生まれ変わるか? 復活か?《世界を二分する死生観》
不純愛トーク 第227夜
「葬式」のために生きるなんてバカげている――という話からスタートした「人は死んだらどうなるか?」という話。今回は、この問題に関しては、世界的に2つの文化がある、という話を紹介します。ひとつは、前回、詳しく触れた「生まれ変わり」の文化。もうひとつは、「復活」の文化。あなたはどちらがお好みですか?
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AKI 前回、気になることをおっしゃいましたわね。「生まれ変わり」コースのほかに、「復活」コースがある――とかなんとか?
哲雄 ありますよぉ。世界中を見渡すと、実は、この「復活コース」のほうが多いんでございます。
AKI 「復活」っていうのは、あれですか? つまり、死人が生き返る……ってことですか?
哲雄 そうです。
AKI たとえば哲ジイが死んでも、いつの日か、再び「長住哲雄」として生き返るってことですか? ウジ虫とかに姿を変えるんじゃなくて……?
哲雄 なんで、私がウジ虫なんですか?
AKI ま、なにげに似てるから……なんて、ハハ……ジョーダンですわ。
哲雄 AKIクン、この世界には、人が死んだら火葬にする文化と土葬にする文化があるの、ご存じですか?
AKI ハ、ハイ。キリスト教圏は、確か……土葬ですよね。
哲雄 イスラム教も、ユダヤ教も、土葬です。最近は、墓地の問題もあるので、キリスト教の世界では、一部、火葬も取り入れられていますが、イスラムの世界では、いまでも、火葬なんてとんでもない、と考えられています。
AKI 仏教は火葬ですよね? ヒンドゥも……?
哲雄 一部、風葬とかのところもあるようですが、基本的には荼毘(だび)に付しますわね。この違い、どこから来てると思います。
AKI ゾンビになるかならないか……の違い?
哲雄 オッ、近い! 実はこれ、「生まれ変わり」を信じるか、「復活」を信じるか、の違いなんです。
AKI わかった! 焼いちゃうと、復活できないからだ!
哲雄 ビンゴ! ユダヤ教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、死者は、「最後の審判」のときに、もう一度、審判の場に呼び出されて、地獄行きか天国行きかが決められる――というふうに考えられています。つまり、死者は、この審判を受けるために、一度は復活しなくてはならない。ところが、死体を焼いてしまうと、復活すべきボディがなくなってしまう。これ、困るでしょ?
AKI ヘェ、復活のためには、ボディが必要なんだ?
哲雄 そうらしいですよ。なので、エジプトでは、王の遺体をミイラにして保存したりしました。元々、この「復活」という考え方が生まれたのも、古代エジプトの「オシリス信仰」からなんだよね。
AKI オ・シ・リ・ス……? 初めて聞く名前ですけど。
哲雄 オシリスというのは、古代エジプト王朝の王でした。ところが、この王は、あるとき弟に殺されて、王位を奪われてしまうんですね。そして、その死体はバラバラにされてナイル川に捨てられてしまいます。嘆き悲しんだオシリスの妻・イシスは、バラバラにされた遺体を拾い集めてミイラにし、その魂を復活させます。
AKI スゲェ、奥さん! バラバラ死体を集めちゃったんだ。
哲雄 余談だけど、このとき、なぜかペニスだけが見つからなかった。カニに食われてしまったんだって。なので、イシスは、人工のペニスをこしらえて、ミイラを完成させた、と伝えられています。これ、もしかしたら、世界初のハリボテかもしれないね。
AKI まさか、それで、アレをしちゃった……なんてことはないですよね?
哲雄 さぁ、それはどうだか……。でもね、この神話から、人々の間には、強烈なイシス信仰が生まれました。後のローマ帝国時代になると、帝国内のいたるところに、女神・イシスを祭る祭祀所が造られたりしました。その信仰があまりに根強いので、やっと教勢を広げつつあった当事のキリスト教会は、その女神信仰をマリア信仰という形で吸収することにした、と言われています。
AKI てことは、マリア様の原型は、女神イシスだったってことですか?
哲雄 というより、キリスト教会が、あまりにも根強かった女神イシス信仰を、教勢拡張のためにアイデアだけお借りした、というのに近いと思います。一神教であり、なおかつ偶像崇拝を戒めているキリスト教が、マリア崇拝なんか、認めるはずがない。本来なら、異端審判に付されるような問題だけど、当時のローマ教会は、むしろそれを、教勢拡張のために利用しようと考えたんだね。
AKI ちょっと、話が横道に逸れてしまいましたけど……。
哲雄 そうですね。それでね、こうしてエジプトで生まれた復活信仰は、後に、ペルシャで興ったゾロアスター教に受け継がれ、そこで、「終末の到来」と「最後の審判」という概念が付け加えられます。そして、その概念は、後のユダヤ教に取り入れられ、さらにキリスト教にも受け継がれていくんですね。
AKI 復活のためにボディが必要という考え方は、そのオシリスとイシスの神話から始まっているわけですね?
哲雄 ま、そういうことになりますね。キミはどっちが好きですか?
AKI エッ、どっちって……?
哲雄 つまり、「生まれ変わり」か「復活」か――ってことだけど。
AKI ど、どっちもイヤかもしれない。
哲雄 わがままな女ですねェ、キミも。
AKI だって、どっちも、「最後のお裁き」があるじゃないですか?
哲雄 フム……罪深き乙女としては、そこが気になるわけですね。
AKI だから、「往生コース」がいいんです。ねェ、哲ジイ、「復活コース」のほうには、「解脱」とか「往生」っていう考え方はないんですか?
哲雄 ありますよ。
AKI エッ、あるんだぁ!
哲雄 キリスト教で言う「救い」という考え方は、仏教で言うところの「往生」に近いかもしれませんねェ。
AKI でも、「最後の審判」のために呼び出されるんでしょ?
哲雄 そうなんだけど、キリスト教の場合はね、その審判まで待たなくても、「あなたは、あらかじめ、赦されるんですよ」と教えてます。というのも、イエスがすべての人間の罪を背負って、あなたの代わりに神の罰を一身に引き受け、その罪を購ってくれたから。そのイエスを通して示された神の愛を信じるならば、その時点で、あなたは永遠の命を得るであろう――と言ってるんですね。
AKI あ、そうか。念仏を唱え、弥陀の慈悲にすがれば、往生が決まる――っていうのと、何となく、似てますね。
哲雄 ハイ、似てます。この最後の審判との関係で言うと、アブラハム系の各宗派にも、仏教の各宗派の中にも、ビミョーな温度差があります。「自力」つまり自らを律して戒めを守らないと、救われないぞ――とする考え方と、「他力」つまり信じて神なり仏なりの慈悲にすがれば救われますよ――とする考え方が、相対立してるわけですね。いちばん厳しいのは、アブラハム系だとユダヤ教で、仏教だと小乗仏教。いちばん寛容なのは、キリスト教と浄土真宗。イスラム教と大乗仏教の比叡山系とか高野山系、禅宗系は、その中間というところかな……と、私は思っています。
AKI 私、簡単なのがいい。
哲雄 でしょうね。しかしね、簡単にするためには、自分の罪深さを認めなくちゃダメですよ。「私はわるいことなんかしてないもん」とか、「○子よりはまだましよ」なんて思ってたら、キミの魂は、神の愛によっても、仏の慈悲によっても、救われなくなります。
AKI 認める、認める。エステティシャンAKIは、罪深い女でございます。
哲雄 その軽さ、なんだか気になるなぁ。

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