もしも、時計が左回りを始めたら?〈5〉 「過去」を運ぶタクシー

さまざまな「過去」を連れてきた。
最初は、17年ぶりに会う戸田菜穂。
その帰りに乗ったタクシーは、
その日の往路で拾ったタクシーで、
しかもそのタクシーは、10年前にも、
ボクを乗せたことがあると言う——。
連載
もしも時計が左回りを始めたら? 第5章

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ここまでのあらすじ 8年間つき合った希美が、「別れてください」と切り出してから、ボクの腕時計は、ナゾの左回りを始めた。その瞬間から、ボクの「時間」は逆流を始めたのだった。修理しようかと見せた時計職人は、「コレ、修理するんですか?」と意外な顔をした。「せっかく逆回転を始めてくれたのに」と言うのだった。それまで腕時計などしなかったボクが、その腕時計を手首にはめたのは、16歳年下だった希美に、「セクシーじゃない」と言われたからだった。その時計が逆回転を始めた。逆回転とともに、ボクの周りでは不思議なことが起こり始めた。ある日、取材先を訪ねるために電車に乗っていたボクの隣に、いきなり、ドカッと腰を下ろしてきた女性。「なんで、こんなところに?」と声をかけてきたのは、17年前に、女性雑誌の編集部で編集者とライターとして、親しくつき合っていた戸川菜穂だった。過去が、次々に、ボクの「現在の時間」に立ち現れた――
戸川菜穂と驚きの再会を経験したその日、もうひとつ、ボクを驚かせたことがあった。
取材先での取材を終え、都心の駅まで戻って来たボクは、事務所に戻るかどうか迷ったが、そのまま仕事をする気になれなかった。
菜穂から聞いた「オッパイ、なくなっちゃうかも」という言葉が、頭の中に、錘のようにぶら下がっていた。
飲みに行くか……。
ボクは、走って来たタクシーに向かって手を挙げた。
開けられたドアから体を滑り込ませた途端、運転手が「おや?」と、意外そうな声を挙げた。
「午前中にお乗りいただいたお客さんですよね?」
「エッ」と思って運転手の顔を見た。分厚い眼鏡をかけ、うっすらと顎髭を生やした顔に見覚えがあった。その日の午前中、出版社との打ち合わせを終えて取材先に向かう電車に乗るために、駅までタクシーを利用した。どうやら、そのときの運転手らしかった。
「珍しいですねェ。長いことタクシーやってますが、一日に2回、同じお客さんを乗せるなんての、初めてですよ」
「いやぁ、ボクも初めてだ。あるんだねェ、こんなことが」
「それだけじゃないんですよ。お客さん、以前、××スポーツの仕事をされてたこと、ありませんか?」
「エッ、なんでそれを?」
「もう10年以上前になりますかね。私がタクシーの仕事を始めたばかりの頃でした。お客さん、品川の新聞社から新宿の区役所通りまで行ってくれ――と乗って来られたんですよ。道、わかりますかとお尋ねしたら、お客さん、教えてくださったんです。札ノ辻から慶大の正門前を通って仙台坂を上り、聖路加の脇を通って、外苑西通りから四谷へ抜けて……って、そりゃもう、詳しいの、なんの。東京の道なんてさっぱりだった私は、お客さんのおかげで、東京の道を覚えまくるゾって思ったんですよ。だから、午前中、乗って来てくれたお客さんを見て、アッと思いましてね。それが一日に二度もっていうんですから、こっちが驚いちゃいますよ」
『××スポーツ』の仕事をしていたのは、希美と出会う前だった。
スポーツ紙の一面をすべて編集するという「社外デスク」の仕事を引き受けていたボクは、来る日も来る日も、1面分の記事をまとめては、それを夜の11時までに本社の整理部に届けていた。1年365日、一日も休めない。風邪もひけない。
そんな生活を5年ほど続けていただろうか。
その頃のボクは、翌日の紙面原稿を品川の本社の深夜入稿口に届けると、タクシーを拾っては、新宿の行きつけの店に駆け付け、生ギターやピアノで2、3曲歌っては家路をたどるというのが習慣になっていた。
ボクのもっとも荒んだ数年間。たまたま、一日に2回も拾う羽目になったそのタクシーは、まるでタイムマシーンのように、ボクを10数年前の荒廃した時代へと連れ返した。
取材先での取材を終え、都心の駅まで戻って来たボクは、事務所に戻るかどうか迷ったが、そのまま仕事をする気になれなかった。
菜穂から聞いた「オッパイ、なくなっちゃうかも」という言葉が、頭の中に、錘のようにぶら下がっていた。
飲みに行くか……。
ボクは、走って来たタクシーに向かって手を挙げた。
開けられたドアから体を滑り込ませた途端、運転手が「おや?」と、意外そうな声を挙げた。
「午前中にお乗りいただいたお客さんですよね?」
「エッ」と思って運転手の顔を見た。分厚い眼鏡をかけ、うっすらと顎髭を生やした顔に見覚えがあった。その日の午前中、出版社との打ち合わせを終えて取材先に向かう電車に乗るために、駅までタクシーを利用した。どうやら、そのときの運転手らしかった。
「珍しいですねェ。長いことタクシーやってますが、一日に2回、同じお客さんを乗せるなんての、初めてですよ」
「いやぁ、ボクも初めてだ。あるんだねェ、こんなことが」
「それだけじゃないんですよ。お客さん、以前、××スポーツの仕事をされてたこと、ありませんか?」
「エッ、なんでそれを?」
「もう10年以上前になりますかね。私がタクシーの仕事を始めたばかりの頃でした。お客さん、品川の新聞社から新宿の区役所通りまで行ってくれ――と乗って来られたんですよ。道、わかりますかとお尋ねしたら、お客さん、教えてくださったんです。札ノ辻から慶大の正門前を通って仙台坂を上り、聖路加の脇を通って、外苑西通りから四谷へ抜けて……って、そりゃもう、詳しいの、なんの。東京の道なんてさっぱりだった私は、お客さんのおかげで、東京の道を覚えまくるゾって思ったんですよ。だから、午前中、乗って来てくれたお客さんを見て、アッと思いましてね。それが一日に二度もっていうんですから、こっちが驚いちゃいますよ」
『××スポーツ』の仕事をしていたのは、希美と出会う前だった。
スポーツ紙の一面をすべて編集するという「社外デスク」の仕事を引き受けていたボクは、来る日も来る日も、1面分の記事をまとめては、それを夜の11時までに本社の整理部に届けていた。1年365日、一日も休めない。風邪もひけない。
そんな生活を5年ほど続けていただろうか。
その頃のボクは、翌日の紙面原稿を品川の本社の深夜入稿口に届けると、タクシーを拾っては、新宿の行きつけの店に駆け付け、生ギターやピアノで2、3曲歌っては家路をたどるというのが習慣になっていた。
ボクのもっとも荒んだ数年間。たまたま、一日に2回も拾う羽目になったそのタクシーは、まるでタイムマシーンのように、ボクを10数年前の荒廃した時代へと連れ返した。