、ありません。

さて、筆者は、この間の総理のパフォーマンスにも注目しました。
これらの「あいさつ文」を、野田総理は、原稿からただの一度も顔を上げることなく、棒読みしました。
少なくとも、自ら案を練って書き上げた原稿であれば、そして、それが本心から出た言葉であれば、人は、必ず顔を上げて、聴いている人たちの顔を見ようとします。心理学的にも、人とは、そのような生きものである――と、筆者は確信しています。
しかし、総理は、ただの一度も、それをしませんでした。
消費税増税法案のときは、あれほど「心から」と力を込めて話し、議場をニラむようにねめつけた総理が、「ただの一度も」です。
そして、だれが書いたのか知らない原稿を棒読みした総理は、あいさつが終わるやいなや、そそくさとクルマに乗って会場を後にしてしまいました。
これらのパフォーマンスが意味することは何か?
心ここに非ず――です。
あるいは、「あ~あ、心にもないことを言わされちゃった」です。
筆者は、こう推察します。
この総理には、「原発から脱却しよう」なんて気は、さらさらない。
ないどころか、「将来の核保有の可能性を0にしないためにも、原発は維持しておく必要がある」と考えているのかもしれない。
先ごろ発足した「原子力規制庁」の立ち上げに際して、「安全保障上の理由」を一文として盛り込んだ背景には、そんな企みも隠されているのでないか――と、筆者はニラんでいます。
この総理や、この総理と歩を一にしようとする諸勢力には、この国の将来は託せない。
そう強く感じた筆者でありました。

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